第三百九十四話 夏合宿
遥か頭上には、雲一つ見当たらない青空が広がっている。
夏も夏、真夏である。
晴れ渡る空には、当然のような顔をして太陽が浮かんでいて、その烈しい光は、強烈な熱を帯びて地上に降り注いでいるはずだ。
しかしながら、幸多たちは、夏の熱気とは全く無縁の環境にいた。
伊佐那家本邸の敷地内は、気温を調整する魔機のおかげで夏の暑さも冬の寒さも感じずに済むようになっているのだ。
四季折々の季節感も確かに大切だが、暑すぎたり寒すぎたりといったことよりも快適に生活することのほうが重要だろう、とは、美由理の言。そしてそれは、央都市民の大半の意見でもあるに違いない。
央都市内の様々な施設でも同様の魔機が設置されていて、季節感皆無の快適な気温に調節されているものだ。
それこそ、現代社会が享受している魔法技術の恩恵であるということは、言うまでもないだろう。
幸多たちは、その日も、夏合宿の真っ只中にいた。
つまりは、訓練漬けの毎日である。
日夜、様々なことを行っている。
座学も行えば、実習も行う。
幻想訓練で苛烈な戦闘を行うだけでなく、現実世界での鍛錬もかかさなかった。
魔法社会において、体を鍛えることというのは、軽視されがちだ。
魔法が全てを解決するからだ。
魔法さえ使えれば、走る必要もなければ、体力を消耗するようなことをする必要もないし、脂肪を燃焼するために運動する必要もない。
魔法さえあれば、どうとでもなる。
しかし、美由理は、経験上、体力を付けることは全く無駄にならないと考えていた。故に合宿の予定表に現実世界での鍛錬を組み込んでいるのだ。
常日頃から体を鍛えている幸多にとっては、現実世界の鍛錬は楽な部類だった。が、九十九兄弟を始めとする合宿参加者たちにしてみれば、それなりどころか結構きついものだったらしい。
皆、昼過ぎの鍛錬を終えれば、本邸の中庭に倒れ込むのが恒例となっていた。
「なんで、平気、なんだよ……!」
息を切らせながら幸多に噛みついてくのは、真白だ。彼は、全身から大量の汗を流しながら、幸多を見つめていた。
幸多だけは、涼しい顔で突っ立っていて、なにやら空を仰ぎ見ている。その余裕っぷりが、時折、癪に障るのだ。
「体の出来が、違うんだよ、きっと……」
とは、黒乃だ。彼も息も絶え絶えと言った様子なのは、一目でわかる。
合宿参加者は皆、美由理が用意した戦団印の運動服を着込んでいるのだが、それもあって汗の量が半端ではないのだ。
皆が身につけている戦団印の運動服は、最近、技術局第四開発室が生み出した新製品である。最新技術をふんだんに取り入れた運動服は、その名の通り、運動に最適化されているという。
幸多は、この体に密着した運動服を身につけていると、闘衣を装備しているときの感覚を思い出すのだが、それは第四開発室が闘衣の技術を流用するなりしているからに違いなかった。
闘衣は、魔法不能者専用の装備だが、身につけているだけで身体能力を向上させる機能がある。
この最新型の運動服は、身体能力を向上させることこそないものの、体にかかる負荷を高め、それによって鍛錬を極めて効率的にしてくれるという。短時間の運動でも、その数倍もの長時間走り回ったような感覚になるのは、そのためだ。
そして、それによって、幸多を除く全員が倒れ伏して動けなくなるのだ。
幸多だけは、運動服の負荷をもものともしていないが、それは子供のころから体を鍛え抜いてきたからだろうし、この肉体が彼らとは出来が違うからなのだろう。
黒乃の言ったとおりだ。
「そうだね」
だから、幸多は、黒乃の言葉を肯定する。
すると、黒乃が目を丸くして、幸多を見た。幸多が黒乃に向ける微笑みは、なぜだか妙に透き通っているように思えてならなかった。
夏の青空に勝るとも劣らない透明感がある。
その表情に胸がざわつくような気がしたものの、黒乃には、幸多のことばかりを考えている余裕はなかった。疲労感が意識を染め上げている。
義一ですら立ち上がれないほどに鍛錬である。
彼は伊佐那家の人間であり、常日頃から、美由理が行ってきた鍛錬を受けているはずなのだが、しかし、夏合宿の訓練というのは日常的なそれとは格段に違うものであるらしい。
「毎日の訓練、ご苦労様です、皆さん」
などといいながら母屋の縁側に姿を見せたのは、誰あろう、奏恵である。
夏合宿中、幸多とともに伊佐那家本邸でお世話になっている彼女は、今や伊佐那家に溶け込んでさえいた。まるで昔から伊佐那家に住んでいたのかと思うくらいだ。
食事の準備や掃除に洗濯、使用人がやるようなことまで行うものだから、美由理が戸惑うほどだった。
しかし、奏恵にしてみれば、無理を言って住まわせてもらっているという気持ちがある。なにか伊佐那家のために出来ることをして、恩返しをしなければならない。いてもたってもいられなかった。
特に、我が子、幸多が訓練に励んでいるのだから、母親である自分が日がな一日ぼんやりしているわけにはいかないだろう。
奏恵が縁側に現れたのは、幸多たちのために飲み物を持ってきたからだ。
夏合宿の予定表は、母屋の様々な場所にでかでかと張り出されている。今日この時間はどこでなにをしているのか、奏恵にもはっきりとわかるのだ。
だから、幸多たちのためになにかと準備をすることもできる。
奏恵は、夏合宿の当初こそ様々な戸惑いに直面したものの、いまでは張り切って合宿に協力している。
時には、導士たちの訓練相手になることもあった。
奏恵は、幸多が生まれてすぐに仕事を辞め、育児に全力を注いでいたものの、元々は、央都魔法士連盟に所属していた魔法士だ。
しかも、姉妹揃って戦団から勧誘を受けていたほどの才能と実力の持ち主でもあった。
だからこそ、幸多には、優秀な魔法士として誕生することが周囲から期待されていた、という話もあり、幸多が完全無能者だと診断されたときの周囲の落胆ぶりたるや、奏恵自身がこの魔法社会で生きていくことの虚しさを実感するほどのものだった。
だから、央魔連を辞めた、というわけではないのだが、一因ではあるかもしれない。
魔法社会は、魔法が全てだ。
魔法の才能、魔法の実力、魔法の将来性――それらが、その人間の評価に結びつく。
当然、魔法不能者は、最初から評価される点がなく、なんらかの特化した能力がなければ、まともに職に就くことも難しい。
もちろん、魔法不能者への不当な差別をなくすべく、様々な政策、施策があるのだが、だからといってそれで魔法不能者に対する視線が変わることはなかった。
奏恵は、幸多が魔法不能者であるが故の理不尽な目に遭っている光景を何度となく見てきている。
子供のころから今に至るまで何度も、それこそ、数え上げるのもうんざりするくらい、何度も。
そんな幸多が、今や夏合宿に参加している将来有望な導士の一員として、彼らと仲良く訓練している様を見ることが出来ているのは、幸福以外のなにものでもない、と、奏恵は思うのだ。
「はい、黒乃くん」
「い、いつもありがとうございます」
黒乃は、奏恵に手渡された飲み物の容器を大事に抱えながら、礼を述べた。
奏恵の笑顔はいつも眩しくて、太陽のようだ、と黒乃は想う。
真白も想わず見惚れているのは、奏恵がいつだって優しく微笑みかけてくれるからだろう。
九十九兄弟には、親がいない。記憶にないのだ。孤児として九月機関に拾われ、妖精の城で育て上げられた。
九十九兄弟にとって親の役割を果たしたのは、高砂静馬だ。高砂静馬は、良い父親であったし、真白も黒乃もなにひとつ不満を抱いてはいないのだが、しかし、足りないものを感じてもいた。
それこそ、母性だったのかもしれない。
この夏合宿期間中、九十九兄弟は、奏恵に懐いた。
奏恵が振り撒いてくれる笑顔が、二人の心を安定させてくれるような気さえした。
「羨ましいぜ、全く」
真白が幸多にいえば、彼は、少しばかり照れくさそうに、しかし、満更でもなさそうに笑った。
「でしょ」
幸多にとっても、奏恵は最高の母親だったからだ。