第四百話 おおかみのこども(二)
升田春雪が戦団に入ったのは、およそ二十年前、魔暦二百年のことだ。
それまで彼は、ネノクニで生活していた。つまり、根っからの央都人ではないということだが。
央都が誕生したのが、約五十年前、魔暦百七十年のことである。
まだ葦原市と名付けられる前。
葦原市が央都そのものだった時代。
鬼級幻魔リリスを打倒し、その〈殻〉バビロンそのものを央都へと作り替えた人類復興隊は、自分たちを見捨てたネノクニ統治機構との対立関係をどうにかしなければならないと考えた。
当然だろう。
人類復興隊は、地上奪還部隊を前身とする。
地上奪還部隊は、ネノクニ統治機構によって組織された戦闘集団である。その目的は、地上奪還作戦の完遂。つまり、幻魔によって制圧された地上を人類の手に取り戻すことだ。
たった五百名の戦闘部隊と、三百名の後方部隊で成り立っていたという。
それが地上奪還部隊の全てであり、それだけで地上の一部でも取り戻せるのであれば、御の字だろう、というのが、統治機構の考えだったに違いない。
あまりにも浅はかで、あまりにも愚かな、考え。
統治機構が、敵戦力を大いに見誤っていたのは、疑いようもない事実だ。
敵は、幻魔だ。
この地上に充ち満ちた膨大な数の幻魔全てが、人類の敵なのだ。
地上を奪還するためには、それら全ての幻魔を滅ぼす以外にはなく、たった五百名の戦闘要員でどうにかできるわけもなかった。
無論、当初の目標は、大昇降機付近に存在した〈殻〉の攻略である。
しかし、それですら、五百名では不可能に近かった。
いや、不可能だったのだ。
奇跡が起きなければ、地上奪還部隊は全滅したに違いない。
そして、そうなろうとも構わない、というのが、統治機構の考えであった。
統治機構は、それまでに既に二度、同じように地上に送り込んだ部隊が全滅するのを見届けている。
統治機構にとって、地上奪還作戦は、ある種の実験だったのだ。成功すれば御の字、失敗しても問題はない、と、考えていた。
故に、〈殻〉の攻略に成功し、地上奪還の第一歩を踏み出した地上奪還部隊が、統治機構と対立するのも無理からぬことだったし、人類復興隊と名を改めた彼らが統治機構に対し強気の姿勢を崩さなかったのも、当然だったのだろう。
それから三十年が経過した魔暦二百年になっても、央都とネノクニの往来は不可能だった。
地下から地上に上がることができるのは、両政府の共同事業である央都移住計画に応募し、受かったものだけだ。
そして、彼は受かり、地上に上がった。
今から約二十年前の話だ。
地上での暮らしのほうが長くなり、ネノクニ時代のことなどほとんど忘れかけている。
しかし、大昇降機を出て、初めて本物の太陽を見たときの感動は、いまも忘れられなかった。
蒼穹を焦がす鮮烈な光が視界に入ってきた瞬間、これが太陽なのだ、と、涙すら浮かべてしまったのは、彼だけの秘密だが。
本部棟に入れば、棟内の様々な場所に向かう導士たちの姿があり、挨拶を交わしたり、会釈をしたりとそれぞれに対応した。
ほとんどの導士は、大抵、本部棟二階に足を向ける。
本部棟の二階は、情報局、総務局、財務局、技術局、戦務局、魔法局という戦団を構成する各部局の支配地たる局室が所狭しと並んでいて、常にせめぎ合っているといっても過言ではなかった。
互いに領有権を主張し合った結果、戦争が起こる――などということは、起こらないが。
春雪が向かうのは情報局室であり、寄り道することもなく真っ直ぐ向かった。
本部棟の二階は、様々な部局が入り乱れる雑多な空間であり、混沌としているというほかないくらいには、雑然としている。
情報局区画に足を踏み入れて、ようやく、彼は人心地がついたような気分になった。
二十二年前、央都移住計画の一員として地上に上がった彼は、常に人員を募集していた戦団に入ることを希望し、入団することができた。戦団は常に人手不足だったし、人材を欲していたからだ。
その際、春雪は、情報技術の手腕を認められ、情報局に配属されることとなった。
それ以来、ずっと、情報局で働き続けている。
情報局は、戦団の、いや、央都の根幹といっても過言ではない部署だ。央都に関するありとあらゆる情報を管理し、監視し、精査するのが情報局の主な役割である。
働き甲斐があり、労力に見合うだけの給料もあれば、福利厚生も行き届いていた。仕事の合間合間に休憩時間があれば、休養日もしっかりとあったし、夏休みだって、短期間ではあったが確実にもらうことが出来た。
彼の今年の夏休みはとっくに終わってしまったが、満足の行く日々を送ることができたのは、戦団に務めているからに違いない。
順風満帆。
彼は、自分の席に着く度に思うのだ。
情報局副長補佐という立場ということもあり、彼の机は立派だったし、情報局区画内でも目立つ場所にあった。だから、だろう。
よく、声をかけられた。
「おはようございます、副長補佐」
「ああ、おはよう。今日も早いね」
「それだけが取り柄ですから」
などと微笑してきたのは、情報局魔法犯罪対策部の部長である伊佐那美那兎である。
その名の通り、伊佐那麒麟の養子であり、伊佐那家の一員である彼女は、央都の魔法犯罪対策における中心人物だ。黄丹色の頭髪を短めに揃えており、その前髪の下で桔梗色の瞳が輝いている。いつも笑顔を絶やさない女性であり、彼女の部下は、それ故にいつも張り切っているらしい。
情報局は、局内にいくつかの部署を持つ。その一つが魔法犯罪対策部であり、その名が示すように、魔法犯罪対策専用の部署である。
魔法犯罪とは、魔法を用いた犯罪の総称だが、それはつまり、ありとあらゆる犯罪のことを示してもいるといってもいい。
魔法時代の幕が開き、誰もが魔法を使えるようになると、魔法を用いた犯罪行為が横行した。誰もが万能に近い力を得てしまったのだ。その力を悪用しようという人間が後を絶たなかったのは、必然といっていい。
魔法を使わない犯罪のほうが珍しい、とさえいわれるようになったのは、人類の大半が魔法を体得しただろう魔法時代黄金期以降のことだが、いまとなってはそれが当たり前となっている。
戦団が央都に敷いた絶対的な秩序も、徹底的な監視社会も、魔法犯罪を抑止することこそ出来ても、根絶するには至っていない。
人間は、罪を犯す生き物だからだ。
こればかりは、どうしようもない。
『もうこうなったら人類全体を改造してやろうかしら』
などと、怖いことをいったのも、先程彼に笑顔で挨拶してくれた人物なのだが。
しかし、そうでもしなければ、犯罪を撲滅することなどできはしないのだろうとも思う。
そして、そんなことを戦団がするはずもないという確信も持っている。
徹底した監視と管理こそ行っているものの、それによって市民の生活を脅かすようなことは一切しないのが戦団の方針なのだ。
市民にとっての平穏と安寧を守るためにこそ、戦団はこのような社会を構築したに過ぎない。
人類生存圏の安定こそ、人類復興に必要不可欠かつ重要極まりない要素だ。
春雪は、いつも通りの仕事を始めるべく、端末を立ち上げ、魔紋認証を行いながら、考える。卓上型万能演算機・天桜が幻板を出力し、魔紋認証が正常に完了したことを示す文言が表示された。
人類復興のために為すべきこととは、なにか。
自分に一体どれほどのことができるというのか。できることなどたかが知れているし、そんなことを末端の人間がなにをいったところでどうしようもないこともまた、理解している。
それでも、戦団が掲げる人類復興の大願、その一助となりたいというのは、当然の欲求だろう。
戦団の導士として、二十年以上を生きてきた。
人生の半分以上を戦団に捧げてきたのだ。
それが全て無駄に終わるようなことがあっては、悲しすぎるだろう。
「やあ、おはよう、おはよう、おはよう、諸君」
局室の出入り口から聞き知った声が聞こえてきたので、春雪は、目線をそちらに向けた。
情報局副局長・城ノ宮明臣が、いつも通りの軽々しさでもって局員たちに挨拶して回っている姿は、日常風景そのものだ。