第三百二十八話 夏休み(三)
流星のように降ってきた少女が砂部愛理だということは、幸多に向けられた言葉によって瞬時に理解できたし、頭上を仰ぎ見た瞬間、視界に飛び込んできた少女の姿と過去の記憶が一致したりもした。
しかし、法器に跨がったまま加速しながら降ってくる彼女の様子には、幸多も吃驚するしかなかったし、どう対応したものかと考えている暇もなかった。飛び退くわけにもいかないし、華麗に受け止めるための魔法を使えるはずもない。
幸多は、鋭く息を吐いた。地面を蹴るようにして大きく飛び上がり、落下してきた少女だけを抱き止める。そのまま、法器を蹴ることによって再度跳躍し、空中で回転、地面に降り立つと、法器が音を立てて転がった。
法器は頑丈だ。そう簡単に壊れるものではない。
人体も頑丈極まりないのだが、とはいえ、あの速度と勢いで地面に突っ込めば、軽傷では済まなかったのではないか。
そんな心配が幸多を突き動かしたのだ。そっと、愛理を地面に下ろす。
「相変わらず元気一杯だね、愛理ちゃん」
「お、お兄ちゃんこそ、相変わらずかっこいいね!」
愛理は、その銀色の瞳を煌めかせながら、いった。
幸多は、彼女と逢うのはいつ以来だろうか、と、考えながら足下の法器を拾い上げる。
彼女と最後に逢ったのは、修学旅行よりも前のことで、七月半ばだったような記憶がある。正確には覚えていないが、確か、それくらいだろう。
その間、幸多には色々あった。
彼女にも、きっと、色々あったに違いない。
「はい、法器」
「あ、ありがとう、お兄ちゃん」
幸多から法器を受け取った愛理は、しどろもどろになりながらも言い訳をした。
「あの、あのね、いつもなら大丈夫なんだよ。久しぶりにお兄ちゃんの姿を見つけたら、なんだか制御が効かなくなっちゃって、それで」
「別に疑ったりなんてしてないよ。愛理ちゃんが立派に魔法を制御できてることくらい、わかってるさ」
「あの……それほどでも、ないんだけど」
「でも、試験は上手くいったんだよね?」
「うん!」
そこだけは、はっきりと、そしてなによりも強く、愛理は頷いて見せた。その満面の笑みは、彼女が星央魔導院の早期入学試験に抜群の手応えを感じているということを示していた。
それ自体は、幸多も知っていた。
というのも、天輪スキャンダル後の入院中、携帯端末に溜まっていた愛理からの伝言の数々の中に、試験に関する報告があったからだ。報告の文面からして、彼女の喜びが伝わってくるものだったし、幸多への感謝の言葉が無数に並んでいて、愛理がそれほどまでの苦悩と重圧から解き放たれたのだと理解できるものだった。
「お兄ちゃんは、大丈夫……なの?」
愛理は、幸多の左手を見て、右眼を見つめた。
幸多が天輪スキャンダルの際に重傷を負ったという報道がなされた際、愛理は、衝撃の余りしばし呆然としたものだった。いや、正確には、瞬時には理解できなかった、というべきだろう。両親に説明してもらって、ようやく幸多の容態というものを把握することができたのだ。
そして、頭の中が真っ白になった。
愛理にとって、幸多は、心の拠り所といっても過言ではない存在だ。
家族にも友人にも話せない苦悩を打ち明け、解決に導いてくれた魔法使い――それが皆代幸多なのだ。
だからこそ、幸多が意識不明の重体に陥ったという報道には居ても立ってもいられなかったし、かといってなにもできないという事実を前には、茫然と立ち尽くすしかなかった。
幸多の一刻も早い回復を祈ることしかできない自分の不甲斐なさが、愛理には溜まらなく悔しかった。自分がもっと早く生まれていれば、そして戦団に入っていれば、幸多の力になれたのに、と、思うのだ。
自分を救ってくれた幸多は、愛理にとって英雄そのものだったし、光だった。
だからこそ、その光が消えるかもしれないという事態に直面したときの絶望感たるや、凄まじいものがあったのだ。
そして、一週間後、幸多が意識を取り戻したことが判明したときには、愛理は歓喜の余り、夜も眠れないほどに興奮したことを覚えている。
とはいえ。
「ご覧の通り、大丈夫だよ」
幸多は、愛理の不安そうな表情に応えるように左手を掲げ、右眼を軽く瞑って見せた。無事であるということを主張したのだ。
「良かった……良かったよー」
愛理は、心の底から安堵して、幸多に抱きついた。
幸多に対する想いが溢れ出てしまいそうになるくらいの安心感があって、だから、愛理の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
幸多は、そんな愛理の喜びぶりに戸惑いつつも、嬉しくて仕方がなかった。自分の無事を喜んでくれる人達がいるという事実が、だ。
魔法社会において、魔法不能者は、無能者とも呼ばれている。
そして幸多は、完全無能者などと呼ばれる存在だ。社会において必要ではなく、不要な存在。
それが完全無能者なのだ。
だが、幸多は、そんな社会に抗うように生きてきた。
父と母が己を必要としてくれるから、生きてこられた。統魔という兄弟が出来て、友人が出来て、師匠が出来て、同僚が出来て――自分を必要としてくれる人達がいるという事実が、幸多を存在させているといっても過言ではあるまい。
愛理も、幸多の存在を認めてくれる一人だ。
その頬をこぼれ落ちる涙が、彼女がどれほど幸多のことを想ってくれていたのかを物語っている。
「愛理ちゃん、心配かけて御免ね。でも、もう大丈夫。これからは、なんの心配もいらない」
「本当?」
「うん。ぼくはもっと強くなる。もっと立派な導士になって、皆を、きみを護るよ」
「わたしを……」
「きみも、大切なひとだからね」
幸多は、愛理に目線を合わせるようにして腰を屈めると、その涙を拭ってやった。
愛理は、なんだか気恥ずかしそうに微笑むと、幸多の手を取り、握り締めた。
「お兄ちゃんの手、大きいね」
「まだまだ」
「まだまだ?」
「もっと大きくならないとね」
幸多は、にこやかに告げた。
でなければ、より多くの人を護ることなどできないのではないか。
もっと強く、もっと疾く、もっと大きく――。
心身ともに徹底的に鍛え上げ、最強最高の導士になるのだ。
サタン打倒の悲願を叶えるためには、自分自身が強くなれたと思うだけで満足してはならない。
「ところで、なんだけどさ。お兄ちゃんは、何処かに向かっていたの?」
愛理は、幸多の手を握り締めたまま、ふと浮かんだ疑問を口にした。こんなところで幸多と遭遇することなど、ありえるものだろうか。
幸多が任務中だというのであれば、わかる。
この八月、幸多の所属する第七軍団は、葦原市の通常任務についていた。幸多が小隊の一員として巡回任務を行っているのだとしても、なんら不思議ではないのだ。
しかし、愛理の目の前の幸多は、私服だったし、ほかの導士の姿も見受けられないこともあり、任務中ではないことは明らかだった。
白と黒の水玉模様が特徴的な衣服は、幸多に凄く似合っている。
「久々に友達と逢うんだ。二週間ぶりくらいかな」
「あの日から逢えてないってこと?」
「そういうこと」
「じゃ、じゃあ、わたしが送ってあげるよ」
「いいの?」
「わたし、さっきまで魔法制御の訓練中だったんだ。お兄ちゃんを乗せて飛ぶのだって、立派な訓練になると思うんだよね」
「そうだね。それなら、御言葉に甘えさせてもらうとするかな」
幸多は、愛理の申し出と気遣いに微笑んだ。彼女の技量には疑問はない。たとえ魔法の制御に失敗したとしても、瞬時に取り戻す術を持っている。だから、心配など一切しなかった。
「どうぞ、お乗りください、お兄ちゃん」
愛理は、法器に跨がると、得意げな顔を幸多に見せた。その言動の一つ一つからは、魔法に関する不安が一切なくなっている。
万能症候群が完全に解消されたというわけではないのだろうが、彼女がその恐怖を克服したのは間違いない。
幸多は、愛理の法器に跨がると、彼女に行き先を伝えた。
そして、二人を乗せた法器は、愛理の飛行魔法によって重力の軛から解き放たれ、天高く舞い上がったのだ。




