第三百二十三話 本荘ルナの件について(四)
本荘ルナは、幻魔ではない。
それはもはや揺らぎようのない確定事項だろう、と、統魔は、彼女の満ち足りた顔を見つめながら思うのだ。
ルナは、テーブルの上に上半身を投げ出すようにしていて、お腹いっぱいで動けないなどと呻いているのだが、その顔は幸福感に満ちている。
つい先程まで極限の飢餓状態だったのだから、当然だろう。
「大食堂の大食い記録を塗り替えたんじゃない?」
「そりゃあそうだろう」
「誰も抜けないよね、この記録」
「塗り替えようともしないと思います」
隊員たちがそれぞれに感想を述べるのだが、誰もがルナという存在を受け入れつつあるような言動だった。
それもこれも、彼女が紛れもなく幻魔ではないと言い切れるからだ。
幻魔は、心臓たる魔晶核が生み出す魔力でもって活動する。魔力が少なくなると空腹状態になり、魔力が底を尽きかけると飢餓状態となる。
減少した魔力を補うために幻魔がすることといえば、人間を襲い、殺すことだ。人間の、魔法士の死が生み出す膨大な魔力を吸収することによって、幻魔は腹を満たす。
この異界と化した地上では、大気中の魔素を吸収するだけで事足りるため、余程のことでもなければ幻魔が飢餓状態に陥ることはないはずだ。
しかし、ルナは、空腹感を覚えていただけでなく、飢餓状態に陥った。
冷静になって考えてみれば、その時点で異様だったのだ。
彼女が幻魔ならば、空気中の魔素を吸収することで腹を満たすことが出来るはずだからだ。
だが、彼女はそうしなかった。飢餓状態に陥り、飲食物を欲した。
まるで人間のように。
それが彼女が人間に擬態するための努力である可能性も捨てきれなかったが、だとすれば、もう少しまともなやり方があったはずだ。
ルナは、五日間もの間、一睡も寝ていないことが確認されている。とても人間業ではない。
人間に擬態するのであれば、眠るふりくらいはしたはずだ。
つまり、彼女は、なんらかの目的があって人間らしく振る舞っていたわけではないということだ。
そして、暴飲暴食としか言いようのない飲み食いの結果、満腹感と幸福感そのものを体現するような表情を浮かべる様を見れば、彼女が幻魔などではないことは疑いようもなかった。
幻魔ではない。
だが、人間でもない。
人間ならばとても食べきれない量の食事だったし、飲み物も大量に取り込んでいた。彼女の肉体が普通の人間と同じものであれば、破裂しているのではないかと思うほどだ。
「本当、よく食うよ」
「だって、ずっと食べてなかったんだもん」
統魔が呆れた顔でいうものだから、ルナは頬を膨らませた。統魔も結構な量を食べていたはずだ。それなのに自分ばかりいわれるのはどうなのか、と、ルナは言いたかった。
統魔はそんなルナの顔を見つめながら、問うた。
「いつから食べてないんだよ」
「お父さんとお母さんが突然動かなくなって、それから、ずっと……」
ルナの頭の中には、両親の死に顔が浮かんだ。
苦痛に歪んだ父と母の顔は、生涯忘れることはないだろう。二人の苦しみをわかってあげることもできなければ、助けてあげることもできなかったという事実がルナの幸福感を急激に奪い去っていく。
ルナは、テーブルに突っ伏していた上体を戻すと、統魔を横目に見た。
統魔もまた、ルナを見ている。
そんな二人の間に割って入るように口を開くのは、蒼秀である。
「……きみの御両親は、昂霊丹を服用していたようだが、それは知っているかね?」
「うん。知ってるよ。この半年くらいかな。お父さんもお母さんも、突然、魔法が使えなくなっちゃったの。それで、ヒカルが宣伝してた昂霊丹を使うようになったんだ。そうしたら魔法が使えるようになって喜んでたんだよ」
「ふむ……」
蒼秀は、渋い顔をした。
昂霊丹が急激に売り上げを伸ばしたのは、人気ロックバンド・アルカナプリズムのボーカルであるヒカルが愛用しているという話が広まってからのことだ。
後天的魔法不能障害を患う魔法士というのは、決して少なくはない。
魔法士ならば誰であれ発症する可能性があり、魔法を頻繁に使えば使うほど発症率は高くなる。戦団の導士の中にも何名、いや、何十名も、発症者がいる。
ただし、多くの場合、一週間から一ヶ月程度で回復するものだ。
後天的魔法不能障害とは、一時的に魔力の練成が出来なくなったり、律像を形成することが出来なくなったりするような症状の総称だが、それらはいずれも魔法の使用過多による反動だと考えられている。
そんな後天的魔法不能障害だが、これまで治療薬が存在しなかったこともあり、昂霊丹が注目を浴びるのも当然だった。
二年もの間魔法不能障害に苦しめられてきたヒカルが、その有効性を証明したのだから尚更だろう。
だが。
「虚空事変の後、昂霊丹の販売は差し止められましたよね?」
「ああ」
「じゃあ、どうして?」
「彼女の御両親は、昂霊丹を買い込んでいたようだ」
蒼秀の隣に立つ八咫鏡子が携帯端末を操作し、幻板を出力すると、統魔が慌てて取り出した携帯端末に向かって送り込むような仕草をした。幻板が空中を滑るように移動して、統魔の端末に入り込む。
統魔は、携帯端末に送り込まれた画像を幻板として出力し、しばし呆然とした。
ルナの確保後に行われた本荘家の捜索時に撮影された写真には、山積みになった昂霊丹の箱が映っていたのだ。
「こんなに?」
「昂霊丹の常用者の多くが、このような有り様だそうだ」
「ええ?」
「まじっすか」
「多くが?」
統魔たち皆代小隊の隊員たちは、蒼秀からの予期せぬ言葉に互いに顔を見合わせるほどの驚きを覚えた。
「昂霊丹を服用すれば、魔法不能障害から一時的に脱却できる。その際の感覚は、我々にはわかり得ないものだが、話によれば、言い様もない幸福感に包まれるそうだ」
「だからって、ここまで買い込むものなのか」
「お父さんもお母さんも、昂霊丹様々だって毎日いってたから、なんとも思わなかったな。むしろ、わたしとしては有り難かったよ。お父さんもお母さんも、幸せそうだったし」
ルナが統魔の携帯端末を覗き込みながら、いった。その映像により、自分の家が戦団に捜索されているという事実を思い知ったが、致し方のないことだといまならばわかる。
自分は、人間ではない。
人外の怪物であり、処分されたとしてもなんら不思議ではないのだ。家宅捜索くらい、なんということはない。
「でも、あの事件があってから昂霊丹の販売が禁止されたでしょ。お父さんもお母さんもすごく悲しんでた。なんとかならないものか、って、毎日のようにいってたっけ」
「これだけ買い込んでいても、不安だったってことか」
「だって、全然治らないんだもん」
「……そうか」
統魔は、ルナが椅子の上で膝を抱える様を見ながら、なんともいえない気分になった。
魔法不能障害を生まれながらに抱えている家族がいて、彼の苦悩を知っていると、後天的な魔法不能障害に人生を狂わされる魔法士のことも他人事ではないと感じるのだ。
それまで順風満帆だったヒカルだって、そうだ。
彼は、後天的魔法不能障害を患ったばかりに人生設計そのものが大いに狂い、人間に擬態し、東雲貞子と名乗った悪魔にその全てを奪われ尽くしてしまった。
ルナの両親もまた、魔法不能障害に人生を狂わされた一般市民だ。
昂霊丹に溺れ、多量に服用した結果、魔力の暴走を引き起こした。
虚空事変の際、ヒカルの身に起きた事象と同じだ。
ただ、幻魔は生まれなかった。
あのとき、魔素異常が本荘家を取り巻いていたが、ノルン・システムに観測されるほどの膨大な魔素は、ルナの両親によって生み出されたものだということが判明している。
固有波形が一致したのだ。
ルナの両親は、死後もルナを護ろうとしたのではないか――ロマンチストは、そう考えるのだろうが。
本当のところは、なにもわからない。
わかっていることは、あのあと、あの魔素異常を利用して幻魔が生まれたらしい、ということだ。
サタンによって。




