第二百九十八話 大事件(八)
三女神が困惑気味の表情を浮かべる中心で、本荘ルナを名乗り、その姿形をしている幻魔もまた、茫然としていた。膨大な光を照射されたものの、それによって体に異変が起きたりだとか、そういったことは全くなかったからだ。
女神たちは、顔を見合わせ、考え込むようにして、統魔たちに視線を向ける。
「彼女が人間だということがわかったんだろう」
麒麟寺蒼秀が確信めいて言ってくるものだから、統魔は、歯噛みした。未だ、蒼秀たちは幻魔に支配されたままであり、正常な思考をすることができなくなっている。
この支配を断ち切るには、やはり、幻魔を斃す以外にはないのではないか、と、統魔は思うのだが、そのためには幻魔の側に誰もいない状況を作り出さなければならない。
どういうわけなのか、統魔だけは、あの幻魔に支配されていないのだ。統魔だけは、幻魔を幻魔と認識することが出来ていたし、殺意や敵意を抱くことができている。しかし、統魔以外の誰もが彼女を目の当たりにした瞬間、感化され、支配されてしまうのだから、たまったものではない。
統魔のほうが間違っていて、蒼秀たちの対応のほうが正しいのではないか――一瞬でもそう思ってしまいかねないくらいの状況だった。
そんな苦境を脱却ためにこそ、女神たちの力を借りたわけなのだが。
女神たちは、統魔たちと向き直った。ヴェルザンディが口を開く。
「結論から言うわね」
「本荘ルナ様は、九十五パーセントの割合で幻魔といっていいでしょう」
「残り五パーセントは人間……かな」
女神たちからもたらされたのは、衝撃的としか言いようのない言葉だった。
衝撃的過ぎて、誰もがその言葉の意味を完全に理解するまでに多少の時間を要したほどだ。
統魔も、そうだ。女神たちの言葉がどのような意味を持つのか、一体何をいっているのか、しばし考え込む必要に迫られた。
「95パーセント!? そんなこと、ありえるんですか!?」
蒼秀が、愕然としながらも女神たちに食ってかかる。彼には、本荘ルナが幻魔であることなどありえないことであり、女神たちの解析結果も信用できなかった。どう見ても本荘ルナは人間だったし、幻魔であることは百パーセントありえない。
蒼秀だけではない。八咫鏡子も杖長たちも、女神に抗議するかのような表情を見せ、様々に反論を述べた。
統魔だけが、女神たちの解析結果を支持しているのだ。
「ありえると思う?」
「通常、ありえないことですよ」
「だから、困ってる」
三女神の困惑ぶりたるや、その表情の隅々にまで現れていたし、統魔にも十二分に理解できるものではあった。
誰であれ、そのような解析結果が出れば、困惑し、混乱するだろう。
「九十五パーセント……」
本荘ルナが、茫然とつぶやいた。己の手を見下ろし、握り締め、開く。その感覚の確かさは、自分が人間であることを示しているはずなのだが、そういう実感が瞬く間に希薄になっていくような気がした。異様なほどの寒気を感じる。
足が震えた。まるでいま立っている足場が崩れ落ちていくかのような感覚があって、立っていられなくなった。その場に座り込み、虚空に視線をさ迷わせる。
自分は人間だ、と、彼女は大声で叫びたかった。けれども、声が出ず、力も出ず、どうすることもできなかった。
そんな本荘ルナの心の変化は、態度に表れ、表情にも出ているのだが、気づいたのは統魔だけのようだった。
統魔以外の誰もが解析結果を聞いて大いに混乱しており、本荘ルナを見つめながらも、反応できずにいた。
「九十五パーセントでも、幻魔は幻魔でしょう」
統魔は、本荘ルナの赤黒い瞳を見据えて、告げた。想像を巡らせ、魔法を構築していく。統魔の周囲に複雑な紋様が浮かび上がる。淡く輝く光の紋様。幾重にも絡み合い、無数に変化していく律像は、統魔の魔法技量の高さを明示する。
「なにをするつもりだ」
蒼秀が、はっと、統魔の律像に気づき、その前に立ちはだかった。統魔は、師のそんな姿を見たくはなかったと思いながらも、断言する。
「幻魔は、殲滅する。それが戦団の導士たるものの務めです」
「だが……!」
「師匠、あなたがやらないのであれば、おれがやりますよ。おれは、幻魔の存在を許しはしない」
統魔はそういったものの、悔しさのあまり、反吐が出そうだった。蒼秀の目は、統魔を視てなどいなかった。統魔の瞳に映り込む本荘ルナの姿を見ているのだ。
それは、麒麟寺蒼秀という人間の、戦団最高峰の導士の尊厳を根底から否定する光景だった。
「なんでよ……!」
叫び声が、統魔の耳朶に突き刺さる。見れば、本荘ルナの姿をした幻魔が、彼を睨んでいた。彼女の目にも、当然、統魔の律像が映っているはずだ。そして、その律像が意味する魔法の構造までは把握できないのだとしても、この状況下で魔法を使おうとすることの意味くらいは理解できるだろう。
だから、彼女は、叫ぶのだ。
「なんでわたしがこんな……わたし、幻魔じゃないのに!」
「女神たちの解析結果がおまえを幻魔だといっている。だから、滅ぼす」
統魔は、蒼秀を押し退けるようにして前進し、幻魔を視界の中心に捉えた。すると、ヴェルザンディがいってきた。
「九十五パーセントね」
「それでも、幻魔でしょう」
「そうとも言い切れませんわ」
「なんだって?」
「だって、そんなことありえないから」
「ありえない……」
ウルズの言葉を反芻するようにつぶやいて、統魔は、拳を握り締めた。目の前の幻魔は、統魔を睨んでいる。しかし、その瞳は揺れていて、頬を伝う涙が彼女の激情を伝えてくるようだった。
泣いているのだ。
幻魔が人間に擬態しているだけのことだ、と、統魔は、考える。人間に擬態しているからこその九十五パーセントなのではないか。そうとしか考えられなかったし、それ以外の結論はなかった。
だから、本荘ルナの涙に騙されることはなかったし、揺れ動くこともなかった。
滅ぼすべき敵でしかない。
統魔が律像をさらに尖鋭化させていく、その最中だった。
『待ちたまえ』
突如、アスガルド内に男の声が響き渡った。重々しい男の声は、それだけで凄まじい威圧感を持ち、統魔を制するようだった。
戦団総長・神木神威の声である。
「彼女は、本荘ルナ」
イリアが、幻板に映し出された少女の説明を始めた。
「魔暦二百六年四月二十日生まれの十六歳で、清海高校に通っているそうよ。父は、本荘理助、四十四歳。母は、本荘志乃、四十歳。両親は、彼女が発見された際、同じ寝室内で死亡していたわ。調査した結果、死亡してから数日が経過しているのに、遺体に一切の劣化が見られなかった」
「どういうことだ?」
「彼女が魔法で保存していたのよ。遺体からは彼女の固有波形が多量に検出されたわ」
「ということは、両親は彼女が殺したのか?」
美由理の疑問は、イリアの説明を聞けば誰もが思うことだった。しかし、イリアは頭を振る。
「そうではないのよ。彼女のご両親は、ふたり揃って昂霊丹の愛用者だったの」
「昂霊丹……」
幸多は、静かにつぶやいた。脳裏にはアルカナプリズムのボーカル・天野光の最期の姿が過ったのだ。昂霊丹を多量に摂取した結果、魔力の暴走を引き起こした末に死亡したボーカリストは、悲劇の主人公となり、伝説として語り継がれていくだろうといわれている。
昂霊丹が原因と見られる死亡者は、天野光以外にも多数存在しており、それによって幻魔が発生したという事例も確認されている。
昂霊丹は、東雲貞子こと鬼級幻魔アスモデウスがその暗躍によって作り出したものだ。もちろん、その真意は、幻魔を生み出すことにあったに違いない。
それも〈七悪〉に相応しい鬼級幻魔を、だろう。
「死因は、昂霊丹の多量摂取が引き金となった魔力の暴走。両親ともに、ね。その死が生み出した膨大な魔力が、皆代小隊が対応に当たった魔素異常を引き起こしていたのよ」
「なるほど。つまり、魔素異常そのものと彼女には関連性がないということか」
「そういうこと。でも、彼女は、ご覧の通り、幻魔だった」
「九十五パーセント、だけどね」
妻鹿愛がなんともいえないような顔をして、少女を見遣った。
「ノルンによる生体解析の結果、本荘ルナと名乗る彼女は、幻魔とは断定できない存在であることが明らかになった。構成要素の九十五パーセントが幻魔に、残りの五パーセントが人間に近しい、なにか。幻魔とは断言出来ず、かといって、決して人間であるとも言えない、何者か」
イリアは、冷ややかに告げて、軽く肩を竦めて見せた。
「現状、お手上げなのよ。だから、麒麟様か義一くんの協力を仰ごうと思ったわけ」
「だ、そうだ」
美由理は、義一に目を向けた。
義一の黄金色の目が、わずかに光を帯びた。