第三百二十五話 天国地獄
かつて、光の都と名付けられ、いまやただの廃墟と化した都市の跡地は、先頃、戦団と天使、そして悪魔との戦闘によってさらに深く徹底的に破壊されていた。
爪痕は、大きく二つ。
一つは、アザゼルとの戦闘によって生じたものであり、戦団最高戦力の一角である星将・麒麟寺蒼秀の星象現界・八雷神が、その極めて強大な威力を発揮した結果といっていい。
無論、アザゼルも星将以上の力を持ち、相応の破壊力を撒き散らしたことはいうまでもない。
もう一つは、戦団の導士たちと天使オファニムの戦闘によって生じたものだ。
巨大な球体のような姿態をしたオファニムは、強力な攻撃魔法の数々によって、本荘ルナと名乗る異物を排除しようとした。しかし、どういうわけか、人間たちは彼女を守り、オファニムを攻撃した。
オファニムへの攻撃自体は、仕方のないことだ
人間にとって天使も悪魔も同じ幻魔に過ぎない。
本質が異なるのだ、と、いくら説明したところで納得は出来まい。
人間がオファニムの死骸を徹底的に調査したところで、幻魔との差違を見出すことなど出来ないだろう。
結局、人間にとって幻魔は幻魔であり、天敵であり、滅ぼすべき敵なのだ。
だからこそ、彼女は生き残った。
この世に生じた異物。
第二の特異点とでもいうべき存在。
本荘ルナ。
「オファニムを差し向けたそうだが」
ルシフェルは、不意に思考を妨げた声に対し、廃都の様子を映しだしていた水晶球から目線を外した。そちらを見遣れば、頭上から降り注ぐ膨大な陽光の下、ロストエデンの瓦礫の上で白銀の大天使が立ち尽くしていた。
メタトロン。
文字通り、白銀が天使の姿をしているような彼は、納得できないといわんばかりの表情でルシフェルを見ている。黄金の大天使ルシフェルは、彼の疑問ももっともだとは想いつつも、口を開くのだ。
「生まれたばかりで悪かったが、ほかに手が空いているものがいなかったからね。ドミニオンでは、あまりにも力不足だ」
「ならば、きみが行けば良かった」
「まさか」
メタトロンらしからぬ発言に、ルシフェルは苦笑を浮かべる。
「そんなことをすれば、彼らを傷つけることになりかねない。我々の目的、存在意義は、人類の守護だ。人類を存続させることこそ全て」
「オファニムならば、どうなろうと問題はなかったと?」
「オファニムは、本荘ルナだけを抹消するためにその全力を尽くした。事実、アザゼルの横槍させ入らなければ、彼らは力尽き、本荘ルナの消滅を見届けるしかなかったはずだ」
ルシフェルの脳裏には、自ら命を投げ出そうとする本荘ルナの姿が過っていた。
なぜ彼女がそのような行動に出たのかはわからないし、反撃さえしてこなかったのかも理解できないが、ともかく、オファニムは本荘ルナを滅ぼす寸前まで行ったのだ。
だが、かなわなかった。
それもこれも、アザゼルによる介入があったからだ。
「問題なのは、オファニムの消滅ではないよ。アザゼルの介入のほうだ」
「……確かにな」
ルシフェルの意見には、メタトロンも同意するしかない。
アザゼルは、オファニムを殺した。まるで本荘ルナをオファニムの攻撃から守るために。しかし、即座に本荘ルナを殺そうとしている。
その行動には、矛盾しか見受けられない。
「アザゼルはサタンの配下だ。アザゼルの行動は、サタンの意志そのものであるはずだ。しかし、あの矛盾した行動には、一貫性がない。サタンの意志とは乖離しているように感じられる」
「わたしもきみと同じ考えだ。アザゼルがサタンの意志とは無関係に行動しているのであれば、彼がなにを考え、なにを目的としているのか、注意深く見守る必要がある」
「注意深く見守るだけか?」
「……さて」
ルシフェルは、メタトロンの鋭すぎるきらいのある眼差しを逃れるようにして、視線を巡らせた。
ロストエデンの廃墟然とした風景の中、二大天使の会話に耳を傾けているものたちの姿が溶け込んでいる。
彼ら天使たちを動員するには、時期尚早すぎるのではないか。
ルシフェルが考えるのは、そのことばかりだ。
深く暗く重い闇がひたすらに蹲っているかのような空間の真っ只中、彼は、一人歩いていく。響き渡るのは靴の音だけであり、幾重にも反響する様はまるで呪いの言葉の羅列のようですら有った。
心地よく、素晴らしい。
そうして歩いていると、しばらくして風景が変わった。
なにもなかったはずの闇の中に複雑な構造物が出現し、視界を妨げ、進路を塞ぐ。
「ふむ」
アザゼルは、口の端だけで苦笑すると、その構造物を避けるようにして前進した。
そうする内になにやら打鍵音が聞こえてきたものだから、彼は訝しんだ。
この闇の世界にこんな場所があるだなんて知らなかったし、打鍵音が聞こえてくるなどあり得ないことのように思えたからだ。
幻魔は、機械を嫌う。
それは本能的なものであり、一部の例外を除き、ほぼ全ての幻魔が機械を黙殺し、無視を決め込んだ。
幻魔が機械の存在を認識することは愚か、触れることなどあろうはずもないのだ。
幻魔ならば、だが。
悪魔である彼らには、ある意味では関係のない話ではある。
その一角に並び立つ構造物は、いずれも機械である。人間が魔機と呼ぶ、魔法を技術的に取り込み、再現した機械の数々。それらがこのアーリマンの〈殻〉の中に持ち運び込まれているという事実そのものが、アザゼルにはおかしくてたまらない。
「よくアーリマンに怒られないね」
誰とはなしに話しかけたのは、打鍵音の主がいることがわかっていたからだ。事実、すぐに反応があった。
「怒ってた」
小さな、少年染みた悪魔の声が聞こえてきたものだから、アザゼルは声の方向に足を向けた。打鍵音は反響しすぎて発生源を特定するのが難しかったのだ。
「あ、やっぱり?」
「でも、アスモデウスが執り成してくれたから」
「彼女は本当にきみに甘いな」
無数に立ち並ぶ複雑怪奇な機材の群れの中へと進んでいきながら、アザゼルは笑った。いつも通り軽薄に。
すぐに打鍵音の主の後ろ姿が見えた。機械の体を持つ悪魔、〈強欲〉のマモン。その小さな体を丸くして、なにか奇妙な機械と向き合っている。
周囲には、無数の映像板が浮かび上がっていて、様々な情報がその立体映像の中を飛び交っている。数多の文字列は、アザゼルにはなにを意味するものなのか、想像も付かない。
「でも、アザゼルのほうがもっと怒られると思う」
マモンがアザゼルを振り返り、いった。少年めいた悪魔の物憂げな表情からは、なにを考えているのかさっぱり掴み取れない。
「そうかな?」
「そうだよ」
そういって、マモンは再び機械に向き直り、打鍵音を響かせ始める。すると、映像板の中を物凄い勢いで文字列が流れていく。文字の津波、文字の洪水とでもいうべき勢いだ。
アザゼルは、それを見ているだけで頭がくらくらするのではないかと思えてならなかった。よくもまあ、平然と文字を打つことが出来るものだと、感心する。
「まあ、仕方がない。ということで、お土産」
「お土産?」
マモンは、きょとんと、アザゼルを振り返る。幼さを多分に残した悪魔の顔は、初雪のように無垢だ。そして、アザゼルが掲げた右手の中にあるものを見て、目を輝かせるのだ。
「それって……!」
「欲しがってただろう? とっても強い魔法士の体の一部だよ」
アザゼルは、透明な結晶で包み込んだ麒麟寺蒼秀の右前腕をマモンに向かって放り投げた。マモンは軽々と受け止めると、大事そうに抱え込む。
「しかし、そんなものを手に入れて、なにをしようっていうのかな?」
「面白いこと……かな」
マモンは、アザゼルの戦利品を抱えたまま立ち上がると、彼を振り返り微笑した。




