第三百六十三話 幸多のこと(四)
幸多は、自分が生きていられる理由を、赤羽医院の院長であり、彼を母胎から取り出した医師・赤羽亮二の手腕のおかげだと聞いていたし、そう信じていた。
両親も、そう言っているし、今も信じているはずだ。
幸多が母の胎内にいる間、彼の体内には魔素が一切確認できず、それどころか魔素を生産する能力を持たない、極めて稀有な存在であることが判明した。
魔法が誕生してから今日に至るまで一人としてその存在が確認されたことのない、未知の存在。
それが、幸多と名付けられる前の胎児だったのだ。
奏恵がそのまま幸多を出産すれば、地上の膨大な魔素に満ちた空気に触れた瞬間、魔素が持つ圧力に肉体が耐えきれず、それこそ砂のように崩れ去るだろう――と、赤羽亮二は、両親に忠告したという。
忠告というよりは、警告に近かった、と、後に両親は述懐しており、幸多は己が生きていられることは、奇跡的な出会いによるものだと信じて疑わなかったものだ。
両親が、赤羽亮二と出会ったからこそ、幸多は生まれることが出来た。
赤羽亮二は、特別な機械を用いることで、幸多を母胎から取り出すことに成功させた。その特別製の機械は、赤羽亮二が考案し、開発したものである。
赤羽亮二がそのような機械を開発したのは、とりも直さず、奏恵の出産を成功させるためであり、いわば幸多のためといっても過言ではない。
赤羽亮二が、持ち前の知識と技術力の全てを注ぎ込んで作り上げた装置。
幸多は、生まれ落ちてから一年余り、その培養槽のような機械の中で過ごした。その機械こそが幸多の肉体をこの世界に順応させるために必要な処置をしてくれるのだ、と、赤羽亮二はいい、奏恵も幸星もそれを信じていた。
実際、幸多は、一年後には調整槽の中から外に出ることが出来たのだ。空気に触れても問題はなく、心身ともに異常を来すようなこともない。幸多は、ようやく、両親と触れ合うことができたのだが、当然のようにそのときの記憶はない。朧げにすら思い出せないのは、物心付く前の出来事だからに違いない。
両親は、赤羽亮二に心の底から感謝した。赤羽亮二こそ、皆代家にとっての救い主である、と、両親は思ったらしい。
実際、赤羽亮二がいなければ幸多は生きていられなかったのだから、神のように崇め奉ったとしても不思議ではない。
幸多も、物心つく以前から、赤羽亮二の偉業について何度となく聞かされていて、今でもその両親の言葉一つ一つを明確に思い出すことが出来た。
だからこそ、幻魔災害で命を落としてしまった赤羽亮二、緋沙奈夫妻のたった一人の子供であり、幸多と同じ日に生まれた統魔を引き取ったのだ。それだけが皆代家に出来る唯一の恩返しである、と、両親はよくいったものである。
そして、統魔が幸多の兄弟となり、皆代家の一員となった。
十年以上の昔の話。
今になって思い出すのは、この体について考えるのであれば、避けては通れないことだからだろう。
そうした出来事の全てが、この体がこの魔素に満ちた世界に順応した証だと、幸多自身が想っているからだ。だが。
「結論から言うと、きみの体は、この世界に順応してはいないんだ」
愛が、一枚の幻板を指し示しながら、いった。
幸多は、医務局長のその言葉に多大な衝撃を受け、絶句した。一瞬、頭の中が真っ白になって、なにも考えられなくなる。幻板に表示されている映像がなにを意味しているのかもわからない。
「以前にも教えてあげただろう。たとえば、きみの毛髪ひとつを取ってもそうだが、きみの体を離れた瞬間、地上の魔素圧に押し潰され、形を保っていられなくなり、崩壊してしまう。それは、通常、ありえないことさ。あたしの髪の毛だって、イリアや美由理の細胞だって、そんなことにはならない。それは極めて特別な、特異なことなんだよ」
そういって、愛は、自分の髪の毛を一本、抜いて見せた。彼女の白金色の毛髪は、確かに幸多の髪の毛のように瞬く間に崩壊するようなことはなく、女神たちの放つ光を受けてキラキラと輝いて見せた。
幸多が同じように自分の髪の毛を抜くと、今度は、ゆっくりと、しかし確実に、砂のように崩れ去っていく。
まるで、この幻想体が崩壊していくような、そんな現実。
その有り様を目の当たりにすれば、自分の肉体がどうしようもなく特異なものだという事実を受け入れざるを得ない。
いや、そんなことはわかりきっていたことだ。
知っていたことだ。
愛によって知らされていた事実なのだ。
しかし、それにしたって、と、幸多は考え込む。
幸多は、自分の体がこの世界に順応しているものだと信じて、今まで生きてきたのだ。赤羽亮二にそう診断され、幸多の定期検診を行ってくれている赤羽医院の黒塚優羅にも、何度となくそのような結果を示されていた。
もうなにも心配することはないのだ、と、赤羽医院の誰もが口を揃えていっていた。両親もそれを信じていたし、幸多だって、信じ切っていた。
実際、いままでなんの問題もなかったのだ。
この体がなにか異常を来したことなど、一度だってなかった。
だから、混乱する。
イリアが、呆然とする幸多の顔を見て、口を開いた。
「そしてそれは、常にきみの体で起こっていることでもあるのよ」
「常に……?」
「そう、常に」
幸多がイリアの発した言葉の意味を完全に理解するには、多少の時間を要した。いや、言葉の意味そのものは瞬時に理解できたはずだ。しかし、脳がそれを拒んでいるような感覚があった。
イリアのいうそれとは、幸多の体を構成する細胞が、莫大な魔素によって押し潰され、砂のように崩壊していく現象のことだろう。
その現象が、常にこの体で起きているというのだ。
幸多には、受け入れらるはずもない。
現に、幸多の体は崩壊していなければ、存在し続けている。自由に動き回ることもできれば、軽い怪我がみるみると回復していく様をこの目に焼き付けている。それらは、第三世代の魔導強化法を施術された同世代の人々と全く同じか、それ以上といっていい。
崩壊の予兆すら、感じられない。
「人間の体は、数十兆の細胞で成り立っているということは、聞いたことくらいあるだろう。そして、それらの細胞は、毎日のように死に、毎日のように誕生している。そうして人間の体は成り立っているわけだ」
「細胞の新陳代謝とか、聞いたことくらいはあるでしょ?」
「はい」
「きみの場合は、そう、いまこの説明をしている数秒の間に、何度も、いいえ、何十回、何百回も、その肉体を構成する大量の細胞が死に、それと同じ数だけ生まれているといっていいのさ」
「魔素を内包しない、魔素を生産しない肉体が、どうしてこの地上で生きていられるのか、それである程度の説明がつくのよ。秒単位、ううん、もっと短い間隔できみの細胞は生と死を繰り返しているの。それがきみが生きていられる理由のひとつ」
愛が指し示した幻板には、幸多の生体解析によって浮き彫りになった驚くべき事実が映像として流されていた。
つまり、幸多の体の表面を拡大し、細胞が瞬く間に壊れていく様が映し出されている。体の表面の細胞が死に、新たな細胞が表出してくると、またすぐに死ぬ。さらに新たに生まれた細胞が出現し、死んでいく。その繰り返しは、まるで細胞の新陳代謝に関する記録映像を数倍から数十倍の速度にして流しているのではないかと思いたくなるくらいだった。
そしてそれは、幸多の全身、あらゆる部分の細胞で起こっている現象だった。
指先、顔面、眼球、毛髪――ありとあらゆる箇所の細胞が、死と新生を繰り返している。
凄まじい速度の生と死の振幅。
その映像を見せられれば、愛たちの言葉が誇張などではないのだと理解するしかない。
無論、幸多に彼女たちの言葉を疑う理由もないのだが。
そしてそれが特別な事柄であり、普通ではないということも認識する。
通常、一日かけて行うような細胞の死と新生を秒間何十回、何百回と行っているといわれ、その映像を見せられれば、納得するしかない。
どう考えても、尋常ではない。
「これが、きみの体の特性のひとつというわけだ」
「ひとつ……ですか」
「もうひとつは、きみの細胞が限りなく生産され続けているということだね」
「まるでわたしたち魔法士の肉体が魔素を生産し続けているように、きみの肉体は、細胞を生産し続けている。そうでもしなければきみの肉体はとっくに限界を迎えていてもおかしくはないし、崩壊していても不思議ではないものね」
「でも、どうして……?」
幸多は、愛やイリアの話を聞きながら、脳内を席巻する混乱と疑問に対する回答を求めた。混乱が混乱を生み、頭の中をかき乱し続けている。このままでは精神の平衡すら保っていられなくなるのではないかと想うほどだ。
幸多が信じていた土台が、覆されてしまった。
足元が不安定になっているような感覚が、彼を襲っていた。
「おそらく、きみが生まれてから一年の間にされた特別な処置とやらに関係しているんだろうね」
愛がさらに一枚の幻板を出力する。
そこには、赤羽医院内で撮影された記録映像の数々が映し出されていた。
幸星が、奏恵の大きくなったお腹を撫でている様子や、なにやら赤羽亮二と深刻そうに話し合っている光景、そして、出産直後の模様など、様々な記録は、幸多が見たこともないものばかりだった。
けれども、なんだか見覚えがあるような気がした。
出産時の記録映像は、赤羽亮二が幸多を取り出すために特別に手配した機材の特徴的な外観が記憶に残っているからなのだろうが。
そして、培養液に満たされた調整槽の中に浮かぶ生まれたばかりの幸多の姿が、幻板に大写しにされた。
その調整槽の中で、幸多は一年もの時間を過ごしている。
「この機械が、きみの体に特別な処置を施した。それは、きみ自身理解していることだろう?」
愛に質問され、幸多は頷くしかなかった。
確かにその通りだ。
そう、聞かされている。
しかし、具体的なことはなにも聞かされていなかったというのもまた、揺るぎない事実だ。