第三百八十五話 イリア(三)
「いきなり、どうしたんです? 社会の不満なんて言い出したりして」
幸多は、どう反応するのが正しいのかわからず、さりとて黙っているわけにもいかないような気がして、言葉を探した。そうして選び取った言葉が正しかったのかも、幸多にはわからない。
「ぼくには、そこまで大きな不満はありませんよ。皆さん優しくしてくれますし、なにより、戦闘部に入れたんですから」
「……きみは、強いわね」
「そんなこと……ないですよ」
たぶん、きっと――幸多は、そんな言葉を口に出しかけて、飲み込んだ。
イリアの瞳が、光っているように見えたからだ。
室内は、天井照明の穏やかな光に照らされていて、彼女の目が光を帯びたのだとすれば、顔の傾き方がわずかに変わったことによって、頭上からの光を反射したからなのだろうが。
幸多には、その光が、普通ではないような気がした。
「ううん、強いよ。だって、わたしならきっと、耐えられないもの」
イリアは、幸多の褐色の瞳を見つめながら、考え込むように言った。彼がどのような人生を歩んできたのかについては、よく知っている。
知らないわけがない。
イリアは、戦団技術局第四開発室の室長というだけでなく、星光級の導士である。つまりは、星将の一人であり、戦団最高幹部の一人なのだ。
幸多が対抗戦で優勝した報酬として戦団戦闘部への所属を希望した際、戦団最高会議は物議を醸したものだった。
いくら対抗戦の優勝者を戦団に勧誘するのが恒例になっているからといって、魔法不能者を入団させるのは問題ではないか、そこは認めるべきではないのではないか。少なからず魔法不能者が所属している戦闘部以外ならば、まだしも。
実働部隊たる戦闘部に魔法を使えない子供を配属させるなど、正気の沙汰とは思えない――というのが、大半の最高幹部の意見だった。
しかし、幸多の存在こそが窮極幻想計画の要となり、鍵となり得ると考えたイリアは、護法院を説得し、彼が戦団に入る道筋を作ったのだ。
それもこれも、彼の人生について、調べ抜いた末のことだ。
皆代幸多という少年の生き様は、イリアが探し求めていたものといっても過言ではないかもしれないくらいに眩しかった。
魔法が全てのこの世界にあって、彼は、魔法の恩恵をほとんど受けられない稀有な存在だ。魔素を生まれ持たず、魔法を使えず、魔法を使ってもらうこともできないという時点で、ただの魔法不能者とは一線を画しているといってもいい。
故にこそ、様々な苦難が彼の前に立ちはだかったはずだ。しかし、彼は決して諦めることなく走り続けてきている。
今だって、そうだろう。
幻魔という強大な敵を前に、一切怯むことなく立ち向かい続けている。
魔法が使えないにも関わらずだ。
無論、第四開発室と窮極幻想計画が彼を後押ししているが、だからといって誰もが出来ることではない。
誰もが、彼のようにはなれない。
イリアの脳裏に、一人の少年の影が過った。だから、だろう。思わず、彼女はつぶやいてしまった。
「お兄ちゃん……」
「はい?」
幸多は、不意にイリアが漏らした言葉を聞き逃さず、つい、聞き返してしまった。
その瞬間、イリアが唖然としたのは、幸多に聞かれてしまったという想いがあったからだ。しかし、隠しても意味のないことだと思い返し、口を開く。
「……わたしには、兄がいたのよ。わたしに出来ないことがなんでも出来る人だったわ。本当に、なんでもできた……。だから、でしょうね。わたしにとっては、お兄ちゃんが全てだった。この世の光だったのよ」
そういって兄のことを語るイリアの表情は、それこそ、素晴らしい想い出に浸っているような、眩いくらいの輝きを帯びたものだった。きっと、彼女の記憶の中の兄は、その表情に相応しいくらいに素晴らしい人なのだろう。
イリアの顔を見れば、幸多でなくともそう感じたはずだ。しかし、その光があっという間に影に隠れてしまった。
「でもね……兄は、この世を儚んで命を絶ってしまった」
「どうして……?」
幸多は聞き返したが、それ以上の言葉が出てこなかった。
「魔法が使えなかったから、でしょうね」
「……魔法不能者だったんですか?」
「ええ、そうよ。兄は、魔法不能者として生まれたのよ。そして、そのために魔法社会の理不尽さに打ちのめされ、命を絶った――ごくごくありふれた、どこにでもよくある話よ。面白くはないでしょう」
イリアは、務めて淡々といった。重々しくしようと思えばいくらでも重く出来るだろうが、そんなことをしてもなんの意味もない。
むしろ、幸多の心を傷つけることにだってなりかねないのだ。
それに、イリアがいったとおりではある。
この世に魔法が誕生してから今日に至るまで、そのような話は、それこそ、数え切れないくらいに生まれ、歴史の影に埋没していったに違いなかった。
どこにだって転がっているだろうし、央都にだっていくらでもあるはずだ。
千人に一人は魔法不能者だといわれている。
央都の人口は、つい最近、百万人を超えた。
つまり、央都に千人程度の魔法不能者がいるということであり、そのうちの何人かが魔法社会の理不尽さに振り回され、傷つき、苦しみ、命を絶ったのだとしても、なんら不思議ではない。
魔法士が想像する以上に、魔法士と魔法不能者の差違は大きく、埋めがたいものなのだ。
そしてそれは、イリア自身、完全に理解できているとは思っていない。それほど傲慢ではないのだ。むしろ、謙虚だからこそ、ここにいられるのではないか、と、イリア自身が思っている。
「でもね、だからといって、そんなものを認めるわけにはいかないでしょう。魔法不能者だけが理不尽な目に遭わなければならない理由なんて、ひとつもないもの。それがたとえ、世界の理なのだとしても、わたしは否定するわ。全力で、どんな手を使ってでもね」
イリアの脳裏には、やはり、あの日の少年の姿が映っていた。網膜に焼き付き、決して消え去ることのない影。
兄、日岡アストの最期の姿。
「どんな手を使ってでも……」
幸多が思わずつぶやくと、イリアは、苦笑するほかなかった。少しばかり想いを込めすぎたかもしれない。
「気持ちの問題よ。あまり重く受け取らなくていいからね」
「は、はい」
幸多は、イリアの言葉に頷いたものの、それはそれとして考え込まざるを得ない。彼女が教えてくれたことについて。
「でも、ひとつだけ、納得できました」
「うん?」
「イリアさんが、どうして、窮極幻想計画を立案したのか。どうして、ぼくにここまで良くしてくれるのか。その理由が、少しだけわかった気がするんです」
幸多は、イリアの目を見つめながら、いう。その理由がわずかでも垣間見えた、というのは、決して気のせいなどではあるまい。
とはいえ、それを言葉にするのは野暮で無粋な気がした。
だから、幸多は、それ以上はなにもいわなかった。言葉にするのは容易い。そして、容易くひとの心を踏みにじるのもまた、言葉だ。
幸多は、言葉が持つ力というものをよく知っている。言葉がどれだけ簡単に人を傷つけられるのかも、どれほど人の心を奮い立たせることができるのかも、身を以て理解しているのだ。
そんな幸多の気遣いが、イリアにはなんともいえず嬉しくて、思わず椅子から立ち上がると彼に歩み寄っていた。
「幸多くん、ありがとう」
「い、イリアさん!?」
幸多が素っ頓狂な声を上げてしまったのは、イリアに抱きしめられたからだ。
だが、悪い気はしなかったし、力尽くで抜け出そうという気持ちにもならなかった。
なれなかった、というべきだろう。
理由は簡単だ。
どういうわけか、イリアが、泣いていたからだ。