第三百三十二話 高砂静馬
九月機関総合研究所。
現代における魔法科学の第一人者といえる高砂静馬が運営する研究機関、九月機関の本拠地ともいえるそれは、一見すると要塞のような趣があった。
央都四市の中でも最も北に位置する出雲市内は天神町、南東部に聳え立つそれを予備知識もなく見たものは、誰もがこういうのだ。
「要塞だなあ」
九十九真白は、数ヶ月ぶりの帰郷ということもあり、久々に目の当たりにした総合研究所の外観に誰もが当然のように抱く感想を述べたのだった。
「確かに……いわれてみると、そうかも」
黒乃も、兄に倣うようにつぶやく。
真白と黒乃がふたり揃って眺めているその要塞然とした建物は、そこで育ったものにとってしてみればこの世界そのものといっても過言ではなかった。
当然のように存在し、当たり前のように全てを受け入れてくれる天地。
この世の全て。
この巨大な構造物以外に世界はなく、外界のことなど知る由もないまま、成長していく。
九月機関で育つとは、そういうことだ。
九十九兄弟が外の世界について知ることとなったのは、戦団に配属されることになる一年ほど前のことで、それまで外の世界についてはほとんどなにも知らないといってもいい状態だった。
漠然と、この城の外にも世界が広がっているということは理解していたのだが、外の世界がどんなものなのか知る方法はなかった。
ただ、危険に満ちている、ということは教えられていて、だからこの幻獣の紋章が刻まれた門を越えようなどともしなかったのだ。
この世に存在しない架空の動物たる幻獣の紋象は、九月機関の象徴であり、高砂静馬の理念を具現化したものであるといわれている。
つまり、九月機関は、人類がこれまで成し遂げたことのない奇跡を実現するために立ち上げたのだ、と。
それこそ、人類復興であり、幻魔殲滅であることは、いうまでもないことだが。
思い返せば、行儀のいい子供だったものだ、と、黒乃は兄を横目に見て、思ったりもした。
「たのもー」
真白が門前で大声を上げると、それに反応したかのように門が開く。
総合研究所の広い敷地を囲うのは、五メートル以上はある高さの塀であり、門である。それらはさながら要塞の周囲に張り巡らされた城壁のようだ。
そこからして、要塞然としている。
「懐かしいな」
「そうだね」
真白と黒乃は、門の内側に足を踏み入れるなり、視界に飛び込んできた敷地内の光景に同様の感想を抱いた。
外界に飛び出して、およそ四ヶ月。
目まぐるしい変化を続ける外界とは異なり、九月機関総合研究所の敷地内の様子に変化は見られない。
最も目立つのは、要塞染みた外観の研究所だ。地上十メートルという建築基準法における高度制限の限界に挑戦した建物は、見るからに威圧的で権力的に見えた。攻め込むのは難しく、護るのは容易い、そんな印象を受けるのは、真白たちが外界を知ったからなのか、どうか。
外界には、危険が満ちている。
幻魔はどこにだって出現し、災害を撒き散らした。誰もが当然のように危害に遭い、命の危険に曝されている。
だからこそ、この要塞染みた研究所が頼もしく思えるのかもしれない。
ここでならば、幻魔災害が吹き荒れる央都であっても、安穏たる日々を送ることができるのではないか。
そんな要塞の内側たる敷地内には、研究所以外にも様々な施設がある。研究員たちが住み込んでいる居住区にはいくつもの住居が立ち並んでいて、その内の一棟には、九十九兄弟のように九月機関に引き取られた孤児たちが共同生活を送っている。
それらの建物も含め、見るもの全てが懐かしい。
「まるで時が止まっていたみたい」
「確かに」
黒乃が不意に漏らした言葉に同意しながら、真白は研究所に向かって歩いて行く。
空は晴れ渡り、降り注ぐ陽光は烈しかった。
八月上旬、真夏に近いと言ってもいい頃合いだ。日光は強く、気温も高い。けれども、総合研究所の敷地内は寒いくらいの気温が維持されていた。
敷地内の各所に設置された魔機が、温度を調整しているのだ。
それそのものは珍しいものではなかったし、ごくごくありふれた現代魔法社会の在り様に過ぎない。
九月機関総合研究所内にあるもののほとんどが、そうだ。
極一部を除いて、なにもかもがありふれている。
まず二人が足を向けたのは、研究所である。
研究所内に足を踏み入れた九十九兄弟は、待ち受けていた研究員に案内されるまま、奥まった一室に向かった。所長室である。
所長室は、やはり幻獣の紋章が刻みつけられた重厚そうな扉の奥にあり、研究員によって扉が開かれると、兄弟はその場に取り残される形となった。そして、所長の声に導かれるようにして室内に入ったのだ。
所長室内には、高級そうな調度品が適度に配置されているだけでなく、無数の幻板が空中を飛び交うようだった。頭上から降り注ぐのは天井照明であり、その光の冷ややかさは太陽光とは全く趣を異にするものだ。
凍てついたような光に照らされた室内、その最奥部で机に向かっているのは、九月機関所長である。
高砂静馬。
茶色の頭髪を適当な長さで整え、秀麗な顔立ちを映えさせている。その緑色の瞳は、端末が出力する幻板に流れる文字列を追い続けていて、その視線が移動する速度は凄まじい。長身痩躯。適度に鍛えられた肉体は、健康そのものだ。そして、その上からは、紋象入りの白衣を身につけている。
見る限りでは中年の男性にしか見えないが、実年齢は六十を越えているという。魔暦百六十年央都に生まれ、十六歳のときに戦団に入ったというのだから、才能に溢れていたのは疑いようもない。
彼が戦団に入ったのは、星央魔導院が開校するずっと昔のことなのだ。才能がなければ、若くして戦団に入ることなど出来まい。
「おかえり、真白、黒乃」
静馬は、作業の手を止めると、顔を上げた。緑色の瞳が、所長室に入ってきた双子を捉える。髪色と表情くらいしか大きな違いのない、瓜二つの兄弟。九十九兄弟。
「ただいま、所長」
「ただいま帰りました」
真白が軽々しく挨拶を返すと、黒乃がぎょっとしつつも深々とお辞儀をした。
性格も正反対な双子の反応に、静馬は、微笑を返す。
「この四ヶ月の戦団生活、どうだったかね? 上手く馴染めそうかな?」
静馬は、席を立つと、所長室の一角へと双子を促した。自らもそちらへ向かう。
そこには応接用のテーブルとソファが並んでいて、飲み物や菓子も用意されていた。
九十九兄弟が研究所に帰ってくることは、二人から前もって連絡があったからだ。そして、二人が最初に挨拶に訪れるのは所長である静馬の元と決まっている。これくらいの用意をしておくのは、当たり前のことだった。
「……まあ、なんとかなりそう、って感じかな」
真白は、ソファに腰を沈み込ませるようにしながら、いった。真白は静馬に対して昔から気安い言葉遣いだったし、静馬もそれを改めさせようとはしなかった。
静馬は、所長という立場にありながら、権威的な人ではなかったし、常に物腰の柔らかい、穏和な人だというのが黒乃の印象だった。
二人にとっては父親のような人物だったし、だからこそ真白も甘えるのだろう、と、黒乃は思うのだ。真白の表情、態度から、一切の警戒心がなくなっているのも、そのためだ。
「なんとか、か」
静馬は、ソファに腰掛けながら、真白と黒乃の顔をじっくりと見つめる。我が子のように手塩にかけてきた子供たちだ。その成長ぶりを見守るのも、彼にとって重要なことだった。
黒乃が、真白を横目に睨む。
「兄さん、言葉遣いとか態度とか悪いでしょ。だから、すぐに敵を作って、それで……」
「おれが悪いってのかよ」
「そうだよ。大体全部兄さんが悪いんだよ」
「んだと」
「こらこら。喧嘩はよしなさい」
静馬が窘めると、いまにも黒乃に掴みかかりそうな勢いだった真白が手を止めた。
「はーい」
「ふう……」
黒乃は、ティーカップに手を伸ばしながら、息を吐く。真白は、いつだって静馬には従順だった。他の誰の言いつけも守らないくせに、静馬がいえば、どんなことだって従った。真白が静馬のことを心底慕っていることの証明なのだろう。
黒乃も、同じだ。
他の誰よりも静馬の言葉は力強く、そして、正しかった。
特に、この広くも狭い、外界とは隔絶された世界においては、高砂静馬は神そのものと言っても過言ではなかったのだ。




