第四百六話 おおかみのこども(八)
『フェンリルを覚えているかね?』
春雪は、夜道を歩きながら、考えていた。
頭上は、今朝から夕方にかけての雨天から打って変わった晴れ模様であり、満天の星空には、さながら無数の宝石がちりばめられたようですらあった。
月は、いつになく圧倒的であり、その蒼白い光が満天の星々を飲み込んでいくかのような気配すら感じられる。
気温は決して低くなく、むしろ、温かいくらいだ。
真夏なのだから当然といえば当然かもしれない。
戦団本部という季節感皆無の職場で働いていると、そういう当たり前の感覚すら失われていくだろうと実感する。
だからこそ、春雪は、夜中に散歩をする。
情報局の仕事というのは、ほとんどが職場に籠もり、椅子に座っている仕事といっても過言ではない。
情報は、端末で得られる。
ノルン・システムがそれを成している。
そして、それによって央都全体のありとあらゆる情報を得ることができるのだ。
ネノクニでさえ、もはやほとんど全域がノルン・システムの掌握下にある。
レイライン・ネットワークの支配者たるノルン・システムさえあれば、情報局は、戦団は、無敵の存在たり得るのだ。
が、今回のような出来事にどう対処するべきかについては、自分たちで考えるしかない。ノルン・システムに問うたところで、返ってくるのは、過去の膨大な事例から推測される様々な事物であり、その中から適切な対応を考えるのは人間の仕事なのだ。
ノルン・システムは、神ではない。
全能者でもなければ、絶対者でもない。
至極便利な道具でしかなく、そのことを忘れてはならないのだ。
それはそれとして、夜道を一人歩くというのは、気分転換には持って来いだと、春雪は考える。考え事をしながら、ただひたすら歩いているだけだが、そのわずかばかりの刺激が脳の働きを活性化させるような、そんな気がする。
「フェンリル……」
春雪がつぶやいた言葉は、夜風に乗って消えていく。だが、彼自身の心には、深く重く、拭い去ることの出来ないもののように刻みつけられていくのだ。
フェンリル。
城ノ宮明臣が不意に尋ねてきたその言葉が、獣級幻魔の名などではないことくらい、すぐにわかった。
瞬時に、まるで脳内を電流が駆け巡るかのようにして、彼の意識を冴え渡らせたものだ。
冴えすぎて、不審に思われたのではないかと気にしなければならないほどだった。が、明臣は春雪を見ておらず、故に気に留められるようなことはなかったようだ。
そのことに安堵して、胸を撫で下ろしている暇はなかったが。
フェンリル。
『反戦団組織……でしたね』
『反統治機構組織だよ』
などと、明臣は、苦笑とともに訂正してきたが、どちらでも良いことに違いはなかった。だからこそ、彼は苦い笑みを浮かべたのだろう。
かつて、ネノクニには、統治機構による絶対的な支配体制が敷かれていた。
ネノクニの建造とともに地上の人々が移り住み始めたのは、魔法社会の未来に不安を抱き始めたということもあるだろうし、ネノクニ計画を推進した賢人たちの理念に賛同した人々も多かったからだろう。もっとも、大半は、ネノクニ建造に尽力した様々な企業の関係者だったようだが。
とにもかくにも、ネノクニが地上から隔絶された都市として機能し始めた当初は、統治機構による管理社会ではあったものの、市民の扱いに関しては極めて平等であり、不平や不満など一切なかったと記録されている。
ユグドラシル・システムによる徹底的な管理には、統治機構の意見がねじ込まれることはあっても、大抵の場合、システムの判断に委ねられたからだ。
統治機構がネノクニの絶対者として君臨するようになったのは、ちょうど、魔天創世後のことである。
魔天創世は、地球全土に多大な影響を与えた。
地底の都市国家であるネノクニも、その影響から逃れられることは出来なかった。
魔素の増大の影響こそ受けなかったものの、ネノクニの根幹たるユグドラシル・システムとの繋がりを失うという非常事態に直面してしまったのだ。
全てをユグドラシル・システムという超高性能な機械に任せていたがために、ネノクニ全土を覆うほどの大混乱が起きたのだ。
結果、統治機構は、それまでの管理体制を根本から見直す必要に迫られた。
そして、統治機構は、ネノクニに君臨する絶対者となったのだが、その変遷については、どうでもいいことだ。
統治機構は、その支配体制を絶対的なものとするべく、市民を三つの階級に区分した。
特権階級たる一級市民と、中流階級たる二級市民、最下層たる三級市民に、である。
階級によって居住区も職種もなにもかも全てが区別され、差別された。
当然、市民の間に軋轢が生じ、統治機構に対する不満や不安、不信が増大したが、支配者たちは素知らぬ顔でその支配体制を押し通した。
そうすることでしか、ユグドラシル・システムの不備を補うことが出来なかったのだろう。
ノルン・システムに頼り切っているといっても過言ではない戦団の実情を知っている春雪からすれば、致し方のないことだったのではないか、と、思わないではない。
ユグドラシル・システムが不調に陥る可能性を考慮していなかったのが悪い、といえば、その通りなのだが、しかし、魔天創世のような世界規模の天変地異が起こる可能性を想像しろ、というのは、無理な話だ。
人は、神ではない。
魔法は、全能に極めて近いが、万能ではない。
魔法によって発展した技術によって作り上げられたユグドラシル・システムの未来予測も、不完全極まるものであり、だからこそ、システムそのものが機能不全に陥る未来を提示することが出来なかったのだろう。
ノルン・システムも同じだ。
この世に絶対など、ない。
春雪は、それこそがこの世の摂理なのだと理解していたし、だからこそ、絶対事象観測機構ユグドラシル・システムに全てを委ねたネノクニに未来はなかったのだろうとも思っていた。
故に、央都もノルン・システムに全てを委ねるべきではない、と、考えているのだが、その点についてはなんら心配する必要はなさそうだった。
少なくとも、戦団は、現状、ノルン・システムを利用し、活用しているのであり、ノルン・システムに管理運営を任せているわけではないのだ。
その点において、ネノクニと央都は大きく異なっている。
そして、万が一にもノルン・システムが機能不全に陥った場合の対処法、対策も考えられていて、だからこそ、春雪は、戦団は信頼することのできる組織だと考えている。
そんな戦団に牙を剥いたのが、フェンリルという地下組織だ。
まさに、地下組織であろう。
ネノクニが統治機構によって支配されるようになって、どれほどの年月が流れたのか。
ネノクニには、反統治機構、反政府を掲げる勢力、組織がいくつも誕生し、統治機構と度々ぶつかり合い、火花を散らすようになっていた。
表立って激突し、戦闘が繰り広げられるようなことはほとんどなかったものの、日夜暗闘が繰り返されていたのは間違いない。
フェンリルは、そうした反統治機構勢力の一つとして、ネノクニに誕生した。
なぜ、フェンリルと名乗ったのか。
理由は、ただ一つだ。
創始者にして総帥・河西健吾が、気宇壮大極まりない人物だったから、としか言い様がないだろう。
ロマンチストともいう。
夢想家といってもいい。
『太陽を取り戻すんだよ、我々の手に』
河西健吾の狂気染みた眼差しは、今も、春雪の網膜に焼き付いて離れなかった。
春雪は、そんな彼の狂気にこそ、惹かれたからだ。