第四百七話 おおかみのこども(九)
東街区の路上には、背丈の低い街路灯が立ち並んでおり、それらの光が、星空の輝きと夜の闇を遠ざけている。
真夏の夜風は生温く、薄着でもなんの問題もなかった。
時計は、午後十時を回っている。
散歩というには遅すぎる時間帯だったが、春花が就寝したということもあって、妻の麻里安が彼の外出を心配することはなかった。麻里安は、春雪を信頼しきっている。
その信頼に応え続けているのだから、当然だろう、という自負もある。
信頼を裏切らない自信もある。
だからこそ、彼は、この夜中の町中を歩いている。軽い運動がてら、思索するためだけ、などではない。そんなことのために、こんな時間帯に出歩くことは、普段の彼ならば絶対にしないのだ。
央都四市は、治安がいい。
絶対的な支配体制が敷かれていたころのネノクニよりも、というのは、必ずしも言い過ぎではあるまい。
央都は、監視社会だ。
町中の至る所に監視カメラが設置されているだけでなく、戦団の導士たちによる監視の目が光っている。不審者が現れれば、即座に、市内各所に配置された導士に指示が飛び、対応する。
それによって、戦団は、これまでに数々の魔法犯罪を未然に防いできたのだ。無論、全ての魔法犯罪を完璧に封殺できたわけではないにせよ、凄まじいとしか言いようのない精度であるはずだ。
そしてそれも、情報局魔法犯罪対策部の活躍があればこそ、だ。
などと、春雪が考えていたのは、いつ頃からか、彼の耳に靴音が聞こえていたからだ。
夜中。
とはいえ、午後十時ごろだ。
央都は、眠らない。
特に葦原市は、央都の中心であり、人類生存圏の中枢なのだ。真夜中であろうとも常に光が満ち、どこにだって人がいて、なんらかの活動をしている。仕事中の市民もいれば、飲み歩いている人々もいる。市民の生活は、実に様々だ。
彼のように夜の散歩に興じるものもいるだろう。
特に、戦闘部の導士は、夜中から夜明けまで巡回することもある。
本当に頭の下がる部署だ、と、情報局の人間である彼は思うのだ。
情報局の仕事は、椅子に座り、端末と向き合うのがほとんど全てだ。膨大な量の情報を精査しなければならない職務は、必ずしも簡単とはいえないが、しかし、毎日決まった時間、決まった分だけ働けばそれでよかったし、導士である以上、高給取りでもある。
家族三人で暮らしていくにはなに不自由なかったし、彼の趣味である書物蒐集もなんら負担にならないくらいだ。
しかし、戦闘部は、どうか。
無論、戦闘部の勤務時間も決まっているし、三交代制で、休養日も設けられている。だが、と、彼は思う。戦団における実働部隊であり、常に最前線に立ち、命を懸けて戦っている戦闘部の導士たちほど、尊く、素晴らしい人々はいないのではないか、と。
彼らのことを思うだけで、胸が痛くなる。
彼らが常にその身を危険に曝しているからこその央都の安寧なのだ、と、春雪は身に染みて思うのだ。
ここ最近、幻魔災害が多発しているとはいえ、その頻度に比較して、被害の規模は小さく、犠牲者も少ない。
それもこれも、戦闘部の導士たちが身を粉にして戦い抜いているからにほかならない。
この夜中の安全も、彼ら戦闘部によって、保証されている。
それでも、彼は、先程から自分の靴音が二重になっていることに気づいていたし、だからこそ、歩調を度々変えていた。そして、そのたびに靴音は、一切のぶれなく重なり、彼の耳に届く。
それがこの夜中に出歩いている他の市民のものであるのだとすれば、不自然極まりないものだ。
ありえない。
だから、彼は、足を止めた。
葦原市東街区一色町の真っ只中。
閑静な住宅街だ。道幅は広く、立ち並ぶ建物は軒並み低い。高くても二階建てが限度というほどであり、三階建て以上の建物は、この近辺には見当たらなかった。
東街区は、央都の開発当初、居住区画として計画され、その開発理念そのままに現在に至っている。
葦原市の中でもっとも住民が多いのが、この東街区なのだ。
だから、夜中に出歩く市民がいることそのものには、不思議はない。
春雪自身、こうして外に出歩いているのだ。
彼が足を止めると、二重に聞こえていた靴音も聞こえなくなった。そして。
「夜中に一人歩きは感心しませんが」
「おおかみのこどもか?」
「思い出して頂けましたか?」
「思い出すもなにも」
春雪は、練り上げていた魔力でもって律像を構築しながら、背後に向き直った。
「わたしは、きみたちのことはなにも知らないが」
「フェンリルのことは、覚えていらっしゃるのでは?」
「わたしは情報局副局長補佐だよ」
相手が何者なのかはわからなかったが、しかし、春雪は、警告するように告げた。この重々しい役職を伝えるだけで、大抵の人間はたじろぐはずだ。
だが、春雪の視界の中心に立つ男は、一切動揺を見せなかった。いや、動揺しているかどうかもわからなかった、というべきか。
頭上から降り注ぐ星明かりや、道端に設置された街路灯の光を浴びながらも、その男の姿は、まるで溶けているかのようにそこにあった。
わずかに輪郭だけが、春雪の目に認識できる。
透明なのだ。
本人の姿は見えず、背後の、周囲の景色だけが見えている。わかるのは、輪郭だけ。
間違いなく、魔法だった。それも極めて高度な魔法であることは、男の姿がほとんど風景に溶け込んでいることからもわかるだろう。並外れた魔法の使い手だ。
「サイバ事件を引き起こした反戦団勢力のことを忘れるはずもない」
「サイバ事件。あれは不幸な事故でした」
「……確かにな」
相手の爽やかとしか言いようのない声音に違和感を覚えるのは、このような状況に余りにも似つかわしくないからだ。
「フェンリルにとっては、それ以上に適切な言葉はない」
春雪が告げると、輪郭だけの透明な男が、なぜだか、苦笑したような気がした。
「あんな事件のことなんて今更知ってどうすんだって話だろ」
真白が不満げに言うのは、いつものことだ。
夜中。
夏合宿は、連日連夜行われていて、今日もまた、朝から晩まで訓練漬けの一日だった。
そのことには、真白自身、なんの不満もないに違いない。それどころか、毎日の訓練がしっかりと身につき、心身ともに鍛え上げられているという実感が得られているようでもあった。
彼の不満は、いつも、座学に言及された。
「サイバ事件ね」
義一が、金田姉妹にもみくちゃにされながら、真白の発言に反応すると、黒乃が困ったような顔をした。聞き流して無視してくれればいいのに、とでも言いたげな表情だったし、実際、そのほうが良かったのだろうが。
「そう、それ!」
義一が反応した以上、真白が身を乗り出すのは当然だったし、彼が長椅子の上から転げ落ちそうになるのを幸多は咄嗟に支えてやった。
伊佐那家本邸の母屋、その広間に合宿参加者全員が集まるのは、日課のようになっていたし、それによって親睦が深まっているのは、幸多の気のせいなどではあるまい。
「双界を揺るがした大事件なんだから、知っておくべきじゃない?」
「いくらわたしたちが小さい頃の話とはいってもさ」
金田姉妹が、真白に顔を向けた。二人は、高級品であろう絨毯の上に寝転がらせた義一の腰や背中を指圧したりしているのだが、義一は、といえば、もはや二人のなすがままにされるしかなくなっていた。
というのも、今日の幻想訓練で、金田姉妹が義一に圧勝したからだ。それによって、義一は、金田姉妹のマッサージを受けなければならなくなってしまったのである。
そんな義一と金田姉妹の様子を面白そうに眺めているのが、菖蒲坂隆司だ。彼は、義一が姉妹に振り回される様が楽しくて仕方がないらしい。
幸多は、義一のことが多少不憫に思うのだが。
「生まれる前じゃね?」
「ぼくたちはね」
真白の意見に黒乃が小声で肯定する。
サイバ事件が起きたのは、魔暦二百五年のことだ。
今年十六歳の幸多にとっても、生まれる前の話だったし、金田姉妹が小さい頃といっても一歳か二歳くらいのことである。
もちろん、記憶になどないはずだった。
ただし、誰もが学ぶことではある。
サイバ事件。
朝子が言ったとおり、双界を揺るがした大事件である。