第三百八十四話 イリア(二)
魔法社会。
そう呼ばれる社会の成立は、二百年以上の昔に遡る。
御昴直久という日本人である。
まだ、日本という小さな島国が確かに存在し、同時に、地球上に数多の国々が混在していた時代。
魔暦以前、西暦と呼ばれていた時代のことである。
彼は、天空サイエンスと呼ばれる企業に務めていた。天空サイエンスは、当時、ありとあらゆる分野にその食指を伸ばすことによって成功を収めており、御昴直久が所属したのはその中でも最先端技術研究所と呼ばれる部署だった。
彼には双子の弟がおり、名を御昴直次といった。
直久と直次は、最先端技術研究所に所属すると、めきめきと頭角を現していき、立場を強めていったといわれている。
そして、直久は、そうした日々の研究の中で、一つの発見をする。歴史的な、まさに世紀の大発見と呼ばれることになるそれこそ、魔素の発見である。
魔素の発見が即ち魔力、魔法の発明へと至り、魔法時代の到来を告げることになるのだから、彼こそが魔法の始祖といってもいいだろう。
しかし、御昴直久は、人類史上最悪の罪を犯した存在として、歴史に記されている。
人類に栄光の魔法時代を齎した最大の貢献者にして、最悪の犯罪者――魔人。
彼は、自らが発明した魔法が天空サイエンスや当時の政府によって管理されることが許せず、実力行使に出たのだ、とされている。
その結果、引き起こされたのが、源流戦争だ。
魔人・御昴直久と、彼の双子の弟であり、右腕でもあった御昴直次との間で起きた、人類史上初となる魔法を用いた闘争。
それは世界中に魔法の存在を知らしめると共に、その圧倒的な力を見せつけることとなった。
魔法時代の扉は、そのような強引さで開かれ、魔人と始祖魔導師、二つの流派が世界中に拡散していったといわれている。
魔人によって世界中にばら撒かれる魔法の教えは、極めて破壊的であり、世界秩序を根底から覆しかねず、故にこそ、始祖魔導師が立ち上がり、魔法技術教導隊を結成、魔導協会を組織した。
超国家魔法管理機構が誕生したのも、魔法とは徹底的に管理しなければならないものであり、誰もが思い通りに使うようなことになれば、秩序を維持することすらままならなくなることがわかりきっていたからだ。
事実、その後、魔法の乱用によって滅びた都市や国家は枚挙に暇がない。
超国家魔法管理機構に所属した国々の中であっても、魔法士たちの暴走を止められなかったという例は数多にあったほどだ。
原初の混沌にも似た時代の始まりを経て、秩序然とした魔法社会が形作られていったのは、奇跡に等しいのだろう。
魔法は、極めて万能に近い技術だ。
奇跡の具現であり、神秘の具象、幻想の現実化ともいうべき力である。誰もが神に等しい力を持ち、故にこそ、人類は万物の霊長である、などと宣い、地球そのものに手を入れ、改良し始めたのも、今となっては皮肉めいている。
そうした人類の万物の霊長としての振る舞いは、全て、幻魔によって書き換えられてしまった。
幻魔。
魔法時代全盛、黄金期とも呼ばれた頃、突如として出現した人外の怪物は、人類有数の魔法士たちをも圧倒する魔力を持ち、生命力を誇っていた。
そして、後に現れた鬼級幻魔たちは、万物の霊長を自称し、地球環境を自分たちにとってより良いものへと作り替えていったのだ。
それが人類への大いなる皮肉でないとすれば、なんなのか。
魔法社会について考える度に、彼女は想う。
だが、最も考えるべきは、この魔法社会という構造上の欠陥についてなのだということからも、目を逸らしてはいない。
先人たちが膨大な血を流しながら作り上げた魔法社会は、しかし、地下に籠もり、ネノクニの中で全く異なる管理社会へと変貌を遂げた。
そして、その管理社会を脱却するべく地上に作られたはずの楽園は、ネノクニ以上に徹底された管理社会と成り果ててしまっている。
それも致し方のないことだ。
そもそも、幻魔が跳梁跋扈する地獄のような地上に楽園を求めるのが間違っている、と、いわれてしまえばそれまでのことだろう。旧時代以上に魔法士の技量の平均値が上がっている以上は、殊更に強く管理していくしかないということもまた、道理なのだ。
そんな管理社会であっても、どうしようもない理不尽が生まれてしまうことのほうが問題だ。
イリアは、幸多を見る度に想うのだ。
こんな理不尽な社会で、彼は、どうしてそこまで真っ直ぐでいられるのか、と。
「それでも、魔法不能者は、無能の誹りを受け、否定され、拒絶される。この世は魔法が全てで、魔法を使えないものは人間ですらない――そんな、前時代的な思想に囚われた人だって、決して少なくないものね」
「……そうですね」
幸多は、イリアの目を見つめ返しながら、頷いた。
イリアのいうことは、もっともだった。
幸多自身、子供のころから、魔法不能者であるというただそれだけの理由で、様々な心ない言葉を浴びせられてきたし、酷い扱いを受けてきたものだ。いまにして思えば、子供のころの方が酷かったようにさえ思える。
央都市民は、魔法不能者等に対する差別をしないように教育され、成長していく。しかし、まだ教育を受けてもいない、あるいは学校に通い始めたばかりの子供たちは、思うままに言葉を紡ぎ、投げつけてくるものだ。
魔法を使えないというただそれだけのことが、生まれながらにして魔法と慣れ親しんだ子供たちにとっては、奇異なものに映るのだ。そして、その見たまま、感じたままの気持ちを言葉にする。
それが幸多の心を傷つけることになるなど、考えてもいない。
純粋だからとか、無垢だからとか、そういうことではあるまい。
まだ、そういう想像力を働かせることもできないころなのだ。
人間とは、成長していく生き物だ。
誰もが子供のころからあらゆる状況に対応できるわけもなければ、そんなものは、大人になってもあまり変わらないのではないだろうか。
けれども、だとしても、傷つきはする。
そのとき感じた痛み、哀しみ、苦しみは、決して消え去ることはないのだろう、と、幸多は想っている。
「でも、それはある意味では仕方のないことなのでしょうね。誰もが当たり前のように魔法を使えるから、魔法を使えない人の気持ちなんてわからないし、わかろうともしない。寄り添ってくれるのは、ほんの一握りの人達だけ。魔法士は、それが当然というのでしょう。そして、それを否定することもできないから、理不尽なものは理不尽なまま、厳然と存在し続けてしまう。是正することも、変えていくこともできない」
「イリアさん……?」
幸多は、イリアが突如として社会の現状に対する不満を言い始めたことに戸惑いを覚えた。それも、自分の立場とは全く無縁のはずの、魔法不能者の待遇に対するものであるということが、幸多にはわからない。
イリアは、そんな幸多の困惑も気にならなかった。彼がそのような反応を示すのも当然だということは理解している。
なんの説明もしていないのだから。
静かな時間だった。
決して広くはない室内にイリアと幸多の二人だけしかおらず、なんの作業もしていないために、数多の機材も沈黙している。聞こえているのは、空調機が発する音だけ。それも聞き心地の悪いものではない。
こうして穏やかでいられるのは、彼を見ているからなのだろう、と、イリアは実感として認識する。
皆代幸多。
この世界でたった一人の完全無能者であり、同時に第四世代相当の魔導強化法を施術された唯一の人間。
彼を見ているとどうしようもなく胸が苦しくなる理由も、イリアは理解していた。
彼が、魔法不能者として、完全無能者として、この魔法社会の中心ともいうべき戦団のただ中で奮起していること、それ自体が、イリアには眩しく、輝かしいのだ。
彼は、イリアにとって光といっても過言ではなかった。
そしてそれは、かつて彼女が視た光に重なっている。