第三百十九話 雷神(四)
蒼秀の灰色の瞳が、激しく煌めいているように見えたのは、彼自身が眩いばかりの雷光を帯びているからだ。
星象現界・八雷神を発動したその姿は、さながら雷神の如くであり、猛々しく、神々しい。
そしてその眼差しは鋭く、射貫くようにルナを見据えている。
統魔は、蒼秀のそのような表情を見るのは久しぶりだと思った。
質実剛健が人の形をしているといわれるような人物であり、険しい顔つきをすることすらほとんどない。特に誰かを睨むということすら、年に数回あるかないかといわれるくらいだった。
しかし、相手がルナならば、そうならざるを得ない。
そんなことは、統魔にはわかっている。そして、統魔に口出しできるわけもなかった。
統魔は、絆されてしまった。
ルナを認めてしまった。
彼女を受け入れてしまった。
あれほど徹底的に否定し、正体を暴くと息巻いていたというのに。幻魔であろうとなかろうと、人外の怪物であり、人類に仇なす存在として殲滅しようとさえしていたというのにだ。
彼女の瞳の奥にある悲しみを見てしまった。
彼女の心に触れてしまった。
だから、統魔には、成り行きを見守ることしか出来ない。
彼の言葉は、彼女に支配された擁護者の言葉と同じだ。そう判断されてもおかしくはないくらい、彼女の影響を受けてしまっている。
自覚できるという時点で、彼女の能力による支配ではないのだが、しかし、それでも、統魔の言葉に説得力などあろうはずもないことは、明らかだ。
ルナが、蒼秀の目を見つめ返した。その手の震えから、彼女が恐怖と戦っているのだということが伝わってきて、統魔は、その手を握り返す。
「わたしは……わたしです」
「そうか」
蒼秀は、小さくつぶやくと、左手を頭上に翳した。地上から立ち上り、手の先に集まった雷光が渦を巻いていく。
蒼秀の雷魔法・若雷である。
そしてそれが麒麟寺蒼秀の星象現界・八雷神の能力だ。
八雷神は、蒼秀が編み出した八つの雷魔法を常に全身に纏っているようなものであり、それら八つの魔法をいつでも発動できるというとてつもない魔法なのだ。
しかも、それらはただの魔法ではない。
星神力によって発動する魔法は、魔力でもって発動する魔法とは比較にならない威力を発揮するという。
蒼秀の基礎的な攻型魔法である若雷も、今の状態ならば、他の導士の最強魔法に匹敵するか、それを軽く陵駕する破壊力をもたらすに違いなかった。
だから、統魔は叫ばずにはいられないのだ。
「師匠!」
蒼秀は、統魔の声など聞いていなかった。虚空を蹴るようにして移動し、瞬時にルナの眼前へと迫る。そして、巨大な雷光の渦を叩きつけようとした。
統魔は、その光景を遠ざかりながら見ていた。
ルナに突き飛ばされたからだ。
声も出なかった。
ルナが統魔を見て、微笑んでいたのだ。
嬉しかった、と、いわんばかりの微笑だった。
閃光が、全てを白く塗り潰す。
統魔は、頭の中が真っ白になるのを自覚した。真っ白な空白が脳裏を埋め尽くし、なにも考えられなくなった。勢いよく地面に叩きつけられても、痛み一つ感じなかったのは、そのためだろう。
「大丈夫ですか、隊長」
「おれは……だいじょうぶだ」
瞬時に駆け寄ってきたのだろう字たちに起こされながら、統魔は、視界を塗り潰した光が消えていくのを感じていた。
八雷神と若雷が引き起こした爆発的な雷光によって、白く激しく塗り潰された世界。
そこにあったのは静寂であり、沈黙であり、無音だった。
「たーいちょ、なにをへこんでるの?」
「そうだよ、統魔くん」
「隊長はやるべきことをやったんだ」
「……おれは――」
なにをやったというのか、と、統魔は、香織や剣、枝連の言葉に励まされながら、思った。
なにもできていない。
なにも、成し遂げられていない。
幻魔である本荘ルナの正体を暴くなどと息巻いて、結局、彼女の在り様に触れ、絆されただけではないか。
本荘ルナという存在の正体を暴くこともできなければ、彼女をどうすることもできなかった。
なにひとつ。
「なぜ、避けようともしなかった?」
不意に聞こえてきた声は、蒼秀のものであり、統魔は、いつの間にか地面だけを見ていた自分に気づかされた。顔を上げる。
雷光が消え去り、夜の闇が圧倒的な存在感を取り戻した世界。何一つ音を発するもののないような静寂の世界。
そこには、向かい合う蒼秀とルナの姿があった。蒼秀は星象現界を解いており、ルナは無傷でそこに立っている。
統魔は、呆然とするほかなかった。なにが起きたのか、まるでわからない。蒼秀は、師は、ルナを滅ぼしたのではないのか。
そんな統魔の混乱などつゆ知らず、ルナが、蒼秀の疑問に応えるべく口を開いた。
「わたしだって死にたくなんてなかったよ。でも、統魔に迷惑をかけるのは、もっと嫌だと思ったの。そうしたら、やっぱり、殺されるのが一番いいのかなって」
そんなこと、あるわけがないだろう、と、統魔は叫びたかった。
彼女のそのような利他的、犠牲的な考えは、統魔は好きではなかった。そのせいで、自分までおかしくなってしまったのではないか、と、思わずにはいられないからだ。
蒼秀は、ルナの目を見つめている。赤黒い目。幻魔の目と似ているが、しかし、禍々しさはなく、邪悪さもない。人類が幻魔に持つ本能的嫌悪感、忌避感も感じないというのもまた、彼女が幻魔ではないことを証明しているような気がした。
だからこそ、疑問が募る。
「……きみは、本当に何者なんだ? どうやらおれたちはもうきみに支配されていない。あれだけ気軽に支配しておいて、だ。いま、きみは、なにを考えている?」
「わたしは……統魔と一緒にいたい……かな」
ルナは、そういってはにかんで、俯いた。その少女然とした反応や言動の全てが、彼女という存在を魅力的に見せている。
とはいえ、疑問が解消されたわけではない。
「ふむ……」
蒼秀は考え込み、弟子を見遣った。
統魔は、若雷が直撃しようという寸前、ルナによって突き飛ばされ、魔法の効果範囲外へと逃れていた。その反応もまた、蒼秀が手を止める理由の一つとなったのだが、もっとも大きな理由は、やはり、彼女自身が死を受け入れるような態度を取ったことだ。
それこそ、幻魔にはあり得ない行動だった。
生に執着する幻魔が、自ら死を望む行動を取ることなど、あるはずもない。
鬼級幻魔に支配された下級幻魔が、その命令によって死地に赴くことはあっても、それによって死ぬのは、結果に過ぎない。そして、命令による死と、自らの意志による死は、全く異なるものだろう。
だからこそ、蒼秀には、ルナの存在が異様に映るのだ。
「統魔、こちらに来なさい」
「はい」
統魔は、字たちの助けを借りて立ち上がると、隊員たちの心配そうな表情を振り払うようにして、師の元へと向かった。周囲の視線が刺さるように感じるのは、気のせいではあるまい。
誰もが、統魔を注目している。
統魔と、ルナを。
ルナは、といえば、統魔が無事であることに心底安堵しているような、そんな表情をしていた。
(なんでそんなに嬉しそうなんだよ)
統魔は、彼女の反応の意味不明さに混乱しそうになりながら、息を吐く。頭の中は混乱したままで、様々な考えが浮かんでは消え、散らばっては反響している。なにがなんだかわからないまま、事態だけで進行しているような、そんな感覚。足元が不安定で、まともに立っていられないような感じがした。
けれども、統魔の足はしっかりと地面を踏みしめていたし、蒼秀の元まで転倒することなくたどり着けたのだから、不思議なものだ。
統魔は、蒼秀の顔を見上げた。
「なんでしょう、師匠」
「きみは、いったな。彼女は、人間に危害を加えるようには思えない、と」
「はい」
「おれもその点には同意する。現在、彼女の精神支配の影響は、この場にいる誰にも見受けられない。おれの思考も、正常に働いているようだ。そうだろう?」
「……そうですね」
統魔は、蒼秀の断定に頷きながら、周囲を見回した。確かに、導士たちの誰一人として、ルナに魅入られているものはいなかった。
ルナに精神支配を受けているものの特徴として、その眼差しがある。被精神支配者の特徴とも異なるそれは、極めて明瞭だった。
ルナの影響下にある人間は、とにかく、彼女を目で追った。彼女の全てを肯定するような言動もそうだが、眼差し一つで判断できるくらい、被支配者たちの視線は熱っぽく彼女に注がれていたのだ。
それが、ない。
蒼秀もそうだ。熱狂的といいほどにルナを支持し、擁護し、肯定していた蒼秀が、いまは彼女に対し、極めて冷静かつ適切な対応が出来ている。
ルナを殺そうとしたのも、その一つだろう。
ルナに精神支配されていたのであれば、彼女を傷つけることなどしないのではないか。仮にそれが彼女の望み通りの行動なのであれば、殺さなかったのは不自然だ。
つまり、蒼秀の先程の行動は、彼自身の意志によるものと考えていい。
「ということは、だ。我々にとって最大の懸念点が消えたというわけになるのだが……さて」
どうしたものか、と、蒼秀は、少女を見つめた。
ルナは、統魔が近づいてきたことだけで安心したようであり、ほっとしたような顔をしていた。
そんな彼女の反応を見れば、正体を暴こうとしていたのすら馬鹿馬鹿しくなってしまうのだが、それも必要なことだったのだろうと考えるしかない。
少なくとも、本荘ルナという正体不明の存在が、戦団にとって、人類にとっての敵ではないということが明らかになったのだ。
蒼秀は、それだけでも良しとするべきではないか、と、結論づけた。