第三百二話 統魔とルナ(二)
本荘ルナが言葉を発さなくなって、どれくらいの時間が経過したのだろうか。
統魔と本荘ルナを乗せた戦団印の輸送車両は、央都大地下道を西へ西へと進み続けた結果、葦原市から大和市へと至り、さらに大和市の西部に位置する八咫町へと到達した。
そこでようやく地下から地上へと上がる。
まだ真夜中だ。
夜明けは遠く、遥か彼方のように感じられるのは、この沈黙の重さのせいかもしれない、などと、統魔は考える。
輸送車両は、自動操縦によって運転されているため、運転席の統魔にはなにもすることがない。かといって、なにかをして暇を潰すというわけにもいかず、統魔は、本荘ルナを見ていることしかできなかった。
本荘ルナは、助手席で膝を抱えるようにして座り込んでいるのだが、統魔が質問してからというもの、一切喋らなくなっていた。その顔面が追い詰められているかのように蒼白になっており、さらに膝を抱え込む力が強くなっているのが皮膚に食い込む指先の様子からもはっきりとわかる。
統魔が回答を促しても、彼女は一切の言葉を発さなかった。
統魔の質問が彼女にとって致命的な一撃だったのか、どうか。
本荘ルナの内心を知りようもない統魔には、全く想像もつかない。しかし、手応えを感じているのもまた、事実だ。
本荘ルナが、本荘夫妻の死後二日間、あの家から一切出ていないことは、街頭の監視カメラの記録映像などからも明らかだった。おそらく、寝室から一歩も動かなかったのではないか。
彼女が人間ならざる存在ならば、二日間飲まず食わずでも問題がないというのも納得が行く。
幻魔ならば、尚更だ。
幻魔は、食事という概念がない。
いや、あるにはあるが、それは他の生物の食事とは全く形態を異にするものだ。
幻魔にとっての食事は、高密度の魔素を体内に取り込むことであり、魔力を吸収することである。ただし、通常、幻魔は、魔法へと変質した魔力を吸収することは出来ない。だから、魔法が幻魔に通用するということでもある。
そういう点では、攻撃魔法をも飲み込み、己の力に変えてしまうバアル・ゼブルは、特異な存在といえるだろう。
さて、本荘ルナである。
統魔は、本荘ルナが幻魔であると断定しているのは、そうでもなければ納得ができないからだ。本荘ルナを名乗る幻魔は、本荘夫妻の死後二日間に渡って、その亡骸とともに寝室に引きこもっていた。その間、食事もしなければ水分も取らず、当然、排泄も行っていないのではないか。
普通の生物にあるまじき行いといえる。
そしてそれこそ、彼女と幻魔の類似点であり、だからこそ、統魔は、本荘ルナの正体を突き止めなければならないと考えるのだ。
もちろん、戦団上層部も護法院も、ノルン・システムの解析結果に基づき、彼女を人間であるとは認めてはいないのだが、かといって幻魔とも言い切れない、微妙な状態であることを認識していた。
ならば、自分が暴いてやろう。
そのための方法を考案し、提案し、承認されたのが、現在だ。
車両は、大和市を西へひた走り、ついには境界防壁を目前に控えていた。
境界防壁は、央都四市の外周を囲うように聳える巨大な壁である。大和市の開発当時における最先端の技術で建造されたそれは、葦原市のものですら建築基準を超える巨大さであり、近づくと圧倒されるほどだった。
人外魔境の空白地帯と、人類生存圏たる央都四市を隔絶するための結界、とでもいうべき代物だ。
その壁を通過するには、戦団本部の許可がなければならず、一般市民が自由に出入りすることはできない。
「どこへ……行くの……?」
本荘ルナがおずおずと口を開いたのは、前方に境界防壁の威容を目の当たりにしたからだろう。
二人だけを乗せた車両は、大和市の東西を貫く中央道を真っ直ぐ西に進んでいて、そのことに気づいた彼女は、ようやくこの車両がどうやら全く想像だにしない場所に向かっているということを察したのだ。
「だれもがおいそれとは行けない場所だ」
「なによ……それ……」
答えにならない答えを聞いて、彼女は憮然とつぶやいた。膝に顔を埋める。
自分が何者なのか、今になって全くわからなくなってしまった、とでもいうかのような反応は、しかし、統魔をより警戒させた。同情を得ようとしているのではないか、と、統魔は考えざるをえない。
統魔は、本荘ルナが自分以外の周囲の人間を支配していることそのものが到底受け入れられるものではなかったし、そういう能力がある以上、放っておけば大惨事に繋がりかねないと確信してもいた。
だからこそ、正体を暴き、討伐するべきである、という結論に達するのだ。
決して、心を許してはならない。
絆されてはならないのだ。
境界防壁の西門がゆっくりと開き、二人を乗せた輸送車両と、遥か後方に続く十数台の輸送車両が大和市内から空白地帯へと乗り出した。
空白地帯には、道はない。
一面、生気のない死の大地がどこまでも広がっているようであり、起伏に富んだ異形の荒野を照らすのは、星々と月の光だけだ。街灯など有ろうはずもなければ、照明器具が設置されているわけもない。
空白地帯は、幻魔の世界だ。
野良とも野生とも言われる、どこの〈殻〉にも所属していない幻魔たちが生息し、ときには相争い、ときには衛星拠点を攻撃したりしている。
この鬼級幻魔たちの〈殻〉によって埋め尽くされた異界で、なぜ、空白地帯のような無法地帯が生まれるのかと言えば、〈殻〉の性質のせいだ。〈殻〉は、殻石を中心とした球状の結界であり、多くの場合、地上に現れているのはその上半分の半球である。
複数の半球がぶつかり合えば、どうしたところで隙間が生まれるものだ。その隙間に〈殻〉を形成しようとする鬼級幻魔もいるのだろうが、多くの場合、隙間は隙間でしかなく、領土とするには余りにも小さすぎ、狭すぎるという理由から放置されている。
たとえば、いま統魔たちを乗せた車両が走っている空白地帯は、大和市と北西の〈殻〉、西部の〈殻〉の間に存在する隙間である。
そして、その隙間にこそ、戦団の衛星拠点が置かれており、央都防衛網が築かれているのだが、それは、いい。
大事なのは、その空白地帯が全く以て安全ではないということだ。
「魔天創世によって作り上げられた死の大地だ。おまえたち幻魔にとっては居心地の良い場所なんじゃないか?」
「わたしは……幻魔じゃ……ない……」
「どうだか」
「違う……違うよ……」
力なくつぶやく本荘ルナに対し、罪悪感を覚えてはいけない、と、統魔は自分を叱咤した。少女の姿をしていても、弱気になり、いまにも泣きそうな顔をしていても、同情してはいけない。
彼女に寄り添うことなどあってはならない。。
相手は、少なくとも人間ではないのだ。
幻魔かどうかはともかくとして、それだけは確かだ。そして、そうである以上、決して油断してはいけない。
いつ牙を剥いてくるのかわかったものではないのだ。
だからこそ、支配されざる統魔だけが事に当たらなければならない。
どうして自分だけが例外なのか、統魔にも理解できなければ、ノルン・システムにも解析できないようだった。であれば、誰にもわからない。わかるはずもない。
だが、そうである以上、この特異性を利用しない手はなかったし、戦団としても統魔を頼るほかないのだ。そうしなければ、本荘ルナを拘束し続ける以外に取れる手立てがなくなる。
それか、本荘ルナを抹殺するか、だが、それはどうやら総長によって否定されたようだ。
ならば、統魔が本荘ルナの正体を暴くしかない。
それだけがこの状況を打開する唯一の方法だ。
やがて、空が白み始めた。
その頃になると、起伏に富んだ死の大地を突き進む輸送車両の前方に、なにか構造物の集合体のようなものが見えてきていた。
地平の彼方に差し始めた陽光によって照らし出されたのは、廃墟である。
「あれは……光都?」
茫然とした調子で本荘ルナがつぶやくのを聞きながら、統魔は、その廃墟を睨み据えていた。
かつて、企業連が、央都の勢力争いにおいて戦団を出し抜くべく立案し、実行に移した自由都市開発計画、その夢の残骸である。