第三十五話 決勝大会
魔暦222年6月20日。
その日、央都の空は、朝から晴れ渡っていた。
雲一つない快晴であり、抜けるような青空が央都全体を包み込むようだった。
幸多は、その日はいつもより早く起きた。起きてしまったというべきかもしれない。
誤差の範囲内だと言い聞かせて、昨日準備したものを再度確認しておく。
それから歯磨きして、顔を洗い、服を着替え、少し早い朝食を取った。完全栄養食パンだけでは心許ないかもしれないということで、鶏の唐揚げやら野菜スープやら、様々な手料理を温め直して食べた。
それらは昨夜、見土呂朝子から頂いたものだ。このミトロ荘の管理人である彼女は、幸多が対抗戦決勝大会に主将として参加するということに大層驚いていた。そして、応援してくれており、この手料理の数々もそうした心配りの表れだったのだ。
幸多は、そうした周囲の人達の心遣いに感謝しつつ、腹を満たした。
そして、時間になれば、家を出た。
対抗戦の決勝大会は、葦原市南海区海辺町の南に浮かぶ人工島に作られた、葦原市海上総合運動競技場で行われる。
そのため、幸多たち出場選手は、学校に集合するのではなく、競技場直通バスのバス停が程近い、海辺駅前広場で待ち合わせすることになっていた。
幸多が海辺駅前広場に辿り着いたころには、天燎高校対抗戦部は勢揃いしていた。飛行魔法を使えばどこからでもひとっ飛びなのだ。幸多より遅くに家を出たとしても余裕で追い抜けたはずだ。
「おせーよ、主将」
「ごめんごめん、走ってきたからさ」
圭悟が冗談半分にいってきたので、幸多はそんな言葉を返した。
それは本当だったが、だからといって疲労も消耗もまったくなかった。幸多にとっては準備運動にも入らない距離であり、走行だった。
皆、多少なりとも緊張した面持ちだった。
駅前広場には、幸多たち天燎高校の生徒以外にも他校の生徒が集まっていたから、そのせいもあるのだろう。
桜色を基調とする制服を身につけていることから、星桜高校の生徒たちだということはわかった。相手も、こちらが天燎高校だということは認識しているはずだ。
ほかにも直行バスを待つ人々で駅前公園は溢れかえっており、幸多たちに携帯端末を向ける人達の姿も見受けられた。
「注目の的だな、おれら」
「人気者は辛いね、まったく」
「この口のへらなさなら、なんの心配なさそうだわ」
「本当に安心しました」
幸多たちはそんな軽口を交わしながら、直行バスが来るのを待った。
そして、直行バスに乗って、海上大橋を渡っていった。
バスの窓から覗く景色は、青空の下に広がる茫漠たる大海原であり、朝日を浴びてきらきらと輝く海は、宝石のように美しかった。
幸多は、こうして海を見るのは初めてのことではなかったが、しかし、海上大橋を渡るというのは初体験であり、なんともいいようのない奇妙な昂奮に包まれていた。
決勝大会当日というのも、あるのだろうが。
バスの中は、静かだった。
決勝会場に向かうバスの中なのだ。乗っているのは出場者が大半であり、そうでなくとも関係者が多そうだった。一般客が乗っているのか、どうか。少なくともこの車両には乗っていなさそうだ。
何台もの直行バスが一列に並び、海上大橋を通過している。
年に一度、この日だけは、普段より多くの直行バスが走ることになっているのだ。
故に、バスを一台二台乗り過ごしたところで慌てる必要も心配する必要もない。余裕を持って乗ることができるというわけだ。
海上大橋を半分も進めば、いよいよ海上総合運動競技場が見えてくる。
海上総合運動競技場は、葦原市の南に面した海上に浮かぶ人工島に作られた競技施設であり、その規模たるや、葦原市内の建物の中でも最大級といっていい。
葦原市内では高度制限によって建造物の規模に限界がある。しかし、周囲に人家や施設の存在しない人工島ならば、そうした制限を無視した規模の施設を建造することができるのだ。
だから、海上総合運動競技場は建造された。
巨大な球状の物体が海上大橋の先、直通バスの進行方向にその威容を見せつけてきたとき、さすがの幸多たちも昂奮を隠せなかった。
「あれが海上総合運動競技場……!」
「すげえ」
「でっか!」
「確かに大きいな」
「どでかいわ」
感想は、どれも似たようなものだった。
皆、競技場を映像などで見たことはあっても、直接その目で見たことはなかったのだ。
だから、同じような反応にもなるのだろう。
競技場の外観は、銀色の球体である。実際、球体としかいいようのない形状をしており、その球体を支えるようにして、三本の柱が外周に沿うようにして湾曲している。
球体状の競技場は、全天候型であり、天井は開閉式となっている。競技内容によって、天井を開放したり、閉鎖したりするのだ。
橋を渡りきり、競技場に近づけば、よりその巨大さを理解できようものだった。
バスは、競技場の駐車場に停車した。
幸多たちは、最後部の座席を占領していたこともあって、降りるまでに多少の時間を要した。
降りれば、目の前に白銀の球体が聳えている。球体の下部には出入り口があり、それはさながら怪物の胃袋と直通する口のようだった。
「皆、緊張もしていないようだな!」
圭悟が声を励ましていうと、数名の視線が彼に注がれた。
「んなわけねえだろ」
「するなっていうのが無理だろ」
「少しは状況を考えなよ」
「そうだよ、米田くん」
「……あー、おれが悪いのか?」
男子たちに一斉に責められ、圭悟は納得しがたいといった表情で首を捻った。
そして、競技場前でそんな馬鹿げたやり取りをしているのは、天燎高校の面々だけだった。
競技場前には、続々と、出場校の面々が集まってきており、一帯の空気が異様なほどに張り詰めていた。
対抗戦は、央都市民の間で極めて注目度の高い魔法競技の大会だ。
開催されるようになって今年で十八年目。
今となっては央都になくてはならないものであり、夏の始まりを告げる、まさに季節の風物詩とでもいうべきものとなっている。
今朝も、ネットテレビ各局は、対抗戦に纏わる話題を届けていた。
中でも海上総合運動競技場からの生中継には熱が入っており、現地の様子が央都の全市民に送り届けられていた。
皆代奏恵は、そうした様々なメディアからの情報を耳に流しながら、葦原市に向かっている。いまは彼女が一人で住んでいる家は、水穂市にあり、海上競技場は多少遠かった。とはいえ、央都内のことだ。どこであれ遠すぎるということはなかった。
まずは、葦原市の待ち合わせ場所に向かうことにしていた。
待ち合わせ場所としたのは、央都地下鉄道網本部前駅だ。
央都地下鉄道網は、央都四市を歪に繋いでおり、四市全てが一本の線で繋がっているわけではないのだ。よって、どこかもっとも距離が近い駅で降り、集合するのがいいのではないか、といういつも通りの結論になったのだった。
本部前駅は、その名の通り、戦団本部の目と鼻の先にあるといっても過言ではない駅だ。
戦団本部の眼前に駅を設けたのは、もちろん、そのほうがなにかと都合がいいからだろうし、実際機能的ではあるようだ。少なくとも統魔はそう実感しているという旨の発言をしていた。
奏恵が駅近くの集合場所に向かうと、彼女の父と母、姉と妹が待っていた。
奏恵の家族が勢揃いしているのだ。
「一番遅かったな!」
ふんぞり返るようにいったのは、奏恵の父、長沢伊津火である。魔暦百五十年生まれの七十二歳とは思えないような壮健振りは、魔法社会ならではといっていいのだろう。やや小太り気味なのも、健康の証といっていい。
「そりゃあわたくしたちは昨夜からおりましたもの」
ころころと笑うようにして、伊津火を制したのは長沢浅子。奏恵の母だ。伊津火と一歳違いの今年七十一歳になる母は、やはり年齢を感じさせない若々しさがあった。家族で一番の高身長であり、体型からも力強さを感じさせる。
「まったく相も変わらず仲が良いんだから」
「それって、いいことじゃない?」
「そうなんだけど」
「だったら怒らなくてもいいじゃん」
などというやり取りをしているのは、奏恵の姉と妹だ。
姉は、長沢望実といった。三姉妹の中で一番背が低いが、体つきはしなやかだ。長く伸ばした髪を灰桜色に染め上げ、苺色の虹彩に塗り替えている。
妹は、長沢珠恵といった。牡丹色の頭髪も青緑の目も、望実同様変化させたものだ。三姉妹の中で一番の長身は、母親譲りなのだろう。
年齢に関しては、姉と妹ともに奏恵とまったく同じだった。というのも奏恵たちは、三つ子だからだ。三つ子で、昔から仲が良かった。それこそ、なにをするにしても同じだったくらいには、だ。
それが、いまやこうして会うことも珍しいくらいに疎遠になってしまったのだから、時の流れというのは恐ろしいものだ、とは、父のいつもの言葉だ。そんなことをいうたびに、三姉妹は顔を合わせて、首を横に振る。それが家族揃ったときの定番だった。
「父さんも母さんもお変わりないようで、安心しました。そこのふたりはともかく」
「ともかくで終わらせるな-」
「諦めるなーなんでもいいから褒めろー」
「褒め称えろー」
「そーだそーだー」
なにやらやかましい姉妹を黙殺して、奏恵は、父と母の健康そのものといった様子には嬉しさがこみ上げてきていた。平均寿命が大幅に上がったからといって、健康に気を使わないわけにはいかないのだ。不摂生は体にたたる。
「おまえも、元気そうでよかった」
「本当に……」
父と母の万感を込めた言葉に、奏恵は返す言葉を見失った。幸星を失って、生きる気力を失いかけた事実がある。幸多と統魔がいなければ、あの問題児たちが彼女の回りを走り回っていなければ、生きていられたのか、どうか。
こうして家族一同が揃うのは、幸星の葬儀以来だった。
だから、だろう。
奏恵は、言葉が出なかった。
「しかし、幸多が対抗戦に出場するとは驚いた」
「本当ですよ、まさか奏恵がなにか変なことを吹き込んだんじゃないかと気が気じゃなかったんですよ」
自分で思ってもないことをいうものだから、母は、ひとり噴き出していた。母は、笑い上戸だった。いつも笑っていて、一家の太陽のような人だった。
「幸多くんも元気そうで、本当によかったわ」
「うんうん、幸多くんが元気じゃないと、あたしたちまで元気なくなっちゃうもんね」
「そんな連動性だっけ?」
「そうよ、あたしなんかは特に。幸多くん大好き人間だからさ。久々に逢えるのも超楽しみなんだけど」
「楽しみなのはいいけれど、ほどほどにしてね」
「なによ、まるであたしが幸多くんに襲いかかるみたいにいって」
「襲いかかるでしょうが」
「う……」
「図星なのね……」
珠恵の昂奮振りからわかっていたことだが、奏恵は、嘆息するほかなかった。
先が思いやられる気がしてならない。




