第三百七話 統魔とルナ(五)
なぜ、今になってあのときのことを夢に見たのだろう、と、美由理は考え込んでいた。
八月を目前に控えた七月二十九日、朝。
時計の針は午前五時を指していて、太陽は地平の彼方を昇り始めたばかりだったが、それでも眩しく、強烈な光が彼女の寝室に入り込んでいた。
開きっぱなしの窓から入り込む風は、当然のように熱を帯びている。
夏の熱気。
早朝ということもあり、伊佐那家本邸敷地内の温度調整が適当なのだ。夏とはいえ、早朝から冷房を全開にする必要性がない。
美由理の寝室内に展開するいくつもの幻板や、立体映像の数々。
それぞれに想い出があり、思い入れがある。
中でも、そのいくつかに映り込んでいる神爪天志のことを思うと、美由理は、胸が張り裂けそうになるのだ。
美由理は、星央魔導院卒業と同時に戦団に入った。当然のように戦務局戦闘部への配属を望んだ彼女を待ち受けていたのは、部隊長同士による争奪戦であり、その争奪戦の勝者となったのが神爪天志だった。
神爪天志は、美由理を第七部隊に招き入れると、師匠を買って出てくれた。既に学生時代から優秀な魔法士として名を馳せていた美由理だったが、神爪天志に直接学ぶことによってさらなる高みを目指せると考え、彼を師事することとした。
身内には、伊佐那麒麟というそれこそ戦団を代表する魔法士がいたが、母は副総長という立場にあった。
美由理が身内に甘えてばかりもいられないという考えを持つに至ったのは、魔導院を卒業し、戦団に入団したことが大きいだろう。美由理の中に自立心が芽生え始めたのだ。
それももう随分昔の話だ。
神爪天志は、良き師であり、良き上官であり、良き部隊長だった。
導士としての美由理の基礎は、神爪天志の教えによって作り上げられたといっていい。彼に学び、教わり、叩き込まれたことが、いまの彼女を形作っている。
そして、その最期も。
美由理は、幻板に映る神爪天志の仏頂面を見つめ、その死に様を脳裏に浮かばせた。
光都事変の真っ只中で繰り広げられた鬼級幻魔オロバスと六名の星将の死闘。神爪天志、八幡ニイコ、平岡清司郎、長砂紫音、稲屋奈央、尾上海里の六名は、星象現界を発動し、オロバスを圧倒した。
星将六名による星象現界の同時発動である。
どれだけ凶悪な鬼級幻魔であれ、一溜まりもなかったのだ。
そう、圧倒した。
圧倒的な勝利を掴み取ることが出来た。
オロバスに対しては、だが。
その直後、崩壊するオロバスの幻躰の中から現れた鬼級幻魔エロスが、星象現界の発動によって消耗し尽くした星将たちを蹂躙した。そして――。
美由理は、頭を振った。
光都事変の絶望的としか言いようのない光景、それを今になって思い出さざるを得なくなった理由に思い至ったからだ。
「そうか。絶望か」
美由理は、寝間着の胸元に手を触れた。鼓動を感じる。血の流れが早まっている。心拍数が上がっていて、全身の魔素が疼いているような感覚があった。
絶望。
あのとき、脳裏を過り、心を埋め尽くした感情を言葉にするならば、それだろう。
情報官からの報せは、未だに美由理の鼓膜に刻み付いている。
『皆代閃士の生体反応消失! ノルン・システムによる追跡も出来ません――』
天輪技研ネノクニ工場で新戦略発表会が開催されていたあの日、美由理は、央都守護の任についていた。単純な任務だ。葦原市内の巡回任務であり、彼女は、小隊を率いることもなく、ただ一人、東街区を飛び回っていたのだ。
そんな折、発表会場で大事件が起きたという通信が情報官から飛び込んできた。
発表会場には、イリアや義一、それに幸多がいる。
美由理が気にならないわけもなく、なにか変化があれば逐一報せるように情報官に伝えた。そのおかげもあり、美由理には現場の状況が手に取るようにわかったのだが、それによって仕事が手に付かなくなりそうだったのは良かったのか悪かったのか。
どう考えても後者だ。
そして、幸多の暴走である。
サタンを目の当たりにした瞬間、幸多は、周囲の制止を振り切るようにして飛び出し、サタンとともに闇の世界に消え去った。
それは、誰がどう見ても幸多の自殺行為にほかならなかったが、残された誰もがそう考えるわけもなかった。
イリアは強引にでも引き留めるべきだったと後悔していたし、義一や火倶夜を含む他の導士の多くもそうだった。
幸多がサタンに復讐するために戦団に入ったということは、皆代統魔がそうであるのと同じくらい知られた話だ。
皆代家に起きた惨劇自体が、統魔の活躍とともに有名になってしまったからだ。
二人の十歳の誕生日に起きた悲劇。
これほど央都市民の心を揺さぶる話はなく、統魔をして悲劇の主人公にしてしまったのも、誰もが幻魔災害によって身の危険を感じ、命を失う可能性を我が事のように理解していたからだろう。
そして、統魔を悲劇の主人公に押し上げた力は、幸多にも伝播し、彼の人気を高めることにも強く影響していたはずだ。
皆代兄弟は、央都を騒がす鬼級幻魔の手によって父親の命を奪われ、その敵討ちのために戦団に入った――その事実は、今や知らないものがいないくらいに有名になってしまっている。
だからこそ、サタンが現れたのであれば、幸多が怒り狂って暴走する可能性を考慮するべきだった、と、イリアが心底悔やむのもわからないことではなかったが、そのことで美由理がイリアを責めることなど一切なかった。
真に責められるべきは自分だ、と、美由理は考えていたからだ。
幸多が、サタンを心の底から憎しみ、恨み、限りない怒りに燃えていることを本当の意味で理解していなかったのだ。
彼のことをわかってやれていなかった。
師匠とは名ばかりの体たらくとしか言い様がなく、故に美由理は、反省するばかりだった。
だからこそ、幸多に導士としての在り様、その全てを徹底的に叩き込む機会を設けることにした。そのための方法を考えに考え、ようやく導き出したのがこの合宿なのだ。
美由理が幸多だけを鍛え上げるための時間を捻出することは困難だが、幸多を含む複数名の導士を合同で訓練するという名目ならば、護法院も文句はいうまい。
これまで、戦団は導士の育成をある意味において軽視していたといっても過言ではない。
星央魔導院で基礎を叩き込み、徹底的に鍛え上げているのだから、それ以上のことは、実務の中で覚えていけばいい、という考え方が根底にあるからだ。星将や煌光級導士を師とし、学んでいけば、それだけでどうとでもなるはずだ、と。
しかし、それでは精鋭中の精鋭こそ鍛え抜かれるだろうが、拾い上げたばかりの原石を磨き上げることは困難だ。
特に、幸多のように対抗戦で優勝し、その結果戦闘部に入ったような人間は、戦団の理念から教え込むべきなのだ。
ただし、そのための期間を蔑ろにし、即座に任務を割り当てたのは、美由理自身である。
美由理は、幸多の実力を測り、その能力が任務に堪えうるものだと判断した。だからこそ、入団直後に初任務を指示したのだが、それがそもそもの間違いだったということに気づかされたのが、今回の事件だった。
美由理は、己の迂闊さを大いに呪い、考えを改めた。
実力だけで全てを推し量ってはならない。才能、実力、性格、精神性、全てを加味した上で、任務を与えるべきであり、相応しくないのであれば、相応しくなるまで鍛え続けるべきなのだ。
でなければ、無駄に命を失わせることになる。
人命の尊重こそ、戦団の原理原則なのだから。
美由理は、大きく深呼吸して、窓の外を見遣った。風に揺れるカーテンの向こう側では、太陽がゆっくりと昇り続けている。。
太陽が昇り始めて、どれくらいの時間が経つのだろう。
時刻を調べるのは簡単だ。携帯端末を見ればいい。しかし、統魔は、そんなことすらしている場合ではないのではないか、と、考えていた。
光都タワーの真下、塔を支える四本足がいまにも崩れ落ちそうな雰囲気を漂わせつつも、その崩壊寸前の有り様が廃都に溶け込むように自然だった。
なにもかもが風化し、崩れ行く世界。
そんな廃墟そのものの光都の中心にあって、統魔が全神経を集中させているのは、膝を抱えて座り込む少女の姿をした、何者かだ。
本荘ルナ、と、それは名乗る。
そして、それの記憶は、本荘ルナの記録と一致している。
それが厄介極まりないのだ、と、統魔は考えている。
人間と幻魔の間に連続性はない――。
「なによ……そんな怖い顔しないでよ……」
本荘ルナの顔をした怪物は、しかし、人の情に訴えかけてくるようにか弱い顔を統魔に向けてくる。まるで途方に暮れた人間の表情そのものだ。
統魔には、それが許せなかったし、信じられなかった。
幻魔が人間に擬態するという実例が存在し、央都に暗躍し、大混乱を起こしたという事実がある以上、その表情ひとつに心を許すわけにはいかないのだ。
なにより、本荘ルナを名乗るそれは、正体不明の怪物にほかならない。