第三百十七話 雷神(二)
統魔は、ゆっくりと地上に降下したものの、その場で転倒しそうになった。力を使いすぎたからだろう。
「だ、大丈夫? 統魔」
「ああ」
心底不安そうなルナに対し、強がって見せたのは、心配させるようなことをいうわけいには行かないからだ。
戦いは、まだ、終わっていない。
天使型幻魔オファニムこそ死んだものの、そのオファニムを斃したのであろう存在が確認されたのだ。
鬼級幻魔アザゼルである。
アザゼルの固有波形を観測そしたという報告を統魔が受け取ったのは、つい先程のことであり、この場にいる統魔以外の全ての導士がアザゼル撃退に動員された。
統魔は、オファニムの攻撃から長時間に渡って全速力で逃げ回り続けた結果、精も根も尽き果て、憔悴しきっていた。故に、蒼秀によって戦力にならないと判断されたらしい。
そして、蒼秀が先頭に立ち、アザゼル討伐に赴いたということは、闇夜を切り裂く黄金色の雷光を見れば一目瞭然だった。
蒼秀の星象現界・八雷神である。
オファニム相手に使うことを躊躇っていたのは、いかに魔法が効かなかろうとも相手が上位妖級幻魔程度だからに過ぎない。
星象現界は、戦団魔法技術における窮極にして奥義とでもいうべき代物であり、普通、鬼級幻魔を相手にするときにこそ使われるものだ。
無論、妖級幻魔に出し惜しんだ結果、命を落とすようなことがあってはならないし、そんなことがあれば本末転倒この上ないが。
そして、蒼秀が星象現界を瞬時に発動できたのは、オファニムとの戦闘における停滞した状況を打破するべく、発動しようとしていたからだろう、ということは統魔にはすぐに理解できた。
星象現界は、ただの魔法ではない。
魔素を練り上げて生み出した魔力をさらに高密度に凝縮し、錬成、昇華する必要があるのだ。
魔力がさらなる段階へと昇華した状態を星神力と呼ぶ。
魔力が星神力に至ってこそ、星象現界が発動できるのであり、統魔は、光都の遥か南側で繰り広げられる蒼秀とアザゼルの激闘を見遣り、その凄まじさに息を呑んだ。
疲労すら忘れるほどの戦いぶりだった。
雷光が嵐のように咲き乱れ、爆撃に次ぐ爆撃が大気を震撼させている。大気中の魔素が電熱を帯び、狂乱しているかのようだった。
そして、ついには最大威力の雷光が巨大な柱となり、天を衝くほどに聳え立った。
「なに……あれ……?」
ルナは、統魔の隣に立ち、彼の体を支えるようにしながら、その莫大にして濃密過ぎるほどの魔力の奔流を見ていた。超密度の魔力は、ルナが目にしたこともないほどのものであり、大気中の魔素という魔素を飲み込み、打ち砕いていくかのように膨れ上がる破壊力には、ただただ圧倒される。
「八雷神」
「え?」
統魔のつぶやきに、ルナは、すぐさま彼を見た。憔悴しきった統魔の目は、しかし、いつになく爛々《らんらん》と輝いていて、遥か遠方の戦いを真っ直ぐに見つめている。一瞬たりとも見逃すまいとしているかのようだ。
その横顔は凜々《りり》しく、そして、美しい。
「師匠の星象現界だよ」
「師匠……そっか。統魔の師匠だったね、麒麟寺様」
「……市民みたいなことをいう」
「市民だもん。市民だったもん」
「……そうだな」
統魔は、ルナを横目に見て、すぐに視線を戻した。彼女が何者なのかは、まだわからない。正体は不明のままで、けれども、いまはもうどうでもいいような気がした。
彼女が自分たちに害意を持っていないことは明らかだったし、幻魔に敵視されているらしいということも、判明した。
そして、統魔たちのために自分の命を犠牲にする精神性の持ち主であることも、だ。
とはいえ、そのような理由で統魔が彼女を救ったわけではない。
(おれは……)
統魔は、巨大な雷光の柱が消えて失せる様を見ていた。
夜空を貫いたそれは、分厚い雲の層にまで到達するほどだった。大気中の魔素が電撃に焼き尽くされ、猛烈な熱気が光都跡地を席巻している。
星象現界は、星神力の発露である。
星神力とは、超高密度の魔力であり、魔素の窮極だ。
それほどの魔素が吹き荒れれば、一帯が魔素異常に苛まれることだって十分に考えられた。
実際、蒼秀が発した強大な星神力の波動は、光都全域にまで多大な影響を与えているように思えた。
しかし、統魔が考えなければならないのは、これからの光都跡地のことなどではない。
(どうしたいんだ……?)
ルナを視る。
彼女は、呆然とした様子で戦いの終わりを見届けると、統魔に向き直った。
目と目が合った。
ルナは、きょとんとした。
「どうしたの?」
「……おまえこそ、なんなんだよ」
「え?」
「おまえは、人間じゃない」
統魔は、ルナのその赤黒い目を見つめ、告げた。血のように赤く、闇のように黒い虹彩。それこそ、幻魔の目そのものだ。しかし、彼女のその瞳には、禍々しさがなかった。
弱々しく、儚く、いまにも壊れそうなほど繊細に見えた。
ルナは、微笑する。
「……うん。そうだね」
「認めるのかよ」
「認めるよ。わたし、人間じゃない」
ルナは、自分の胸に手を当て、いった。彼女は、ここに至るまでの様々な体験によって、自分が人間ではないということを認めるしかなかった。受け入れるしかない。
人間であると主張したい。
けれども、状況はそれを許さない。
人間ならば、この空腹にだって耐えられないはずだし、水分だって必要不可欠だろう。一睡もせず起き続けているのだって、そうだ。
自分を取り巻くなにもかもが、自分が人間であることを否定していて、怪物であることを証明している。
だから、認める。
けれど、と、ルナは思う。
「でも、幻魔でもないよ」
「……じゃあ、なんなんだよ」
「わかんないよ。わたしにも、わかんないよ」
ルナは、途方に暮れたような顔をした。いまにも泣き出しそうな表情は、彼女が心の底から自分の存在について思い悩み、苦しんでいる様子が伝わってくる。
そのとき、統魔の通信機に反応があった。作戦司令室からだ。
『アザゼルの固有波形、消失。現地にいる全導士は、周囲を警戒しつつ、引き続き任務に当たってください』
「了解」
「なんて?」
「アザゼルが退散したらしい」
そう、統魔は、認識した。
蒼秀は、光都事変において大活躍した英雄、五星杖の一人であり、戦団最高戦力の一人だ。
魔法士としての技量、実力は、凄まじいとしかいえないものであったし、統魔が彼に師事したのも、その能力の高さ故だ。
彼からならば学べることが無限にあるのではないかと思えたし、実際、その通りだった。
蒼秀ほど統魔の理想を体現した魔法士は、いない。
だが、相手は、鬼級幻魔だ。
それもただの鬼級幻魔ではない。〈七悪〉は、どうやら並の鬼級幻魔とは比べものにならない能力を持っているようなのだ。
たとえば、人間に擬態し、人間社会に順応するようなことは、並の鬼級幻魔に出来ることではあるまい。
ただでさえ、鬼級幻魔を相手にすれば、星将が一人で立ち向かって無事で済むことすら稀なのだ。
打倒するなどありえないことのように考えられていたし、だからこそ、星将級の導士を数多く揃えたいというのが戦団上層部の長年の欲求だった。
人類復興の悲願を果たすには、幻魔を滅ぼす必要があり、それには鬼級幻魔を討滅するだけの戦力が必要不可欠だ。
蒼秀は、アザゼルを撃退することはできた。が、討ち滅ぼすには至っていないだろう、という確信が、統魔にはあった。
そしてそれは、蒼秀からの通信によって確定した。
蒼秀は、アザゼルを取り逃がした、と、この場にいる全軍団員に報せた。致命傷すら与えられなかった、と。
その報告を聞いて誰もが慄然とした。
蒼秀の星象現界を用いても、アザゼルに重傷を負わせることすらできないというのか。
蒼秀の域に到達していないどころか、煌光級未満の導士たちにとっては絶望的としか言いようのない事実だった。
が、そんなことはどうでもいい、とも、蒼秀は言った。
『統魔、そちらはどうだ?』
「おれもルナもなんともありません、師匠」
『そうか。では、任務に戻るとしよう』
蒼秀や情報官が述べた任務とは無論、本荘ルナの正体を暴くためのものだ。
彼女を極限状態まで追い込むことによって、その本性が明らかになる、というのは、統魔の考えであり、戦団最高会議によって承認されたものでもある。
が、統魔は、ルナを横目に見て、息を吐いた。彼女が、いまにも消え入りそうな表情を浮かべていたからだ。
「……その必要は、もうないと思います」
『どういう意味だ?』
「おれは……彼女が人間に危害を加えるような存在ではないと思ったからです」
『……確かに。おれにもそう思えるが。さて……』
統魔は、顔を上げ、上空からこちらを見下ろしている蒼秀に気づいた。黄金色の雷光で編んだ衣を全身に纏ったその姿は、神々しくすらあった。
まるで雷神のようだ。
ただし、その右腕は失われている。
ただそれだけで、アザゼルとの戦いが死闘だったということがわかるのは、蒼秀がそれほどまでの魔法士だからだ。
蒼秀は、そのまま降りてきて、統魔とルナを見た。それから自分の手を見て、周囲を見回し、なにかに納得したような声を上げた。
「ふむ……なるほど」
「どうしたんです?」
「確かに、これならば問題はなさそうだ」
「はい?」
統魔には、蒼秀がなにを理解し、納得したのか、全く想像も付かなかった。




