第三百九十六話 新野辺九乃一(二)
新野辺家が忍びの一族であると言い出したのは、魔法時代が始まるよりもずっと昔のことであるらしい。
そんなことを思い出しながら、幸多は、新野辺九乃一の忍法と、その華奢な体からは考えられないような身体能力に意識を集中させていた。
アイドルの衣装のような導衣を纏い、橋の欄干の上からこちらを見下ろす九乃一の姿は、まさしく偶像めいている。幻想の中からそのまま具現したかのような印象さえ受けるのは、彼が中性的な美貌の持ち主だからだろうし、だからこそ、誰もが彼に黄色い声を上げるのだろう。
幸多も、時折、彼の美しさ、可憐さに見取れてしまいそうになる。
あらゆる仕草が洗練されていて、磨き抜かれている。常に自分が見られていることを意識しているようであり、全神経を常に集中させ続けているような、そんな印象さえ受けるのだ。
行動に一切の無駄がない。しかし、無駄な動きが多くも見える。その無駄な動きに対応すれば、手痛い反撃を受けるのだから、それは無駄ではないのだ。むしろ、隙を見せているように振る舞っているだけのことだろう。
だが、わざとらしくはない。
「さすがは伊佐那星将が弟子として引き受けただけのことはあるね。きみ、見込みがあるよ」
欄干の上で、吹き抜ける風を浴びながら、九乃一がいった。眼下、夕日を浴びて輝く未来河の河川敷に皆代幸多が立っている。左半身をこちらに突き出した半身の構え。
それが魔法不能者が編み出したという対魔法士戦闘術・真武の構えであるということは、ぼんやりとだが、知っている。
もっとも、九乃一が知っているのは、真武について、ではない。皆代幸多が真武を使うということを情報として認識している程度だ。
なぜ、彼が戦えるのか。
それは、彼が幼少期から親に真武を叩き込まれ、徹底的に鍛え上げられたからである、らしい。
「悪くない」
九乃一は、幸多の構えを見つめながら、彼のことを考える。
この訓練が始まってからというもの、一進一退の攻防が続いている。
伊佐那美由理が立案し、護法院および戦団最高幹部の承認を得た夏合宿には、美由理が推薦した二名の導士以外に、いくつかの軍団からも参加している。
第八軍団からは九十九真白、黒乃の兄弟が、第十一軍団からは菖蒲坂隆司が、そして、第六軍団からは金田朝子、友美姉妹が、それぞれ参加している。
夏合宿の参加者、つまり受講生は、それぞれの軍団において将来有望な人材ではあるが、同時になんらかの問題を抱えた導士だったりするらしい。
九十九兄弟は、他の導士との折り合いが悪く、故にまともに運用することは難しい、と、あの面倒見の良い天空地明日良が匙を投げ出すほどだ。余程、性格に難を抱えているのだろうと思ったものだが、夏合宿に参加してみると、どうもそうではないらしい。
少なくとも、合宿仲間とは上手くやっているようだった。
特に幸多とは微笑ましいくらいにじゃれ合っていた。
結局、伝聞や風聞はあてにはならないということだろう。
そしてそれは、菖蒲坂隆司に対する評判もそのまま受け取ってはいけないということであり、金田姉妹の評価も彼自らが下さなければならないと言うことだ。金田姉妹に関しては、直属の部下ということもあり、他の軍団の導士よりは多少なりとも正確に理解しているはずではあるが。
さて、皆代幸多である。
彼に関する情報は、風聞でも伝聞でもなく、正確極まりないものが出揃っているといっても過言ではあるまい。
この世界でただ一人の完全無能者であり、伊佐那美由理のたった一人の弟子である少年。
少年だ。
成人年齢である十六歳を迎えたいまでも、九乃一から見れば、まだまだ子供じみた少年でしかない。
幾多の激闘を潜り抜け、生死の境をさ迷いながら、辛くも今日まで生き延びてきた戦士ではあるのだが、やはり、まだまだ幼い。
幼さが、闘志となって溢れ出している。
だが、強い。
少なくとも、凡百の導士とは比較ならない身体能力を持っている。星将に肉迫するほどの速度は、素の身体能力だけで比べた場合、圧倒的な結果となって現れるだろう。
魔法士は、魔力によって身体能力を底上げすることができる。さらに身体魔法を使えば、より強大な力や速度を得られるのだから、やはり、魔法士は戦士として優秀だろう。
幸多は、どうか。
素の身体能力を闘衣によって向上させてはいるものの、それをいえば、導衣を身につけている時点で九乃一も同じだ。さらに九乃一は、魔力による強化を受けている。
その結果、身体能力や動体視力、反射といった分野において、幸多に敵うものはいないのではないか、と、九乃一は確信するに至っている。
なぜならば、九乃一は、現状戦団最速の導士だからだ。
「少し、本気を出そうかな」
九乃一は、告げるのと同時に魔法を発動させ、幸多が反応するより疾く、その背後を取った。
幸多が瞬時に振り向きながら飛び退こうとしたときには、その脾腹を突いている。幸多の幻想体に空いた穴が致命傷を示すのと、それによって幻想体そのものが崩壊していくまでに時間はかからなかった。
「うん。悪くない」
九乃一は、幸多の目が自分を捉えていたことに満足しながら、つぎの挑戦者を待つことにした。
夏合宿の受講生は、全部で七名。
今日この時間は、それぞれ一人ずつと訓練することになっている。
そして、幻想空間の河川敷に姿を見せたのは、彼の直属の部下だった。
「つぎは、きみか」
「よ、よよよろろろしくお願いしますすすす!」
「緊張しすぎだよ」
九乃一は苦笑しつつ、金田朝子の興奮と熱気に気圧されるような気分になった。
現実空間に帰還した幸多の視界に飛び込んできたのは、遠い天井の柔らかな光だった。
伊佐那家本邸の敷地内にある道場、その内の一室であることは、考えるまでもない。幻想と現実の区別は、すぐにつく。そういう仕組みになっている。
「どうだった? うちの軍団長。いつ見ても素敵でしょ? 九乃一様って、いつも誰よりも可愛くて、最強で、最高なのよねー!」
などと口早にいってきたのは、金田友美である。
幸多は、呆然としながら体を起こし、周囲を見回した。
幸多を除く全員が、新野辺九乃一との一対一の訓練を行うための順番を待っている。
金田友美、九十九兄弟、菖蒲坂隆司、そして伊佐那義一の五人が、だ。
金田朝子は、幸多が現実に戻ってくるなり、すぐさま幻想空間に飛び込んでいったようだ。友美の隣の寝台で横になっている彼女の姿があった。
幸多も、寝台の上にいる。
そして、新野辺九乃一も、だ。
室内に並ぶいくつもの寝台には、頭用装具が置かれていて、それぞれ幻創機の子機と繋がっている。
幻創機の親機を操作しているのは、だれあろう奏恵である。
奏恵は、合宿に少しでも貢献したいということで、様々なことに関わっていた。
もっとも、奏恵に幻創機の操作が出来るということなど、幸多は知らなかったし、出来ると言い出したときには驚いたものである。
なにかしら専門的な知識や技術が必要なはずだからだ。
奏恵によれば、央都魔法士連盟に所属していた頃、央魔連の導士たちのために幻創機の操作を行っていたという。だから、その操作の手つきも手慣れたものであり、なんの問題もなさそうに見えたし、実際、問題一つなかった。
それは、いい。
「どうだったのよ?」
「……相変わらず、凄かったよ。新野辺軍団長」
幸多は、友美に回答を急かされたこともあって、そう答えた。
無論、実感した通りの答えだ。彼女が熱烈な新野辺九乃一ファンだから気遣ったわけでもなんでもない。
新野辺九乃一の戦闘速度は、幸多の意識を擦り抜けるかのようであり、凄まじいとしか言い様がなかったのだ。
さすがは戦団最速にして、神速といわれるだけのことはあった。