第三百六十六話 幸多のこと(七)
「幸多!」
「幸多くん!?」
「どうしたんだい!?」
美由理、イリア、愛の三人は、ほとんど同時に驚き、ほとんど同時に幸多に駆け寄ったのは、幸多が突如としてその場で崩れ落ちていったからだ。
なにが起こったのか、その場にいる誰にもわからなかった。
ヴェルザンディが、その幻想体の指先で幸多の頬に触れるような素振りを見せたその矢先の出来事だった。
幸多は、なにか強烈な衝撃でも受けたかのような反応を見せたのだ。
そして、その場でくずおれていく彼の体を抱き留めたのは、ヴェルザンディである。
ヴェルザンディは当然として、ウルズもスクルドも彼女の幻想体と、その腕に抱かれている幸多の姿を見て、なにが起きているのか理解できないといった様子だった。
美由理が幸多に駆け寄り、彼の体をヴェルザンディから奪い取るように抱き抱えたその隣で、ヴェルザンディ自身は、己が両腕を見下ろし、右手の人差し指へと視線を移す。
『どういうこと?』
ヴェルザンディが、全身を使ってその困惑ぶりを表現するのも当然だっただろう。
統合情報管理機構の演算能力を駆使しても、なんら回答を導き出すことのできない出来事が起きたのだ。
愛とイリアが幸多の側で腰を屈める中、ウルズとスクルドはヴェルザンディの元へと飛翔してくる。
『いま、幸多様に触れましたね?』
『幻想体なのに?』
ウルズとスクルドは、ヴェルザンディがその身で体験し、その目で記録した出来事をノルン・システムの機能によって追体験していた。ノルン・システムは、ノルン・シリーズとも呼ばれる三基の魔機によって構築されている統合情報管理機構である。
ヴェルザンディ・ユニット、ウルズ・ユニット、スクルド・ユニットは、それぞれに搭載された人工知能を元とした仮装人格を持ち、そこに幻想体が肉付けされているのが現状なのだ。ヴェルザンディの幻想体が体験した事象は、ウルズ、スクルドにも同じように体験可能であったし、ノルン・システムによる情報の集積と蓄積、分析と解析、そして未来予測を行うだって可能だった。
故に、ヴェルザンディの身に起きた出来事を自分が経験したことのように確認することだって、自由自在なのだ。
そして、だからこそ、混乱も伝播する。
三基の魔機が出力する幻想体は、まるで大混乱の末に思考停止に陥った人間のように動かなくなった。
「幸多になにが起きた?」
「そんなことが一目でわかるなら、それはもう神様さね」
美由理が意識を失ったまま目を閉じている幸多の顔を覗き込みながら誰とはなしに問いかければ、愛が、静かに告げた。
イリアは、幸多のことを気にしながらも、女神たちにこそ意識を向けている。
「ヴェル、あなた、幸多くんに触れたの?」
『え、えーと……なんていうか、うん、そうみたい』
ヴェルザンディは、イリアの質問に対し、しどろもどろになりながら答えた。
幻想体である。
現実世界において触れられるのは、同じく立体映像たる幻想体だけであり、現実の人間への干渉能力など存在しない。
この中枢深層区画という現実と幻想の境界のような空間であっても、だ。
彼女が触れることができるのは、同じ幻想体である姉妹たちだけだ。
だから、ヴェルザンディが幸多に触れようとしたのは、そういう素振りをしただけであって、彼の気を紛らわせようという彼女なりの気遣いだった。
それなのに、ヴェルザンディの人差し指には、確かな感触があった。幸多の頬に触れたという実感である。
ヴェルザンディにとってそれは、初めてに近い感触だった。
幻想体ならばいくらでも触れたことがある。ウルズやスクルドとはしょっちゅう触れ合っていたし、星将の訓練に付き合うことも少なくなかった。幻想空間ならば、女神たちはいくらでも強くなれたし、星将の訓練相手にもなれたからだ。
だが、現実空間に存在する物体に触れたことなどあろうはずもなければ、触れられるはずもなかった。
だから、混乱する。
ノルン・システムの情報処理能力を総動員し、最大出力で演算しても、回答は見当たらない。
なぜ、幻想体が実体たる幸多に触れられたのか、全くわからないのだ。
しかし、ヴェルザンディの指先は確かに幸多の頬に触れ、この両腕は確かに彼の体を抱き留めた。今でこそ美由理の腕の中にいるが、ヴェルザンディは、彼の体重をその幻想体で実感し、体温をも感じ取った気がしてしまった。
ありえないことが、起きている。
ノルン・システムがエラーを吐き続けているのが、イリアの手元の端末からの報告によってわかっている。このままでは、
重大で深刻な事態に発展しかねないのではないか、というほどだ。
「どういうことだい?」
「そんなこと、わからないわよ」
イリアが、愛の疑問に対し、素っ気なく答えたのは、ヴェルザンディたちノルン・シスターズのことと幸多のことを考えるのに必死だったからだ。
愛は、といえば、美由理の腕の中の幸多を診ているため、イリアの反応の冷たさなど気にも留めなかったのだが。
「ただ一つ言えることは、あり得ないことが起きたということよ」
イリアは、手にした小型端末を操作しながら、告げた。先程の事象によってエラーを履き続けるノルン・システムをどうにかして落ち着かせなければ、ならない。
ノルン・システムは、戦団のみならず、この央都の根幹を成す機構である。ノルン・システム全体が落ちるようなことがあれば、それだけで央都全体が機能不全に陥ることになる。
それだけは、なんとしてでも避けなければならない。
ノルン・システムは、幸多との接触についての答えを導き出すべく考え続けていて、だからこそ、エラーを吐き続けている。
幻想体が実体に触れることなど、通常、あり得ないことだ。
考えられないことであり、想像できないことでもある。
幻想体は、幻想空間に投影された立体映像であり、意識を幻想体に同調させた場合に実感を得ることができるのは、そのように調整され、設定されているからにほかならない。
現実空間において、幻想体が物質に干渉することは不可能であり、ヴェルザンディが幸多に触れることができた現象は、遥か過去から現在に至るまで、一度たりとも確認されていない出来事といって良かった。
だから、というわけではないが、イリアは、女神たちが幸多を取り囲み、触れようと試みては、愛の視線や美由理の無言の圧力に屈する様を眺めながら、考え込む。
幸多の身になにが起きたのか。
なにかが起きているのか。
彼の身に施された第四世代相当の魔導強化法は、幻想体に干渉することができるようになるとでもいうのか。
そんな、ありえないことすらも考えなければならない。
「なにも、恐れることはないよ」
聞いたことがあるような、聞いたこともないような声がした。
その声に誘われるように目を開くと、見覚えのある部屋の中にいた。
そこが実家にある自分の部屋だということに気づいたのは、当然だろう。散らかし放題で、片付けることすら諦めたままの、いつか見た景色。いつも見ていた情景。
幸多の記憶の中の風景。
いまや色褪せ、遠い過去のものと成り果てた光景だった。
「ぼくたちは、いつだって一緒だ。だから、心配する必要なんてないんだ」
声だけが響く中、幸多は視線を巡らせる。声には聞き覚えがあるような気がするのだが、しかし、聞いたことなんてないような気もする。なんともいえない不思議な感覚。
けれども、不快感はない。
なんだか、居心地の良さすら感じた。
「それは、いけない」
声が、苦笑する。
「ここに居心地の良さを見出したら、きみまで溶けてしまうだろう?」
どこに溶けてしまうというのか。
幸多の疑問は、真っ青なカーテンが大きく揺れて、それとともに大量の風が吹き込んできたことによって、どこかへと吹き飛ばされてしまったようだった。
意識が、遠のく。
「それでいい――」
声も、遥か彼方へと消えていくようだった。
はっと、する。
視界を埋め尽くすのは、真っ白な天井だ。病的と言ってもいいくらいに潔癖な白さは、ここが医療棟の一室であることを考えるまでもなく実感させるようだった。
見慣れた景色でもある。
「どうして……」
幸多は、思わず疑問を口にした。どうして、自分はこんなところにいるのだろう。さっきまで中枢深層区画にいたはずだ。
そこで、自分の体の秘密を知り、自分が何者なのかを多少なりとも理解した。
そこまでは、はっきりと覚えている。だが、そこから後のことは思い出せない。
「気がついたようだな」
声をかけてきたのは、美由理だった。寝台の隣に配置した椅子に腰掛け、端末と睨み合っていたらしいのだが、いまは幸多にその目を向けている。
「師匠……」
幸多は、美由理が見守ってくれていたらしいという事実にほっとした。
美由理が側にいてくれるという、ただそれだけのことがとてつもなく心強い。