第三百十話 統魔とルナ(八)
七月三十一日。
本荘ルナ正体暴露作戦が展開して、二日が経過している。
光都タワーを包囲している人員は、第九軍団の百名であり、数時間ごとに交代しながら推移を見守っていた。
軍団長と皆代小隊を除いて、だが。
軍団長の麒麟寺蒼秀と皆代小隊だけは、統魔と本荘ルナの様子を見守り続けていた。
仮眠こそ取ったものの、それも数時間くらいであり、それ以外の時間はほとんど二人の様子に意識を咲いていた。
当然ながら、麒麟寺蒼秀が常に監視についているのは、本荘ルナが敵に回った場合を考えてのことである。
本荘ルナは、莫大な魔素質量の塊であり、その外見からも鬼級幻魔と同程度の魔力を有している可能性が極めて高い。彼女の正体が人類に仇なすものだった場合、星将が対応しなければならないのは道理だろう。
だからこそ、蒼秀は、統魔と本荘ルナの様子を監視し続けなければならない。もし目を離した瞬間に彼女がその正体を明かし、統魔の命が奪われるようなことになれば、蒼秀は自分を呪い続けることになるだろう。
また、蒼秀には、本荘ルナを徹底して擁護していたという負い目もあった。
無意識のうちに彼女の擁護者になっていたという事実を理解したときほど、蒼秀が己を恥じたことはなかった。
誰もが仕方のないことだ、と、いうのだが、だからといって納得できることではない。
星将である。
戦団最高峰の魔法技量の持ち主であり、精神制御にも長けているという自信があった。しかし、本荘ルナの前では、自慢の精神制御もなんの役にも立たなかったし、全く意味を為さなかった。
気がつくと、彼女の味方になっていて、彼女のために全力を尽くすべく行動していた。
その不自然さを理解したのは、本荘ルナの影響範囲から離れてからだ。すると、途端に脳内に混乱が起きた。本荘ルナのために行っていた言動の数々と、本来在るべき自分自身が衝突したからだ。
正常な感覚を取り戻すまで、多少の時間を有したほどだ。
蒼秀ですらそうなるのだから、本荘ルナに支配されていた他の導士たちはもっと大きな後遺症に悩まされたに違いない。
そんな中、ただ一人、本荘ルナの影響を受けていないのが、彼の弟子である皆代統魔なのだが、それがどういう理由なのかは解明されていない。
統魔の魔法技量が蒼秀を大きく陵駕し、精神制御の技術も圧倒的に上回っているというのであれば、簡単な話なのだが、そういうわけではなさそうだった。
ただ、統魔が例外だったというだけなのか、ほかになにかしら理由があるのか。
どちらにせよ、それについて調べるのは、本荘ルナの正体が暴かれてからのことになるのだろうが。
蒼秀は、統魔と本荘ルナが言い合う様を見守り続けるほかなかった。
統魔は、本荘ルナを見つめている。
一見すると、黒髪の少女だ。統魔と同い年だが、華奢すぎるのと、幼さを感じさせる顔立ちからか、そうは見えなかった。身長は、統魔よりも高い。ということは、かなりの高身長だということになる。
しかし、その艶やかな黒髪に朱が混じり、翡翠色の瞳が赤黒く染まったことによって、彼女の体は自分が人間ではないと主張した。さらに身につけていた黒乃ワンピースが変化して、胸元と腰回りを曝け出すような衣装がその細くしなやかな体に巻き付いたものだから、さらに人外の存在であることを示したのだ。
頭上には黒い輪が浮かび、背後には、漆黒の花弁を集めたような光背があった。浮遊装飾と呼ばれる類の装飾品にも見えるそれは、しかし、超高密度の魔力が結晶化したものであり、幻魔の魔晶体とほとんど変わらないという話だ。
それらの要素を網羅すると、紛れもなく幻魔そのものであり、だれもが疑いようもなく断言することだろう。
ノルン・システムによる解析結果が出た時点で討ち滅ぼされていたとしても、なんらおかしくなかった。
戦団には、そうする権利がある。
央都守護。
そのためならば、あらゆる行動が正当化される。
それが、戦団という組織だ。
今回の作戦も、そうだ。
戦団なればこそ、このような賭けに等しい作戦に出ることも許される。
賭け。
統魔としては、本荘ルナの正体を白日の下に曝し、討ち滅ぼすための作戦だが、戦団上層部はそう捉えてはいまい。本荘ルナが幻魔ではなかった場合のことも考えているに違いなく、そのためにこそ、統魔の提案を承認した。
本荘ルナが幻魔ではなかった場合、どうするというのか。
統魔は、考えないようにしていた。そのことを考えれば、決心が鈍りかねない。
彼女を滅ぼすという決心。
また、音が聞こえた。
「お腹空いたよー……喉も渇いたー……」
「だったら襲えよ。幻魔らしくな」
「だから、わたしは幻魔じゃないの! 幻魔じゃないから襲いません!」
本荘ルナは、膝に埋めていた顔を上げ、統魔を睨んだ。さすがに二日も経ったからなのか、統魔に対して弱気な様子を見せても意味がないと悟ったようだ。だが、統魔は、そんな様子にこそ、違和感を持つ。
「……だったら、なんで耐えられてるんだよ。なんで、ここに来てからなにも変わってないんだよ」
「……え?」
統魔に指摘されて、初めて、本荘ルナは気がついたような顔をした。実際、彼女は、自分の不自然さに全く気づいていないようだった。
不自然。
そう、彼女は不自然なのだ。
統魔が彼女をここに連れてきて、二日が経過している。
この廃墟における気温の変化は激しく、夜中は震えるほどに寒くなれば、日中は汗だくになるくらいの熱気に満ちた。異常気象極まりないが、それが空白地帯というものだったし、この地が異界と呼ばれる所以でもある。
霊石結界や〈殻〉の内側は、魔素が安定し、故に気温も気象も安定しているのだが、結界を一歩外に出ると、不安定極まりないのだ。
特に光都は酷い有り様だ。空白地帯でもここまでの寒暖差はそうあるものではなかった。
統魔自身は、導衣の体温調整機能のおかげで寒暖差を凌ぐことができていたし、なにより魔法士だ。魔法を使えばどうとでもなった。
しかし、本荘ルナは、どうか。
魔法を使う素振りもなければ、ただ、膝を抱えて座り込んだまま、一日中を過ごしている。自分は幻魔ではないと言い続けるだけであり、なにかをしようとはしない。しても意味がないからだ、というのはわかるし、なにかをしようとすれば、それを理由に攻撃される可能性があるのではないか、と、考えているのかもしれない。
だとしても、だ。
彼女が猛暑同然の熱気の中で汗一つかかず、真冬のような冷気が吹き荒れようとも平然としている様を見れば、誰だって不自然に感じるに違いなかった。
無意識に魔法を使っているわけもない。
魔法を使うには、魔力を錬成し、律像を形成し、真言を発声するという三つの段階を踏む必要がある。それは、幻魔とて同じだ。その発声の際に生じる音が人間の言葉とは違っても、原理は同じなのだ。
だから、本荘ルナが熱気や冷気を凌ぐための魔法を使ったのであれば、統魔には一目瞭然だったはずだ。
だが、そうではなかった。
彼女は、一切魔法を使わず、この寒暖差を平然と乗り切っていた。
「これだけの異常気象の中で、魔法も使わず、体調になんの変化が起きないのは、おかしなことなんだよ」
「……そんなこと、知らないよ……わたしは、なにも……知らない……」
またしても膝に顔を埋め、黙り込むようになってしまった本荘ルナを見て、統魔は、渋い顔になった。彼女が人間ではないことなど、最初からわかっている。汗をかかないのも、寒さに強いのも、人間ではない怪物ならばあり得る話だ。だが、それが彼女を幻魔と断定する証拠にはなり得ない。
人類の敵である証では、ない。
彼女が人類の敵だという証明は、彼女が飢餓感の余り、統魔に襲いかかってきたときにのみ、現れる。
しかし、三日が経過してもなお、彼女は襲ってこなかった。
統魔は、途方に暮れた。
(くそ……どうなってんだよ……!)
統魔は、思い切り叫びたかった。
本荘ルナの腹が鳴り響き、彼女の空腹を訴え続けている。しかし、彼女は、一向に統魔に襲いかかろうとしない。そういう気配を一切見せない。膝を抱え、顔を埋め、苦しそうに、辛そうに呻いているだけだ。
これでは、どちらが悪者なのか、わかったものではない。
そんなことを考えながら統魔が寝返りを打ったのは、三日目の夜だった。
突如、視界が光に灼かれた。
太陽のように眩しい光が、天から降ってきたのだ。