第三百三十一話 夏休み(六)
幸多は、口に運んだたこ焼きがすっかり温くなっていることに気づいたが、いまはそんなことを考えている場合ではなかった。口の中に広がる味そのものは悪くはないのだ。それだけで十分だろう。
大切なのは、食べ物のことよりも、親友たちのことだ。
特に圭悟は、天輪スキャンダルの衝撃に直面している。
しかし、導士には守秘義務がある。戦団が認識している情報だからといって、その全てを一般市民に明かしていいわけがない。
戦団は、央都の秩序の根幹なのだ。市民感情を煽らないように情報統制を行うこともまた、戦団の重要な役割である。
だから、幸多は、言葉を選ばなくてはならない。
「戦団も馬鹿じゃないよ」
「……んなもん、わかってるっての」
圭悟は、幸多が突然予期せぬことを言ってきたものだから、危うく吹き出しかけた。実際、焼きそばの上に乗っかっている鰹節がいくつか宙に舞っている。
「馬鹿じゃないからあの程度で済んだんだろ」
「……まあ、そうだね」
幸多も、圭吾の意見に賛同するしかない。
戦団が無能で愚かならば、天輪スキャンダルは起きなかったのではないか。
少なくとも、あのような形で収束することはなかったはずだ。
天輪技研の新戦略発表会はつつがなく行われ、人型魔導戦術機イクサが発表、幻想空間上での演習は、観衆を大いに驚かせ、どよめかせたに違いない。
そして、東雲貞子の暗躍によりイクサが暴走し、会場は阿鼻叫喚の地獄絵図に変わり果てただろう。
新戦略発表会の真実が明らかになった今となっては、そうとしか思えなかった。
無論、報道機関が取り扱い、流布している情報と戦団が掴んでいる情報には大きな齟齬があり、圭悟たちと幸多の間にも情報量の差はあるのだが、だとしても、天燎鏡磨が暴走し、さらに幻魔災害に等しい大事件が起きた可能性は把握しているはずだ。
戦団が無能ならば、天輪スキャンダルは起きなかった。
が、さらなる大事件が起きただろう、と、誰もが想像するのだ。
圭悟は、そのことをいっていた。
「天輪スキャンダルの責任が天燎鏡磨とネノクニ支部だけにあるわけじゃないことくらい、戦団だって十二分に理解しているよ。だから、圭悟くんのお父さんも大丈夫だよ」
幸多は、言葉を選びながらも、伝えられる限りのことを伝えようとした。
圭悟の父、米田圭助は、天燎財団ネノクニ支部総合管理官だった。その立場の大きさを考えれば、事件後、戦団に身柄を確保され、徹底的な取り調べを受けるのは当然だった。
とっくに解放されてはいるようだが、天輪スキャンダル関連の報道合戦が加熱したことによって、圭助ら関係者は世間から白い目で見られているのだとしても、致し方のないことだろう。
事件とはほぼ無関係と言っても過言ではない天燎高校の生徒ですら、そのような目に遭っているというのだから、圭助に対する市民の反応というのは想像するにあまりある。
しかし、それもいつまでも続くものではあるまい。
天輪スキャンダルが天燎鏡磨の暴走によって引き起こされたものではなく、人間に擬態
《ぎたい》した鬼級幻魔の策略であり、関係者ほぼ全員が被害者なのだという事実が明かされれば、天燎財団や関係者に対する非難や誹謗中傷も収まるだろう。
もっとも、それもすぐにとはいかない。
なにせ、〈七悪〉の存在は、導士以外には隠されているのだ。
央都に暗躍する鬼級幻魔の勢力、その存在が明らかになれば、央都のみならず、ネノクニを含む双界全土が大混乱に陥るだろう。
これまで戦団が担ってきた央都守護が、根底から覆されるような事態といっても言い過ぎではあるまい。
鬼級幻魔は、ただ一体だけでも凶悪無比だというのに、それが六体も集まり、勢力を作っていて、常に央都の安寧を脅かし続けているのだ。しかも長年暗躍していたという、厳然たる事実がある。
予てより戦団は、央都の秩序を維持するため、市民に開示する情報の取捨選択を行っている。
それもまた、戦団にとっての央都守護の一環である。
「戦団の判断を疑ったことはねえよ。親父も今は家にいるしな。ただ、これからが心配なんだよなあ」
「お父さんのこと?」
「ああ。今まで仕事一筋で生きてきた人だからな。それを全部失っちまったからなあ」
ようやく焼きそばに手を付け始めた圭悟の横顔を見て、幸多はなんだか安心した気分だった。
圭悟は、圭助のことを毛嫌いしていた。修学旅行の際、彼が物憂げな表情をしていた理由は、きっとそこにあったのだ。天輪技研の発表会ならば、彼の父親が顔を出さないはずだないからだ。
顔を合わせるのも嫌なくらいだったらしい。
彼と父親の間になにがあったのか、幸多には想像することしかできない。彼の言葉から感じ取るに、彼の父親が仕事一辺倒で、彼の相手をしてくれなかったからなのではないか、などと考えるのだが、それも情報の少なさ故の勝手な妄想に過ぎない。
ただし、そうしたわだかまりもわずかではあるが解消しているらしいというのが、圭悟の表情からも見て取れた。父親のことになると険しい顔になっていた彼が、いまは、優しい顔つきになっていたからだ。
それだけで、少しだけでも救われた気分になるのは、身勝手にも程があるのだろうが。
「お兄ちゃんたち、花火見に行くんだよね?」
「おう、そのつもりだぜ」
「だったらまだまだ早いよ?」
愛理が怪訝な顔をするのも無理からぬことだ。未来河花火大会が始まるのは、当然だが、夜になってからだ。
日が暮れる午後七時頃から、未来河の中州に設営された打ち上げ会場から数万発もの花火が打ち上げられるという。
「そうだけど、花火大会まで遊び回るつもりなのよ」
「皆代くんと逢えるのも久しぶりですからね」
「最近は大忙しらしいしさ。中々機会に恵まれなかったんだよね」
「そうなんだ。お兄ちゃんも大変だね」
「まあ、ね」
愛理の気遣いに笑顔を向けながら、幸多は、たこ焼きの最後の一個を自分の口に放り込んだ。
眩いばかりの光に目が灼かれたのは、第三大昇降機を出た瞬間だった。
大昇降機。
ネノクニと央都、地底と地上に分かたれた双界を結ぶ巨大な機構は、百年以上に渡ってその役割を果たし続けている。もっとも、その途中の数十年は微動だにすることもなかったというのだが。
長谷川天璃は、大昇降機を包み込む巨大な建物、その影を出るなり視界を灼いた光に目を細め、天を仰いだ。
「ああ……」
思わず声が漏れてしまったのは、頭上に横たわる蒼穹に無限の広がりを感じたからだ。
どこまでも広がる空、流れる雲の群れ、膨大な魔素を運ぶ大気。
意識がわずかに揺れるのは、地に満ちた魔素の質量が地下と地上では大きく違うからだろう。
それはそれとして、ため息さえ漏れるくらいに心が揺さぶられるのは、本能に違いない。
本能が、叫んでいる。
「太陽……!」
天璃は、遥か蒼穹の彼方に浮かぶ天体に向かって手を翳した。
真っ白に輝き、あらん限りの光を発し続ける太陽の美しさ、鮮烈さ、偉大さは、地底の箱庭に浮かべられた人工物とは比べものにならないほどの力を感じずにはいられなかった。
ネノクニは、地底の王国である。
統治機構総主という王に支配された古錆びた王国。地の底を照らすのは偽りの太陽であり、偽物の空が天を覆っている。
だが、ここは、どうだ。
央都には、本物の空があり、本物の太陽があり、風が流れ、大気が渦を巻いている。新鮮な空気、潤沢な魔素、膨大なエネルギーが、この地を包み込んでいるのが、肌で感じ取れるのだ。
「きみ」
不意に話しかけられて、天璃は、背後を振り返った。作業服に身を包んだ男だ。大昇降機でなんらかの作業に従事しているのだろう。
「大丈夫かね?」
「ええ、大丈夫です。心配して頂き、感謝します」
「いや、感謝されるほどのことじゃあない。地上に上がってきたばかりのネノクニ市民の多くは、魔素の圧力に当てられてしまうんだよ。だからおれたちが常に注意しているというわけだな」
「なるほど」
作業員の説明に頷きながらも、天璃にとっては既知の情報だったということもあって、それ以上は話し込まなかった。頭を下げ、その場を離れる。
ネノクニと央都の違いの最たるものが、大気中に満ちた魔素の総量だといわれている。
ネノクニの魔素総量は、魔天創世以前の地上と変わらないが、地上の魔素総量は、魔天創世によって、それ以前と比較して数十倍から数百倍に増大したと言われている。
だからこそ、あらゆる生物が滅び去った。
人類も、動植物も、微生物も、なにもかも。
生き残ったのは、幻魔だけだ。
故にこの地上は幻魔のものとなったのが、何十年もの昔の話であり、そして、このわずかばかりの土地を人類の手に取り戻したのが五十年ほどの昔のことだ。
それ以来、太陽は、地上の人々のものとなってしまった。
天璃は、大昇降機近くのバス乗り場に向かいながら、再び空を仰いだ。
太陽は、中天に至ろうとしている。