第三百四話 光の都(二)
魔暦二百十七年八月十二日、それは起こった。
後に光都事変と呼ばれることになる大事件は、央都史上最大規模の幻魔災害といっても差し支えないだろう。
光都タワーに激突し、多数の幻魔をばら撒いたのは幻魔戦艦とも呼称される幻魔の輸送艇である。その存在が確認されたのは、このときが始めてであり、戦団にとっても衝撃的な出来事だった。
幻魔が軍勢を率い、統制の取れた行動をすることそのものはとっくにわかっていたし、理解してもいた。しかし、だ。幻魔がその兵隊を輸送するために乗り物を作り上げているなど、想像だにできないことだった。
幻魔は、いつだって身一つで戦っていたからだ。
どれだけ離れた距離であれ、自身の能力で移動していた。地を駆け抜け、あるいは空を飛ぶことによって、目的地へと移動するのが幻魔という生き物だと思われていた。しかし、鬼級幻魔の知性、頭脳を考えれば、兵隊を輸送するための乗り物を作り上げたのだとしてもなんら不思議なことではなく、むしろ、当然だと考えるべきだったのかもしれない。
もっとも、幻魔戦艦は、妖級幻魔そのものを改造して作り出されたものであり、機械などではなかった。
ともかくも、幻魔戦艦とともに襲来した幻魔の軍勢は、瞬く間に光都を恐怖と混乱、絶望と慟哭とで飲み込んでいった。
その真っ只中、真っ先に突っ込んでいったのが、伊佐那美由理率いる小隊だったのだ。
五年も前の話だ。
美由理は、寝台の上で上体を起こし、朝日の差し込む窓辺で薄緑のカーテンが風に揺れる様を見ていた。茫然と、目元を拭う。指先がわずかに濡れた。
涙だ。
覚醒の瞬間、一瞬にして脳裏を席巻した映像の数々は、美由理自身の記憶に基づくものだ。光都事変に関する記憶の数々が、鮮明な映像となって彼女の意識を染め上げた。
一瞬。
ただの一瞬の出来事に過ぎない。
それでも、網膜に焼き付き、心の奥底にまで深々と刻まれるほどの出来事ともなれば、その一瞬ですら感情を激しく揺さぶるものだ。
見慣れた自室の殺風景ともいえる様子を見回して、息を吐く。
過去の記憶に振り回されるのは、感情だけでいい。意識までもが過去に引っ張られ、我を忘れるようなことがあってはならないと自戒しながら、美由理は寝台から抜け出す。
伊佐那家本邸の二階に美由理の部屋はあり、寝台はその東側の窓際に配置されている。昇り始めたばかりの朝日が力強いまでに差し込んでくるのも、東に面しているからにほかならない。
そして、彼女が窓際に寝台を配置するように指定したのは、そのほうが目覚めやすいのではないか、と考えたからだ。導士となってからというもの、自室で寝る機会は限りなく少なくなったが、とはいえ、休日ともなれば家に帰ってくるのが当たり前だったし、そういう場合は、普段通りに寝て起きるものだ。
今日は、そういうわけではないのだが。
美由理は、室内を見回して、殺風景な部屋のわずかばかりの飾り付けとして浮かび上がっている立体映像や幻板に目を遣った。そして、数ある幻板の一つに目を留める。
その幻板には、戦団に入ったばかりの美由理と大柄な男が並んでいる様子が映し出されていた。卵色の頭髪と牡丹色の虹彩が特徴的な大男は、導衣を身につけ、ぎこちなく微笑んでいる。内向的な、しかし、熱しやすい性格の持ち主だった。
男の名は、神爪天志。
先の戦団戦務局戦闘部第七部隊長であり、美由理の師匠である。
美由理は、笑顔が苦手な神爪天志の精一杯の笑い顔を見て、なんともいえない気持ちになった。もう二度とその笑顔を直接見ることは出来ないし、彼が同僚にからかわれている光景に出くわすこともないのだ、と思うと、どうしようもない寂しさや虚しさが沸き上がってくる。
彼は、死んだ。
光都事変で、命を落とした。
美由理を鬼級幻魔から護り切り、己が命を灼き尽くすようにして、息絶えたのだ。
その壮絶な死に様を忘れることなど決してありえなかった。
だが。
(なぜ、今頃になって……)
美由理は、幻板に手を伸ばし、その立体映像に触れようとして、指先が映像を貫通する様を見て、憮然とした。
窓の外からは、感傷を踏みにじるような不躾さで、夏の光が入り込んできていた。
光都は、大和市南西部に広がる空白地帯に築き上げられた。
企業連に所属する大企業が出資し、立案、推進された自由都市開発計画。その計画に基づいて開発された都市は、当初、人口一万人を目指していたという。
目標を達成するやいなや、さらなる人口の獲得を目指し、そのために都市の規模を拡大しようとした。
が、それはならなかった。
東の果て、地平の彼方に昇り始めた太陽が、眩いばかりに白く輝いていて、この廃墟としか言いようのない都市の残骸を余す所なく照らし出そうとしている。あらゆる建物が五年前の光都事変から多少の劣化こそすれ、変わっていないのだろう。少なくとも、ひとの手が入っている様子もなければ、幻魔が潜んでいる気配もなかった。
光都跡地。
光都事変によって壊滅的な損害を被った光都は、企業連の手を離れ、戦団の管理下に置かれている。
企業連は、光都事変の責任を戦団や央都政庁、市民にまで追及され、央都における立場を悪化させていった。
というのも、光都事変が、光都の壊滅だけに留まらない可能性を秘めた大事件だったからだ。
光都に襲来した幻魔の大軍勢は、その数極めて膨大であり、光都だけを滅ぼすためのものではないということは明らかだった。光都を滅ぼした後、その廃墟を橋頭堡とし、大和市へ攻め込む算段だったのではないか、と、考えられている。
当然、大和市を陥落させれば、葦原市や出雲市にも攻め込むつもりだったはずだ。
光都での撃退が叶わなければ、央都が、人類生存圏全体が戦火に飲まれていた可能性が極めて高かったのだ。
戦団や央都政庁のみならず、央都市民が企業連に対して怒り狂うのも無理のない話だった。
光都事業は、企業連の野心と欲望の塊である。央都市民の望むところではなかったし、光都に引かれる市民というのも、決して多いわけではなかったのだ。失敗する可能性の高い賭けに賛同するものなど、どれだけいよう。
企業連は、自由都市開発計画の責任を一部の企業に押しつけ、切り離すことによってその最悪の事態を乗り切った。
その結果、天燎財団が勢力を拡大させることになるとは、企業連も想定外だったようだが、そんなことはどうでもいい。
光都跡地である。
企業連から戦団に明け渡されたこの地は、しかし、空白地帯にあるということもあり、戦団の管理下にありながらも、なんの手入れもされていない場所でもあった。
人っ子一人いなければ、監視の目が光っているわけもない。
誰もいない、なにもない場所なのだ。
だからこそ、統魔は、この場所を選んだ。
統魔は、廃墟の真っ只中に停まった輸送車両の運転席から降りると、後方に回り込んだ。荷室を開き、その中心に鎮座した魔法金属製の機械を抱え上げようとしていると、本荘ルナが話しかけてきた。
「なんなの……それ?」
すぐに降りてきたところを見ると、車の中に乗っていてもどうしようもないと思ったようであり、その点では統魔にとってはありがたいことだった。彼女を車から降ろすことで一悶着くらいあるのではないかと身構えていたからだ。
いや、と、統魔は、考える。本荘ルナは、ずっとそうだったのではないか、と。
彼女は、いつだって従順だった。
言葉では嫌がり、態度では反発するのだが、最初からずっと、統魔たちの指示に従っていたのではないか。戦団本部まで同行するように指示したときだって、そうだ。戦団本部からここに至るまで、ずっと、そうだった。
彼女は、他者を支配する力を持っており、その力の強力さは、星将が全く抗えない時点で圧倒的というほかない。それほどの力を持っているながら、なぜもこうまで従順なのか、と、統魔は考え込む。
「擬似霊場発生器イワクラだ」
統魔は、イワクラの異質感と重量感たっぷりな本体を抱え込みながら、いった。
そして、これからのことを思った。
果たして、彼女の正体を暴くことができるのか、と。