第四百五話 おおかみのこども(七)
「おおかみのこども……大神の子供……狼の子供」
春雪は、人差し指と親指で挟んだ記録媒体を天井に翳しながら、一人つぶやいた。琥珀色の記録媒体には、天井照明の光がわずかに透けている。まるで琥珀そのもののように美しい。
春雪に伝言とこの記録媒体を寄越してきた人物については、情報局によって既に調べ尽くされている。
近藤悠生。魔暦百九十九年二月二十二日生まれの二十三歳。血液型はA型。ネノクニ三級市民の一般家庭に生まれたものの、統治機構による大改革によって階級制度が撤廃されたことで、一級市民とは行かないまでも二級市民と変わらない、いやそれ以上の生活を送ることが出来ていたようだ。
平坂区の学校に通い、魔法士としての才能を開花させるものの、魔法士ではなく、技術者としての道を歩むことにしたらしい。
央都で生きていくのであれば、魔法士としての道はいくらかある。が、ネノクニならば、魔法士としての才能を発揮するような職業はそれほど多くはなく、将来性もない。であれば、魔法士以外の道を探すのは道理だろう。
ありふれた職業選択。
どこにでもあるような人生の一風景。
ノルン・システムがレイライン・ネットワークを通してネノクニから拾い集めた情報を流し見すれば、そのようなものになる。
そして、彼が地上を訪れたのは、七月の末に近い。
天輪スキャンダルが起きたちょうどその日、彼を乗せた観光バスが大昇降機とともに央都に上がってきたことが確認されている。
双界間旅行は、央都とネノクニ、いわゆる双界の市民がある程度自由に行き来することの出来る制度だ。ただし、滞在期間は最大でも一週間程度であり、彼のような長期滞在は、本来ならば不可能だった。
彼が長期間、葦原市に留まっていられるのは、なにもかも天輪スキャンダルが原因である。
「近藤悠生……」
聞いたこともない名前だったし、彼の生年月日を考えれば、知り合いであるはずがなかった。
春雪は、魔暦二百年に地上に上がってきた。近藤悠生が生まれたのは、百九十九年である。同時にネノクニにいた期間は一年しか被っていないし、仮に会ったことがあるとして、知り合いなどと呼べるような間柄ではあるまい。
近藤悠生の両親とは、知り合いである可能性は、低くない。
特殊樹脂製の記録媒体は、技術局による検査の結果、爆発物などではないことが判明している。
だからこそ、こうして家に持ち帰ってこられたのだが、情報局でもっと徹底的に調べるべきだったのではないか、と、今更のように思い始めていた。
持って帰ってくるべきではなかったのではないか。
もちろん、調べはしている。
いくらなんでも、見ず知らずの相手から渡されたものをなんの調査もせずに持ち帰るなど、ありえない。
なにかしらの罠が仕組まれている可能性もあれば、魔法が仕掛けられている可能性も十二分にあるのだ。
情報局副局長補佐になにを仕掛けてくるのか、とも思うのだが、用心するに越したことはない。そして、その用心の結果、なにかしらの罠が仕掛けられていることもなければ、魔法がかけられていることもないということが判明している。
だからこそ、春雪も安心して持ち帰ってきたというわけだ。
「お父さん、それ、なあに?」
不意に尋ねられて、春雪は、天井照明に翳していた記録媒体ごと視線を移した。琥珀色の記録媒体の向こう側に、小首を傾げたままの少女の姿がある。白緑色の長い髪を左右で束ねた少女は、興味津々と言った様子でその大きな目で記録媒体を覗き込んでいた。
春雪の娘、春花である。
今年、十二歳になる彼の愛娘は、春雪のやることなすこと全てに注目しているかのようであり、一挙手一投足を見逃すまいとしていた。
八月――夏休みに入ってからは、特にそうだった。
春雪が家に帰ってくると、春花は常に彼の側にいて、離れようとしなかったのだ。そうすることで、春雪のわずかばかりの変化も見逃すことはないだろう、とでもいいたげであり、実際そうなのかもしれない、などと、彼は、妻とよく話したものだ。
それだけ、春花が春雪のことを気に懸けているということであり、その事自体は、彼自身、嬉しいとしか言いようのないことなのだが。
春雪が春花に話しかけられたのは、彼の書斎である。
春雪の住居は、葦原市東街区一色町の一角にある、広い家だ。
春雪が妻・麻里安と結婚を機に購入に踏み切ったものであり、それなりに高価だったものの、値段相応の住み心地の良さが約束されてもいた。
だからこそ、春雪は妻と相談し、ここに住むことにしたのだし、その結果に満足していた。広い家だ。部屋数も多く、なんの不便もない。
いつか生まれる我が子が不自由しないためにも広い家が欲しかった、というのもあったし、また、自分の趣味のための部屋が欲しかったというのもある。
この書斎も、彼の趣味のためだけの部屋だった。
この時代、紙の書物などというものは、高級品以外のなにものでもない。あらゆる文書は、電子化され、端末上でやり取りされる。多くは、幻板に表示される文字列であり、幻板そのものの送受信によって文書のやり取りをすることも少なくない。
央都で、人類生存圏で採れる資源が少ないからだ。
人口も少ないからどうとでもなっているものの、このまま人口だけが増えていけば、いずれ足りなくなるだろうというのが、ノルン・システムの下した結論である。
それまでに人類生存圏を拡大し、土地を改良し、資源を確保するための土台を手に入れることさえできれば、根本的な資源の少なさを解決する事ができるのだろうが、それも簡単なことではない。
戦闘部も護法院も、央都拡大のための外征が確実に成功するのであれば、すぐにでも打って出るのだ。
人類復興という大願を果たすためには、それ以外の道はないのだから。
さて、春雪の書斎である。
彼の書斎には、無数の本棚が並んでいるのだが、その本棚はほぼ空白といっても過言ではなかった。それはそうだろう。紙製品は貴重なのだ。特に彼が欲するような、合成紙ではない、本物の紙の書物となれば尚更だ。
合成紙が偽物の紙などというつもりもないのだが、春雪は、植物繊維由来の紙が好みだった。だから、本棚が埋まっていない。そのことを妻も娘も不思議に思っているようだが、情報局の仕事で多忙な彼の数少ない趣味に文句を言ってくるようなことはなかった。
春雪は、仕事そのものを家に持ち帰ってくることはしなかった。自宅では、春花の良き父であり、麻里安の良き夫でありたかったのだ。
そのためには、仕事を持ち帰ってこないことが一番だということは、彼自身が誰よりも理解していた。
情報局の仕事は、戦団のため、央都のために必要不可欠なものだが、しかし、必ずしも人を幸福にするだけのものではない。時として、人を不幸にしかねないことだってありうるのだ。
「なんだと思う?」
「春花が聞いてるんだよ?」
「そうだったね、ごめんごめん、お父さんが悪かった」
春雪は、記録媒体越しに春花が頬を膨らませる様を見て、素直に謝った。記録媒体を視線からずらし、手のひらの上に置く。
そして、春花に見えやすい位置に持っていくと、愛娘は、大きな目をさらに大きくしながら、記録媒体に手を伸ばす。
「きれいだねー」
「そうだね。綺麗だ」
「宝石みたい」
春花は、春雪の顔を見て、それから安心したように記録媒体に触れた。春雪が怒ったりしないか気になったのだろう。
「宝石か」
春雪は、春花が先程までの彼のように記録媒体を天井に掲げ、光を透かす様を見つめながら、愛娘の言葉を反芻する。確かにそのように見えなくもない。
魔素の性質を利用した記録媒体は、古くから使われている。容量も確保できる上、いくら上書きしても消耗しにくいからだ。
しかし、と、春雪は琥珀のような記録媒体を見つめながら、考えるのだ。
今、春花が手にしているそれは、今現在、央都で使われることのない極めて古い記録媒体であり、入手も困難だった。
ネノクニならば、問題なく手に入るというわけでもあるまいが。
『そういえば、フェンリルを覚えているかね?』
ふと、春雪の脳裏を過ったのは、直属の上司の言葉だ。