第二百九十九話 大事件(九)
地上において第三因子・真眼を持つのは、伊佐那麒麟と伊佐那義一だけである。
麒麟が水穂市に出向いており、戦団本部に呼び戻すのに時間がかかるということもあって、本部の所在地である葦原市内にいた義一が急遽呼び出されたのだ。
義一が真眼でもって本荘ルナを視ることにより、なにかがわかるのではないか。
真眼ならば、三女神のよる生体解析以上に魔素を詳細に視ることも可能だ。真眼は、魔素を視るという一点において、あらゆる魔法より優れ、あらゆる機械を上回っている。
戦団の根幹たるノルン・システムとて、真眼を模倣することすらできていないのだ。
(とはいえ……)
義一は、緊張に体が強張るのを認めながら、その一室に足を踏み入れていた。
真眼は、対象を構成する魔素を視覚的に認識することを可能とする第三因子だ。ただし、幻板《げんばn》を通して視た場合には、その限りではない。不完全極まりない情報しか得られないのだ。
だから、真眼を役立てようとする場合、現地に赴く必要がある。
義一がネノクニに連れて行かれたのも、それが理由だ。
そして、義一が緊張しているのは、本荘ルナを名乗る存在が、他者を支配する能力を持っているということが判明しているからであり、忠告を受けたからだ。
本荘ルナと対面した誰もが、彼女の味方になってしまっている。
皆代統魔という例外を除いて、だが。
皆代小隊の面々だけならばまだしも、第九軍団の導士たち、杖長、副長、さらには星将・麒麟寺蒼秀までもが本荘ルナを人間だと断言し、彼女のために便宜を図ろうとしていた。
今現在、隔離されている本荘ルナが、なぜか彼女の支配を受け付けない皆代統魔だけでなく、麒麟寺蒼秀たちと一緒にいるのもそれが理由だ。蒼秀たちは、本荘ルナを統魔だけに任せることは出来ないといい、統魔の暴走を抑えるために自分が必要だといってのけている。
蒼秀たちは、もはや正常な思考が出来なくなっているようなのだ。
それが本荘ルナの能力であるらしく、近づけば近づくほど、一緒にいる時間が長ければ長いほど、その影響は強くなるようだった。
本荘ルナらが深層区画に降りてくる際に引き離された皆代小隊の導士たちは、時間の経過とともにその影響が薄れているという。そして、自分たちが本荘ルナを擁護するような言動を行っていたという事実に混乱を起こしているようだ。
そんな話を聞けば、義一も全力で警戒するのだが、警戒したところで意味がないのだろう、とも思った。
深層区画の一角にある真っ白な空間。そこを本荘ルナを隔離するための空間として利用することにしたのは、そこならば彼女の影響が他に及ぶことはないだろうと判断してのことのようだ。
深層区画そのものが、戦団本部の地下深くに存在する隔離された領域だ。本荘ルナの能力の影響が及ぶ範囲から導士を近づけないようにすることは難しくない。
現在、本荘ルナの支配下にあるのは、麒麟寺蒼秀たちだけだ。彼女がこの空間に隔離されている以上、戦団本部内に新たな彼女の同調者は出現しないだろう。
(さて、どうなるか)
義一は、一面真っ白な空間を進みながら、全員の視線が自分に集中したのを認めた。皆代統魔、麒麟寺蒼秀率いる同調者たち、そして、本荘ルナ。
本荘ルナは空間の中心に座り込んでいて、その様子を見守っているのが麒麟寺蒼秀たちであり、皆代統魔だ。統魔と蒼秀たちの周囲には律像が浮かんでいるのがわかる。複雑で精緻な紋様は、互いに牽制し合うかのように常に変化している。
統魔は、本荘ルナを討ち滅ぼしたいと考えていて、蒼秀はそれを防ぐ手立てを考えている――そんな感じだった。二人の肉体を構成する魔素が爆発的に増大しているのが、義一の眼にはっきりと映っていた。練成された魔力は、いまにも火山となって噴き出しそうな勢いだ。
本荘ルナがおずおずと口を開いた。
「伊佐那義一様……?」
「さすがに知っているか。そうだよ。彼は伊佐那義一。第七軍団の導士で、ここに来たのは、そう、きみを視るためだ」
「わたしを……視る?」
きょとんとする本荘ルナの反応、表情、仕草の一つ一つが可憐で愛らしいものだ、と、義一は想った。無意識にその挙措動作を見逃すまいとしている自分に気づく。それくらい、本荘ルナは魅力的なのだ。
(ん?)
義一の脳内でなにかが反発するのだが、それがなんなのか、彼には全く理解できない。
統魔が、義一を見ている。その眼差しには警戒が浮かんでいた。義一が本荘ルナに支配される可能性を憂慮しているというよりは、確信してさえいたからだ。
何者も、彼女の支配を拒絶できないのではないか。
ならばなぜ、自分は支配されていないのか、という疑問も浮かぶのだが、
「さっき解析したんじゃなかったの? わたし、幻魔じゃないんだってば」
「九十五パーセント」
「なによっ」
「女神たちが、おまえを解析した結果だ。九十五パーセント、おまえの肉体は幻魔と同じなんだ」
「でも、五パーセントは、違うよね」
義一は、統魔に笑いかけたが、統魔はそんな義一を睨み付けるだけだった。
「さっさと視ろよ」
「視るとも」
いわれるまでもない、と、義一は、本荘ルナに歩み寄った。より正しく、より精確に、より微細に。真眼の能力を最大限に発揮するべく、本荘ルナの全身を視界に収める。
本荘ルナ。
一見すると、際どい格好をした少女でしかない。身につけている衣装は、胸元が大きく開き、腰回りや足回りの露出が派手であり、目を向ける場所に困るような、そんな格好だった。艶やかな黒髪には朱が混じり、虹彩は赤黒い。幻魔の目に似ているが、違うような気がした。
顔立ちは、美人といっていいだろう。警戒心や緊迫感のせいか強張っているが、それでも容貌が崩れていない。
そんな顔立ちだけを視ている場合ではない、と、義一は真眼を発動する。義一の黄金色の瞳が光を帯び、本荘ルナの肉体を透視する。肉体を構成する細胞、その一個一個に宿る魔素の深奥までも覗き込み、暴いていく。少女の肢体に宿る魔素の膨大さたるや凄まじいものであり、とても人間が内包できる量ではないと思うのだが、しかし、人間に宿っているという事実を否定することも出来ない。
得意属性から魔法の傾向までも把握しつつも、イリアたちが欲しているのはそのような情報などではないのだろうと認識し、義一は、真眼の力をさらに強めていく。
真眼の力、その限界にまで到達すると、意識が飛びそうになった。
くらりと揺れ、いまにも倒れそうになった義一の体を支えたのは、統魔だ。
義一の額から汗がこぼれ落ちる中、その双眸はいつになく爛々と輝いていた。真眼を駆使するには相応の消耗が伴うのだろう、ということがその様子から窺い知れる。
「ありがとう、皆代くん。助かったよ」
「いや、いい。それより、なにかわかったのか?」
「そうだね。わかったよ。彼女は人間だ」
義一は、黄金色に輝く瞳で本荘ルナを見つめながら、いった。本荘ルナの表情から不安が掻き消え、満面の笑みを浮かべる。
「でしょ! わたし、人間なのよ!」
「とても人間のものとは思えないほどの魔素質量だったけど、彼女は人間だよ。これは間違いない」
「……そういうことか」
統魔は、義一の確信に満ちた言動に失望すら感じなかった。ある意味、わかりきっていたことではあったからだ。本荘ルナを名乗る幻魔と対峙したものは、誰彼なく支配されてしまう。
統魔という例外を除いて、だ。
伊佐那義一も例外ではなかったというだけのことであり、そのことで落胆するほど、統魔も愚かではなかった。おそらく、神木神威ほどの魔法士でも同じことになるのだろうし、伊佐那麒麟だったとしても結果は変わらなかったはずだ。
「ということだそうだが、そろそろ、本荘ルナさんを解放してあげるべきなのではないか?」
などと提案したのは、蒼秀である。
統魔は、師匠の尊厳が無惨に踏みにじられていく様を見ていることが出来ず、目を背けた。
本荘ルナが、叫ぶ。
「そうよ、解放してよ! わたし、人間なのよ!? こんなところに閉じ込めておくなんて、いくら戦団でも許されることじゃないわ!」
「人間なら、そうだな」
「人間よ! みんなそう言ってるじゃない!」
「九十五パーセント」
「まだそんなこといってるの? 女神かなんだか知らないけど、あれが間違っている可能性だってあるんじゃないの!?」
「……そうだな」
そうかもしれない、と、統魔も思い始めていた。間違っているのは自分のほうで、正しいのは、彼女や彼女を支持するものたちの方なのではないか。彼女は本当に幻魔などではなく、ただの人間なのではないか。
その異様な姿も、なにもおかしくないのではないか。
統魔は、混乱し始めている自分に気づいていたが、雪崩のように落ちていく意識を食い止めることはできそうになかった。