第四百十話 おおかみのこども(十二)
不幸な事故に遭ったとでも想っていればいい――。
家路を急ぐ春雪の脳内を過るのは、透明人間の残した言葉だ。
思考の整理をするための散歩を早々に切り上げ、来た道を引き返すのは、もちろん、家族が心配だからに他ならない。
最愛の妻と最愛の娘。
春雪にとっては、数少ない家族である。
ネノクニで生まれ育った彼には、家族というものがなかった。
彼の両親が幻魔災害に遭遇して命を落としたのは、物心が付く前のことだ。記憶にすら残っていない。どうやら春雪もその現場にいて、幸運にも生き残ったというのだが。
不幸な事故。
(なにが事故なものか)
事故とは、不意に起こる出来事であり、必然的に起きることなどではあるない。彼はそう考えている。
確かに予期せぬ出来事ではあったし、想像だにすらしていない事態ではあったのだが、しかし、彼にはとても事故などと呼べるような状況ではなかった。
春雪の人生が、過去が、突如として牙を剥き、立ちはだかってきたのだ。
それはもう、不幸な事故として片付けていいことではない。
無論、両親の死も、反戦団組織フェンリルの壊滅も、不幸な事故などではないのだが。
春雪自身の家族が人質に取られているこの状況をこそ、不幸な事故などと呼びたくはなかった。
どうとでもなったはずだ。
どうにでも出来たはずだ。
対処法ならばいくらでもあったはずではないのか。
そんなことばかりが、彼の脳内を堂々巡りに巡っている。
どうとでもとはいうが、ならば、なにが春雪にできたのか。どうにでも出来るとは、なんなのか。いくらでもある対処法の一つでも思い浮かべればいい――春雪は、頭の中に浮かぶ反論に苦い顔をしながら、ようやく眼前に見えてきた我が家になんの変化も見えないことに安堵した。
だが、安心するにはまだ早い、ということも、彼は理解している。
すぐさま玄関から家の中に入れば、麻里安が彼を出迎えた。若緑色の長い髪を一つに束ねた女性。普段通り穏やかな眼差しの彼女は、しかし、少しばかり不思議そうな表情で彼を見ていた。
「あら? 今日は随分と早いのね? 考え事は纏まった?」
「あ、ああ……纏まったよ」
詰まりながらもなんとかひねり出した返答は、自分らしからぬものだと理解しながらも、もはやどうすることもできなかった。
麻里安が疑問を持ったのは、春雪の夜の散歩は、普段通りならば三十分以上はかかるからだ。しかし、今夜は十数分足らずで帰ってきている。しかも額に汗まで浮かべて、だ。
大急ぎで帰ってきたらしいということは春雪の様子を見れば一目でわかるのだが、麻里安は、敢えて問わなかった。春雪の仕事を考えれば、迂闊に尋ねるべきではないことくらいわかろうというものだろう。
春雪は、戦団の情報局に務めている。
麻里安は、結婚を機に退職したものの、元々は、戦団の導士であり、彼と同じ情報局に勤めていた。情報局の仕事は多岐に渡り、麻里安と春雪の職場こそ同じだったが、職務の内容は全く異なるものだ。
そして、同じ情報局内でも、互いに秘密を抱えていることも少なくなく、故に、どうしてこうも理解し合うことができたのだろう、と、不思議に思うこともしばしばだった。
理解し合えたからこそ、結ばれ、家庭を持つに至ったのであり、そのことの幸福を麻里安は常日頃から感じている。
春雪ほど理想的な伴侶はいないし、模範的な父親もいないだろう、と、麻里安は、彼の額の汗をぬぐってやりながら、想うのだ。
「ああ、いつも気を使わせて、済まないね」
「それはお互い様、でしょう」
麻里安は、春雪の気遣いぶりに微笑み、彼がようやく緊張感から解放される様を見ていた。
春雪は、普段通りの妻の反応から、この家の中に透明人間の同志が潜り込んでいる様子はなさそうだと把握し、それによって安堵したのだ。
妻の手を取り、その体温を肌で感じて、さらに安心感を得る。不思議そうな麻里安の眼差しが、程なく、照れくさそうな微笑みに変わったのを見て、彼もまた微笑んだ。
家の中に問題はない。
あるとすれば、書斎に置いている記録媒体だ。
あれが有る限り、〈おおかみのこども〉たちのいいなりにならざるを得なくなる。
(いや……)
春雪は、洗面所で手を洗い、うがいをしながら、胸中で頭を振る。
もはや、どうにもなるまい。
透明人間があのとき記録媒体の機能を見せつけてきたのは、彼ら〈おおかみのこども〉が升田家を監視下に置いているということを春雪に報せるためだ。明らかな脅迫であり、春雪の行動を制限しようとしているのだ。
春雪が、なにか彼らにとって都合が悪い行動を取れば、その瞬間、麻里安と春花の安全は保証できない――透明人間は、言外にそう告げてきていた。
春花の部屋を覗き見れば、暗闇の中、すっかり眠り込んでいる愛娘の健やかな寝顔を確認できて、春雪は、重苦しい気分をどうにかして撥ね除けた。
いまの自分にいったいなにができるというのか。
いったい、なにをするべきなのか。
情報局副局長補佐として、この情報を戦団に報せるべきなのか。
だが、そんなことをすれば、どうなるのか。
書斎に足を踏み入れた彼は、机の上に放置したままだった琥珀色の物体を無造作に掴んだ。
この古くさい記録媒体には、なんの仕掛けも施されていなければ、なんの記録も残されていなかった。そんなものを春雪に寄越した理由は、つい先程、思い知ることができたというわけだ。
彼らにしてみれば、物はなんでも良かったのだ。記録媒体である必要性は、極めて低い。ただ、情報局で働いている人間という立場から、記録媒体を選んだだけだろう。
実際、なんの情報もはいっていなければ、なんの仕掛けも施されていない記録媒体には、全くの価値がない。
だからこそ、春雪は、持ち帰ってくることができたのだが、それこそが透明人間たちの目論見だったのだ。
透明人間か、その同志のいずれかがこの記録媒体に魔法を仕掛けたに違いない。それも、記録媒体の検査が終わってから、彼が仕事を終え、帰路に着こうとしている間に、だ。
その魔法でもってこの家を掌握し、春雪の心までもを支配してしまった。
春雪は、記録媒体を握り潰そうとして、諦めた。そんなことをしても、もはやどうにもならない。
この家は、〈おおかみのこども〉たちの監視下にある。
暗澹たる気分で、彼は、椅子に座った。
なにを、成すべきか。
「上手くいったようね」
松下ユラが抱擁でもって出迎えてくれたものだから、長谷川天璃も彼女を抱きしめることで親愛の情を示して見せた。
「ああ、上手くいったよ。悠生のおかげでね」
天璃は、ユラが頬ずりさえしてくるのを受け止めながら、室内の一角に腰を落ち着けた同志の様子を見た。
近藤悠生は、テーブルの上に並べたいくつもの記録媒体を眺めている。琥珀色の記録媒体は、いまやほとんど使われていない代物だが、希少価値があるわけでもなかった。地上にも地下にも、どこにだってありふれているだろう。
それら記録媒体を使ったからといって、足が着くことなどありえない。
悠生が、天璃に目を向ける。一仕事を終えた頭首の表情は、どうにも晴れ晴れとしていた。
「彼は、なんと?」
「心底困惑していたよ」
天璃は、苦笑交じりに告げると、着込んでいたコート型の魔具を脱いだ。
「当たり前でしょうね」
ユラが天璃から魔具を受け取ると、大事そうに抱えながら室内を移動する。コート型の魔具は、彼の魔法を安定化させるためのものであり、今回のような任務に打って付けだった。
全身を透明化する魔法は、極めて制御が難しく、ちょっとしたことで周囲の風景との誤差が大きくなってしまう。そうなれば、ある程度の魔法士には一瞬で見破られるだろう。
だからこそ、魔具を用い、安定化させる必要があるのだ。
「〈フェンリル〉は死んだはずだった。それなのに、その子供たちが現れたんだもの。寝耳に水どころの騒ぎじゃないわ」
「だろうね」
しかし、天璃の脳裏には、升田春雪の顔が残っていた。真っ直ぐに天璃を見据え、表情ひとつ変えない、戦団導士の顔。
それは紛れもなく戦士の顔であり、だからこそ、天璃は、彼を抑えることが出来たのは僥倖だと想ったのだ。
これで、ようやく始めることができる。