第三百六十話 幸多のこと(一)
結局、幸多は、生体検査の結果についてほとんど知らされないまま、個室を出ることになった。
ただ、王塚カイリにいわせれば、幸多の体は健康そのものであり、昨夜の機械型との戦闘によるなんらかの影響は全く以て見られないということだった。
その事自体には、幸多も安堵をしたものだが。
しかし、なんともいえない気持ち悪さも残っている。
幸多は、自分の体が普通ではないということは、医務局長・妻鹿愛から聞かされて理解している。
この世は、魔素で出来ている。
この世界に存在する全てのものには魔素が宿っているのだから、そう断言しても言い過ぎではない。生物のみならず、無生物を含むあらゆる物質に宿っている。物質ではない大気中にも、真空中にすら、魔素は存在しているのだ。
だが、幸多の肉体には魔素は全く存在しない。故にこそ、完全無能者と呼ばれる、唯一無二の存在なのだ。
そして、そのために、この肉体がどうやって維持できているのか、妻鹿愛率いる医務局は疑問に思ったようだ。
徹底的に調べられ、様々に検査された。
その中で判明した一つの事実に、こういうことがある。
それは、幸多の肉体を構成する細胞や毛髪は、幸多の肉体を離れた瞬間から崩壊し始め、しばらくすると完全に消えてなくなるという、驚くべき事実である。
幸多は、左手を見下ろし、手のひらを開いてみた。
幸多の左前腕は、生体部品で作られた義肢となっている。そしてその義肢は、神経接続によって完璧に脳神経と繋がっているため、幸多の思い通り、なんの違和感もなく動く。
それを見て思い出すのは、サタンによって切り取られた左腕が砂のように崩壊する光景であり、同様に右眼が崩れ去っていく瞬間だった。
地上は、膨大な魔素によって満たされている。
幻魔が引き起こした魔天創世によって、地球上の魔素は、それ以前の数十倍から数百倍もの濃度になったといわれており、その地上に順応するために生み出されたのが異界環境適応処置――いわゆる魔導強化法だ。
今現在、この央都で暮らしている人々が地上の魔素圧に耐えられているのは、体内の魔素質量が魔導強化法によって増大したからなのだ。
もし、魔導強化法によって生体強化が行われていなければ、人体は地上の魔素圧に耐えきれず、崩壊するしかない。
幸多の体から離れた毛髪や細胞、左腕や右眼のように。
ではなぜ、幸多の体そのものは、耐えられているのか。
それは、この驚くべき事実を知らされたときから気になっていたことではあったし、それを解明するためには徹底的な生態解析が必要だということを妻鹿愛がいっていたことは忘れていない。
そして、先程のカイリの言葉だ。
カイリは、どうやら幸多の肉体の秘密について、今回の生体検査でもってなにかしら解き明かしたかのようにいっていた。
「どうした? 浮かない顔をして」
ふと、顔を上げると、美由理の顔が目の前、それも驚くほど近くにあった。
「もしかして、なにかされたのではあるまいな」
「師匠……」
幸多は、美由理のその発言が彼女自身の王塚カイリへの不信感から来るものなのだろうと思いながら、その真っ直ぐな眼差しを見つめ返した。蒼い瞳には、幸多の顔が映り込んでいる。
「なにもされてなんていませんよ」
「……そうか。それはそうだろうな」
「師匠」
幸多は、美由理が自分を納得させるようにつぶやく様を見ながら、意を決して口を開いた。
「後で、お伺いしたいことがあるのですが」
「……わかった。わたしに答えられることならばいいのだがな」
「そうですね」
幸多は、美由理が元いた場所に腰を落ち着けるのを見て、室内を見回した。室内には、九十九兄弟と金田姉妹、伊佐那義一が、生体検査のための順番待ちをしていた。
生体検査は、検査室内の二室ある個室で、それぞれ日岡イリアと王塚カイリが行ってくれるため、同時に二人ずつ受けることができるようになっていた。
つまり、最初は幸多と菖蒲坂隆司が受けたということだ。
ちょうど隆司が隣の検査室から出てきて、幸多を横目に見た。彼は、怪訝な顔をする。
「なに突っ立ってんだ?」
「ああ、いや、別に……大したことじゃないよ」
「ふーん? なんでもいいが、邪魔だと思うぜ」
「うん、そうだね」
幸多は、隆司にいわれて、初めて自分が検査室の扉の前に立ち尽くしていることに気づいた。慌ててその場所を離れると、後ろの扉が開き、カイリが顔を覗かせた。
「つぎは、九十九真白くん」
「金田朝子さん、どうぞ」
カイリに続くように呼び込みをしたのは、無論、イリアである。
真白と朝子がそれぞれの席を立って、それぞれの検査室に向かっていく。
その姿を見届けながら、幸多は、なんともいえない気分の中にいた。
カイリにいわれた言葉が頭の中で渦巻き続けている。
やがて、全員の生体検査が終わった。
全員、なんの問題もないという検査結果であり、昨夜交戦した機械型幻魔が、未知の生物兵器のようなものを使った形跡は見受けられないという結論に至っている。
全員、ほっとしたようだったが、特に安堵した様子を見せたのは、黒乃である。彼はなにかと悲観的に考えすぎるきらいがあるようだった。
どんなことも悪い方向に考え込んでしまうようであり、今回の検査も、既に悪い兆候が出ているから受けさせられるのではないか、などと真白に話してはどやされていた。
結果、なんの問題もないと聞かされると、ようやく人心地がついたらしい。
それでも真白にべったりくっついているところを見ると、不安すぎて疲れてしまったようだ。
ほかの面々には、そういう所は見られないのだが。
ただ一人、幸多を除いて。
幸多は、カイリの発言について、考え続けていた。カイリと、愛の言葉。自分自身の体について、深く考え込んでいる。
そんな幸多の様子を見守ることしかできないのが美由理であり、彼女は、弟子がなにやら黙り込んでいる様子が気になって仕方がなかった。後で聞きたいことがあるとは、一体、なんのことなのか。
一つだけ、思い至ることがあった。
生体検査を受けた直後の発言である。
彼自身の体の特性に関することではないか。
そしてそれは、いずれ直視しなければならないことではあった。
美由理は、イリアに目配せし、イリアは愛に連絡を取った。
そして、検査を終えた合宿組は、本来即座に伊佐那家本邸に戻る予定だったが、美由理の提案によって総合訓練所で幻想訓練を行うことになった。
幸多を除く六人だけで、だ。
どうして幸多は除かれるのか、という疑問を浮かべるものはいなかった。
幸多がなにやら美由理と話すことがあるらしい、ということは、あの一室でのやり取りから伝わっていた。その会話を聞いていなかった隆司でさえ、さっするものがあったくらいだ。
だから、六人はなにもいわず、美由理の指示に従って、訓練所に向かっていった。
「じゃあ、行きましょうか」
そういって、幸多を促したのは、イリアである。
幸多は、思わず美由理を見ると、師は、小さく頷いた。
幸多は、美由理が自分がなにを聞きたいのかを察してくれたのだと理解し、なんだか嬉しくなった。胸中で膨れ上がっていた漠然とした不安が、わずかでも薄れていくような、そんな感覚がある。
美由理は、自分の良き理解者だという考えが、幸多の中にある。それが勝手な思い込みで、一方的な勘違いであるという可能性もないではないが、多少なりとも幸多のことを理解してくれているのは間違いなかった。
自らこの完全無能者の師匠を買って出てくれたのだ。そして、完全無能者であるという現実に向き合ってくれてもいる。
自分には勿体ないくらいの素晴らしい師匠だと、幸多は胸を張っていえるのだ。
だから、幸多は、安心してイリアの後に続いた。
「イリアさん、いいんですか?」
「なにが?」
「医務局が多忙で、借り出されたんじゃ?」
「そうだけど。でも、それよりも大事な話だもの。わたしも行く必要があるわ」
「そうなんですか?」
「そうよ。ねえ?」
「ああ、そうだとも」
イリアに目配せされて、美由理が静かに頷く。
幸多は、イリアも自分の良き理解者なのだということを思い出すと、心強さが一段と増す想いだった。
「そういえば……どこへ向かっているんです?」
「きみといえば、中枢深層区画でしょう」
「そうなんですか?」
幸多は、イリアが導き出した思わぬ結論に驚き、美由理を見た。
「まあ、そうなるな」
『そういうこと!』
美由理の声を掻き消すかのように脳内に響いたのは、ヴェルザンディの声であり、幸多は、思わず耳を塞いでしまった。
「どうした?」
「どしたの?」
美由理とイリアが幸多の反応に怪訝な顔をするのも、無理からぬことだったが、こればかりはどうしようもないことだと、彼は思うのだった。
突如として頭の中に声が響くのだ。
慣れることはない。