第三百十六話 雷神
「やっぱり、最後は愛だろ、愛」
彼は、両手で作ったハートの形、その大きな隙間からオファニムと名乗っていた天使の巨躯を眺めていた。
その手と指で作られた形通りに穿たれた天使の巨体が、魔晶核を破壊されたことによって力を失い、崩れ落ちていく様は、どこか儚く、美しくさえあった。
暗紅色の肌に映えるような白髪、目元を覆う黒環が特徴的な悪魔は、廃墟と化した野心と欲望の跡地、その今にも崩れそうな高層建築物の屋上に佇み、戦団の導士たちと天使の戦いぶりを堪能していたのだ。
「座天使……ねえ。ドミニオンに続いて、新たな天使が誕生していたとは、いやはや」
予想できなかったわけではないし、あり得る状況ではあった。
だが、悪魔は、増えなかった。
それもまた、よくあることだ。
あまりにもありふれた出来事だから、どうでもいいといえば、どうでもいいことだった。
しかし、と、アザゼルは、唖然としながらもゆっくりと地上への降下を始めた一人の導士を見遣るのだ。光の翼を生やし、空を飛び回っていた少年。
皆代統魔。
「妬けるよ、全く」
その腕の中には、人間に酷似した人ならざるものが抱き留められている。
朱の混じった黒髪を風に靡かせ、赤黒い瞳で統魔の顔をじっと熱っぽく見つめている何者か。その表情は惚けているとしか言い様がない。整った顔立ちは可憐といっていいだろうし、人間そのものの肢体は、黒く露出の激しい衣に覆われていて、注目されること間違いない。
頭上には黒環にも似た黒い輪が浮かんでいるが、明らかに構造の異なるものだ。そして、光背の如き黒い花弁の集合体がその背後に寄り添っている。
見る限り、人間ではない。
「異物は、排除するべし。が……あの御方のお望みとあらば仕方なし――」
アザゼルは、故にこそ、オファニムを撃滅したのだ。
通常の魔法攻撃を一切寄せ付けないオファニムを放置するということは、この場にいる導士たちが全滅するということにほかならない。無論、あの少女をオファニムに差し出すというのであれば、無事に生還することもできただろうが、正義の戦団に所属するものたちが、そのような真似をするとは思えなかった。
幻魔への憤怒を絶やさない皆代統魔でさえ、あの少女が投げ出した命を拾い上げたほどだ。
彼らがなぜ、こんな廃墟にいるのかは、想像が付く。
少女の正体をどうにかして暴こうとしたのだろうし、その正体が明らかになった暁には、打ち倒そうと考えていたのではないか。
だが、少女は斃すべき敵ではないのではないか、と、彼らは考えてしまった。
なぜか。
天使が現れたからだ。
オファニムの少女への攻撃は、幻魔に対し過敏なまでの拒否反応を持つ人間たちの心情を強く刺激し、対応させてしまった。
「本当に……余計なことをしてくれたものだ」
アザゼルは、天を仰ぎ見て、やれやれと頭を振った。
夜空を幾重にも覆い隠す雲の群れ、その遥か上空に天使たちの〈殻〉ロストエデンは存在するはずだ。高空を自在に移動する〈殻〉。故にこそ、天使たちは神出鬼没であり続けられるのであり、戦団の監視の目を逃れられている。
それは、いい。
問題は、天使たちがあの少女に手を出したがためにアザゼルにとって望ましくもない事態が訪れてしまったと言うことだ。
少女は、もはや、人間たちの庇護対象になってしまった。
少女が見せた献身的とも犠牲的ともいえる行動は、人間たちの心を強く打っただろう。
たとえ少女が人外の怪物であるのだとしても、その精神性が人間と等しいのであれば、人間のために命を犠牲にすることができるような心の持ち主ならば、受け入れてもいいのではないか。
彼らがそのように考え、結論づける可能性があった。
それが、アザゼルには、たまらなく鬱陶しい。
「……仕方がない。誤射ならば、あの御方も許してくださるだろう」
アザゼルは、再び両腕を掲げると、両手の親指と人差し指を伸ばして重ね、長方形を作った。その長方形でもって皆代統魔が抱える少女を捉える。少女が、うっとりとした表情で皆代統魔だけを見つめている様が、はっきりと見て取れた。
アザゼルの指で作った長方形が、少女の頭部だけを捕捉する。
「これはおれの嫉妬の暴走ということで」
そして、アザゼルの魔法が発動した――。
「おや?」
アザゼルは、少女の頭部を吹き飛ばすはずの魔法が、虚空に閃いた一条の雷光によって弾き飛ばされ、廃都の地面に衝突する様を目撃した。口の端を歪める。
そして、黄金色の雷光は、眩いばかりの光の尾を引きながら超高速で空中を移動し、アザゼルへと殺到してくる。
「見え透いているぞ!」
黄金色の雷光を全身に帯び、破壊的な速度でアザゼルに飛来したのは、麒麟寺蒼秀だった。
アザゼルは、咄嗟に飛び退きながら、魔法を想像する。
蒼秀は、アザゼルの周囲に展開する律像を視認するなり、真横に移動しつつ、右手を振り下ろした。右手の中に集まっていた雷光が、巨大な塊となってアザゼルへと襲いかかる。
激突。
閃光と轟音が響き渡り、強烈な魔力の爆発が起きた。
爆煙が蒼秀の視界を埋め尽くしたが、彼は瞬時にその場から移動している。すると、アザゼルの魔法が虚空を貫き、爆煙に巨大な風穴を開けていった。
「さすがに気づくか」
「固有波形は、さすがの貴様らも誤魔化せないようだな」
蒼秀は、爆煙の真っ只中に渦巻く膨大な魔力の塊に対し、さらに多数の雷の塊を放った。一瞬にしてなにかに激突し、連続的な爆発が起きる。爆煙が膨れ上がり、視界を奪っていく。
蒼秀が、アザゼルがこの廃墟にいることを知ったのは、作戦司令部からの報告があったからにほかならない。
アザゼルの固有波形が確認されたという報告だった。
その直前、オファニムの巨体に穴が開いた。アザゼルの仕業に違いなく、故にこそ、蒼秀は瞬時に動いた。
オファニム相手には、それまで出し渋っていた星象現界を即座に発動した。相手は鬼級幻魔であり、それも〈七悪〉の一体だ。加減をしている場合ではない。
それにより、アザゼルが放った攻撃を打ち砕いたのだ。
その射線上にいたのは、皆代統魔と本荘ルナだ。
アザゼルは、二人をもろともに消し飛ばそうとしていたに違いない。
再び、爆煙の中に巨大な穴が開く。今度は、ハート型の穴だった。オファニムの巨躯を貫通した攻撃魔法は、爆煙を尽く吹き飛ばすほどの威力を持っていた。刹那の内に視界が良好になる。
「アスモデウスめ……馬鹿なことをしてくれたものだ」
「特異点に伝言を託したのは、何処の誰だ」
「それは……おれってことになるのかなあ。ふむ……困った困った」
などといいながらも、全く困ってもいない様子のアザゼルに対し、蒼秀は、苛立ちを隠さなかった。
雷の塊の直撃を受けたはずのアザゼルの損傷は、微々たるものに過ぎない。スーツがわずかに焦げている程度の、傷ともいえないものだった。
軽薄極まりない表情には、余裕すらも窺える。もっとも、両目ともに黒い環に隠されているため、はっきりとしたことはわからないのだが、口の端が酷薄に歪んでいることだけでも、アザゼルの心情が透けて見えるようだった。
「しかしだ。きみたち人間にとっても異物でしかないあれを排除するのに協力してやろうっていうんだ。邪魔をしないでもらえると嬉しいんだけど」
「馬鹿げたことを」
蒼秀は、アザゼルを睨み据え、虚空を蹴った。足先に電光が散る。
「排除すべき異物は、貴様だ」
一瞬にして最高速度に達した蒼秀は、アザゼルの懐に潜り込み、その口元がさらに歪むのを目の当たりにした。右拳を下腹部に埋め込み、魔力を炸裂させる。さらに右足による側頭部への打撃、左手による掌打、左足の乱打と、間髪を入れない連続攻撃を叩き込む。
打撃の瞬間に炸裂する黄金色の雷光が凄まじいまでの爆発となって拡散し、廃都そのものを激しく震撼させた。
手応えは、あった。
一撃一撃に強力な反動が伝わってきていたし、アザゼルの魔晶体が弾け飛ぶ瞬間を蒼秀は肉眼で確認している。だが、決定打にはならない。
「なかなかやるじゃあないか。それが星象現界って奴かな? きみたちのとっておきって奴だろ、それ」
蒼秀は、背後から耳元に囁くような声を聞いた瞬間には、その場を大きく飛び離れていた。
青黒い魔力の渦が虚空を穿ち、螺旋を描く。地面に巨大な穴が空いた。
その巨大な穴の上空にアザゼルは、平然とした様子で浮かんでいる。全身の至る所が電熱に焼け焦がされていて、体のあちこちに損傷が見受けられる。人間ならば満身創痍といっても過言ではないような姿だが、相手は鬼級幻魔だ。そう単純には行くまい。事実、蒼秀が付けた深手は、見る見るうちに塞がっていっていた。
幻魔にとっての致命傷とは、魔晶核の損傷以外にないのだ。
魔晶体の負傷など、掠り傷といっても過言ではあるまい。
そして、アザゼルはボロボロになったスーツに袖を通した右腕を頭上に掲げていて、その手には人間の右腕が掴まれていた。
蒼秀の腕だ。
蒼秀による一方的な連撃は、確かにアザゼルに通用した。しかし、アザゼルの攻撃もまた、蒼秀に通じていたのだ。
蒼秀は、アザゼルを睨み据え、告げる。
「八雷神」
「なるほど……雷魔法を操るきみらしい、いい名前だ。そして、その名前から察するに、きみの全身に纏うその雷光は、それぞれがきみの魔法なんだろう。それも、星神力で飛躍的に強化された、ね」
(……察しがいいな)
蒼秀は、全身に帯びた雷光によって右腕からこぼれ落ちていた血を止めるのと同時に、己の痛覚を麻痺させた。
想像を霧散させるほどの痛みは、魔法士の戦いにおいて致命傷になりかねない。
だからこそ、痛覚を制御するのだ。
「きみの連撃もいい手がかりだった。右手、左手、右足、左足――いずれの攻撃も異なる雷撃を帯びていた。そう、それはきみが編み出した数々の魔法だ。知っているとも、麒麟寺蒼秀」
アザゼルは、蒼秀を見つめ、口の端だけで笑って見せた。極めて軽く薄っぺらな笑み。
そして、アザゼルの翼が虚空を撃ち、その体躯が舞い上がる。左手が蒼秀に向けられていた。巨大で精緻な律像が一瞬にして形成され、蒼秀の視界を塗り潰すかのように膨れ上がる。
「我が左手に虚空の像」
アザゼルのその言葉が真言だと気づいたときには、蒼秀は、網膜を埋め尽くすほどの莫大な魔力に向かって飛び込んでいた。吼える。
星象現界・八雷神、その力を最大限に引き出しながら、彼は、雷光そのものとなった。
そして、激突する。
音が聞こえなかったのは、あまりにも大きすぎて、耳が聞くことを拒否したからだろう。
凄まじい爆発が、起きた。
蒼秀とアザゼルの位置を中心とし、半径二十メートルほどの広範囲に及ぶ大爆発である。それは黄金色の雷光の嵐そのものであり、電熱の奔流でもあった。範囲内に存在するなにもかもを徹底的に打ち砕き、粉々にしてしまう、破壊的な力の渦。
ここが光都跡地という廃墟だからこそできる大技であり、麒麟寺蒼秀の星象現界・八雷神の本領である。