第四百八話 おおかみのこども(十)
サイバ・ネットワークスという通信サービス企業が誕生したのは、魔暦百九十七年のことだという。
央都における情報通信に関連する事業は、央都誕生以来、長年に渡って央都情報通信社の一手によって担われていた。
央都情報通信社は、央都のレイライン・ネットワークを表立って管理するべく、戦団情報局が立ち上げた会社だ。つまりは、戦団と深い繋がりを持っているということだが、それは公然の秘密であり、今となっては誰もが知っている事実である。
央都は、戦団を中心とし、根幹として、成り立っている。
そうでなければ、このように幻魔に満ち溢れた世界に秩序然とした都市を築き上げることなどできるわけもなく、だからこそ、情報の掌握が必要不可欠であると戦団は考えていた。そして、そのためにノルン・システムによってレイライン・ネットワークを支配し、管理しているのだが、ノルン・システムの存在を知っているのは、戦団内部でも一定以上の階級の導士だけだったし、合宿参加者では幸多と義一の二人だけだ。
ほとんど市民は、ノルン・システムという機構によって、この央都の秩序が保たれていることなど、全く知らないことだったし、想像しようもないに違いない。
ともかく、戦団は、当初、央都の平穏と安寧、秩序の構築と維持のため、情報通信の全てを掌中に収めるべくあらゆる手段を講じていたというわけだ。
しかし、それが安定し、完全無欠に近いものになると、央都情報通信社以外の企業が情報通信関連サービスに参入することを認め、むしろ奨励したという。
全ては、央都の発展のためであり、同時に、市民感情への配慮もあったに違いない。
いくつかの企業が参入しては成功したり、あるいは失敗する中で、サイバ・ネットワークスを立ち上げたのは、彩葉悠里というネノクニ出身の人物だ。
央都とネノクニの両政府の共同事業である央都移住計画に参加し、地上に上がったネノクニ出身者が、なにかしらの事業を立ち上げる事自体は、なにも珍しいことではない。
むしろ、大半のネノクニ市民が、夢や希望を以て地上に上がってくるのだから、当然の結果といっても過言ではないだろう。
天燎財団の始まりである天燎魔具も、そうだ。天燎鏡史郎が、統治機構による絶対的な管理社会であるネノクニに失望し、開拓したばかりの地上にこそ新天地を見出し、野心の炎を燃やしたからこそ、一代にして財団を築き上げることが出来たのだ。
天燎魔具の成功、天燎財団への拡大は、ネノクニ市民に多大な夢と希望を与えたに違いない。
目指せ天燎鏡史郎を合い言葉とする教育が加熱したという話が、地上にまで聞こえてきたほどだったという。
天燎鏡史郎は、央都で成功した最大最高のネノクニ人である。
彩葉悠里は、しかし、そんな天燎鏡史郎の成功に引き寄せられた人物ではない。
サイバ・ネットワークス社は、通信サービス企業として央都に誕生した。だが、央都における情報通信は、依然、央都情報通信社の独占状態に等しく、立ち向かうためには、その内情を知る必要があると考えたようだ。
央都情報通信社は、表向き一般企業であり、戦団と深い関わりがあることそのものは知られていたものの、情報局の一側面に等しい存在であるなどとは考えられてさえいなかった。
彩葉悠里は、戦団と央都情報通信社の関係を突き止めることが、サイバ・ネットワークス社にとって利益になるのではないか、と、考えたらしい。
その結果、彼は、戦団内部に工作員を送り込んだ。
そこまでは、いい。
というのも、当時の戦団内部では、央都における勢力争いの縮図とでもいうべき光景が展開されていて、企業連や央魔連など、他勢力の工作員たちが暗躍していたからだ。
戦団は、敢えて工作員を放置することによって、他勢力の動向を把握するという方針を取っていた。実際、それによって各勢力を制御することが出来ていたのだから、間違ったやり方ではなかったのだろう。
サイバ事件が起きるまでは、だが。
幸多は、サイバ事件に関する座学の内容を思い起こしながら、あくびを漏らした。
今日の座学において教鞭を振るったのは、第十一軍団長の獅子王万里彩である。万里彩は、なによりも座学を重視しており、幸多たち受講生らに戦団導士の在り様を徹底的に叩き込むつもりであるらしかった。
その中でサイバ事件に触れることになったのは、やはり、導士たるものどうあるべきか、ということに関わってくるからだろう。
サイバ事件には、何名もの導士が関わっている。
それら導士の中には、戦団内部に送り込まれた外部勢力の工作員もいるが、導士としての教育を受け、戦団において職務を全うしていた人々でもあった。
彩葉悠里が戦団に送り込んでいた井之口英二もまた、そうした外部勢力からの工作員でありながら、導士としての職務に熱心だった。
でなければ工作員など務まるはずもないが、とはいえ、情報局の監視下にあったのは、いうまでもない。
情報局は、大半の工作員を把握し、監視下に置いていたのだ。
だが、そんな工作員が暴走し、大事件を起こしたのは、想定外だったはずだ。
サイバ事件は、サイバ・ネットワークスの工作員・井之口英二の暴走によって引き起こされた大事件であり、その結果、ネノクニ全土を揺るがしたことは、今の子供でも知っていることだ。
双界の歴史の一部として、小学校の授業で学ぶからだ。
「フェンリル……か」
幸多がぽつりとつぶやくと、どういうわけか彼の頭の上に顎を乗せていた真白が口を開いた。
「なんでまた、そんな物騒な名前にしたんだろうな?」
「さあ? なんでだろうね?」
「元々は幻魔の名前じゃないし……」
「そりゃそうだけどよぉ」
幸多の隣から発せられた黒乃の意見に対し、真白は納得できないといわんばかりの声を上げる。
真白は幸多の真後ろにいて、黒乃は幸多の右隣に座っているのだ。
二人は、よく幸多の側にいた。
「北欧神話の怪物なんだってな」
とは、菖蒲坂隆司。
「幻魔の名前なんて、大抵はなにかしらの元ネタがあるもの。神話とか、伝承とかさ。オリジナリティがないのよ」
「なくていいでしょ、そんなオリジナリティなんて」
「そうかしら?」
「そうよ」
「まあ、そうだね。理解しやすく、記憶しやすいほうがいい。それなら、様々な創作物にも利用されている神話の怪物のほうが、都合が良い」
義一は、頭上で交わされる金田姉妹の言い合いを纏めるようにして、いった。
フェンリル。
獣級幻魔の名前であり、サイバ事件に巻き添えを喰らったネノクニの反統治機構、反戦団を掲げる勢力の名前でもある。
紛らわしいことこの上ないのだが、そもそもフェンリルという名称自体が北欧神話から取られているのだから、致し方のないことなのか、どうか。
「幻魔の名前ならな。いくらなんでも組織の名前にまで使うなっての。混乱するだろうが」
「そうだね。それも間違いないよ」
義一は、真白の言い分に大きく頷くと、苦笑を漏らした。
ネノクニの反政府勢力がなぜ、フェンリルなどと名乗ったのかについては、様々な噂があるが、その最たるものが、フェンリル総帥・河西健吾が語っていたという〈太陽奪還計画〉にあるらしい。
北欧神話におけるフェンリルは、太陽を喰らうとされる怪物である。
河西健吾が考案していたとされる〈太陽奪還計画〉がどのようなものなのかは定かではないにせよ、彼らがフェンリルを名乗った理由がそこにあるのは、疑いようがない。
もっとも、サイバ事件そのものは、〈太陽奪還計画〉とは関係がなく、反政府勢力フェンリルが壊滅したのも、サイバ事件の余波であって、彼らの計画とはなんら関わりのないものだというところが、なんともいえない。