第三百十一話 統魔とルナ(九)
「彼女は人間ではない」
麒麟寺蒼秀が確かめるようにつぶやいたのは、三日目の夜中のことだった。
頭上には星一つ見えない曇り空が広がっていて、この廃都全体が、暗黒の闇に覆われているといっても過言ではない状況だった。
光一つ見当たらないのはここに人が住んでいないからだったし、監視任務中の導士たちがその存在を明かさないために息を潜めているからだ。魔法なり魔具なりを使えば、明かりなどいくらでも用意できる。が、そんなことをすれば、多数の導士が隠れ潜んでいることが、監視対象にばれてしまう。
それは、頂けない。
故に、蒼秀率いる第九軍団の導士たちは、この暗黒の世界の中で息を潜めるしかなかった。
三日前、皆代小隊によってその存在を確認された少女は、蒼秀らによって人間であると断定され、戦団本部での徹底的な生体解析を行うこととなった。その結果は、知っての通りである
だが、それを聞いてもなお、蒼秀は、彼女が人間であると信じて疑わなかったし、ノルン・システムの解析結果が間違っているのだと証言していた。
そういう記憶が、残っている。
そしてそれらの記憶は、蒼秀の中で拭いがたい不快感や違和感となって渦を巻き、意識を席巻するかのように荒れ狂っている。
蒼秀は、本荘ルナの能力、あるいは魔法による精神支配の影響下から抜け出した瞬間、そういった違和感が怒濤の如く押し寄せてきたものだから、しばらくの間混乱しなければならなかった。
蒼秀ほどの歴戦の導士であっても、というよりは、蒼秀だからこそ、だろう。
蒼秀は、星将である。
戦団における最高位の導士であり、数多の死線を潜り抜け、その功績の数たるや枚挙に暇がない。寝ても覚めても戦団の任務のことしか考えておらず、央都守護のため、人類復興のため、そして幻魔殲滅のために全生命を賭しているといっても過言ではないのだ。
だというのに、人間ならざる正体不明の怪物に支配され、擁護者となってしまった。
それが本人の不覚の致すところなどではなく、抵抗することもできない事象にせよ、だ。蒼秀としては苦すぎる出来事といってよかった。
「それは、この三日間で確定したといっていいだろうな」
蒼秀は、多目的携帯端末が出力する幻板を見つめながら、告げた。
光都中にばら撒かれた超小型撮影機ヤタガラスは、この三日間、この廃墟各地を監視し続けていた。中でも統魔と本荘ルナの様子に関しては、あらゆる角度から徹底的に捕捉し続けている。
例えば本荘ルナが鬼級幻魔の擬態であったのだとしても、その強大な力によって起こされる微細な変化すら見逃さないはずだった。
そしてなにより大事なのは、この三日間、本荘ルナが一睡もしていないという事実だ。
統魔は、短時間ながらも睡眠を取っている。でなければ、本荘ルナがその本性を現したときに対応できないからだ。しかし、本荘ルナはといえば、一切眠った様子がなかった。
本荘ルナの生体解析によって得られた記憶でも、本荘夫妻の死亡から本荘ルナの確保に至るまでの二日間もまた、彼女は一睡もしていなかった。
つまり、彼女は、五日間もの間眠っていないということだ。
その時点で、彼女が人間である可能性は絶無といっていいのではないか。
魔法を使って強制的に覚醒状態で在り続けることは不可能ではない。が、本荘ルナがそうした魔法を使っている形跡はなかった。今もそうだ。彼女の周囲には律像は浮かんでおらず、魔法を使おうとしている気配すら見えない。
さらにいえば、彼女は、一切食事を取っておらず、水分も取り込んでいない。
なのに、本荘ルナは、時折、統魔と言葉を交わせるくらいの状態であり、時には大声で叫ぶことだってあった。空腹状態、あるいは飢餓状態ではあるようだが、衰弱しきってはいないのだ。
人間がそのような状態を魔法も使わず保ち続けられるわけもない。
いや、魔法を使ったとしても、本荘ルナのようにはいかないだろう。
「彼女は、人外の怪物だ。だが……」
「幻魔であるかは不明、ですね」
第九軍団副長・八咫鏡子が、理知的な眼差しを幻板に注ぎながら、いった。
ノルン・システムの解析結果では、本荘ルナを構成している要素のうち、幻魔成分が九十五パーセントで、人間成分が五パーセントだという。つまり、ほぼ幻魔なのだが、しかし、人間と同じ部分が五パーセントもあるというのがおかしかった。
幻魔が出現するようになって以来、そのような生体解析結果が確認された初めての存在が、本荘ルナなのだ。
稀有にして希少、そして、特異。
故に戦団は、彼女の扱いに関して、困り果てている。
幻魔として処分するか、それとも。
蒼秀が、本荘ルナの正体を暴こうと必死に藻掻いている弟子の様子を見つめながら、彼自身も出来ることはないかと頭を回転させているときだった。
突如、通信が入った。
『特別指定幻魔壱号の固有波形が観測されました。出現地点は、葦原市南海区河岸町――』
「ふむ……」
情報官からの通信は、サタンの出現を報せるものであり、付近の導士に現場に急行するように通達するものだった。当然だが、光都跡地で任務中の蒼秀たちには一切関係がない。
仮にサタンがある程度の時間、その場に滞在したのだとしても、間に合わない距離だ。
だが、気になる点はあった。
「……本荘ルナの住所、ですね」
鏡子が、その怜悧な視線を向けた先には、本荘ルナに関する情報が事細かに記載された幻板が浮かんでいる。彼女が携帯端末を操作して出力した情報である。本荘ルナの現住所もばっちりと記載されており、その住所と情報官から通達されたサタンの出現地点が合致していた。
つまり、サタンが本荘家に出現したということだ。
「だとすれば、どういうつもりだ?」
蒼秀には、サタンの目論見が想像もつかなかった。
現在、本荘家には、人っ子一人いない。本物の本荘ルナの両親は死亡し、その亡骸は死亡原因の究明のため戦団本部に運び込まれているし、本荘ルナを名乗る怪物はここにいる。他に住んでいるものはおらず、戦団による監視も、徹底的な調査を経て、解かれていた。
いま、本荘家はもぬけの殻なのだ。
「まさか、魔素異常が狙いなのでは?」
「……それもありうる……のか?」
鏡子の推察に蒼秀が疑問符を浮かべた直後だ。
暗黒の空に、光が差した。
それはさながら灼熱の炎の塊のようであり、凄まじい熱気とともに地上に降りてくると、光都の廃墟に甚大な被害をもたらした。
半壊した光都タワーを根こそぎ吹き飛ばすかのような熱と光の嵐が巻き起こったのだ。
「なんだ!?」
「敵襲!?」
蒼秀は、鏡子や第九軍団の導士たちとともに身を潜めていた建物の影から身を乗り出すと、光都タワーが燃え盛る光の奔流に飲まれていく光景を目の当たりにした。
莫大な光が、光都タワーを根元から消し飛ばすように渦を巻き、拡大していく。
そしてそれは、光都の夜の寒気を一瞬にして物凄まじい熱気へと塗り替えた。
「統魔!」
蒼秀は、携帯端末を導衣に仕舞うと、法機を呼び出した。同時に地面を蹴るように飛び出している。
光都タワーの真下には、統魔と本荘ルナだけがいた。灼熱の光の渦は、二人のうちのいずれかを攻撃するための魔法としか考えられなかった。
蒼秀は、舌打ちする。
統魔一人に任せるべきではなかったのではないか。いや、そうでもしなければ、本荘ルナがその本性を現すことなどないだろう、という統魔の言い分も理解出来たし、だからこそ彼に任せたのだが、その判断が間違っていたのではないのか。
この惨状を目の当たりにすれば、そう思わざるを得ない。
破壊的な光と熱の嵐が吹き荒ぶ真っ只中へと飛び込むのは、さすがの蒼秀でも簡単なことではない。
極めて強力で無慈悲な、破壊の奔流。
その光と熱が薄れていくまで時間はかからなかった。
魔法によって破壊された光都タワーが音を立てて倒壊していく中、蒼秀は確かに見た。
光の渦の中心に立ち、前方を睨み据えている統魔の姿を、だ。