第二百九十七話 大事件(七)
中枢深層区画。
別名、アスガルド。
北欧神話における神々の住まう世界にちなんでそう呼ばれることもあるのは、ここに女神たちが実在するからだ。
運命の三女神にその名を由来する機構ノルン・システムの擬人化ともいえる女神たちは、戦団にとって、いや、この人類生存圏にとって極めて重要な存在であり、戦団最高機密といっても過言ではなかった。
故にこそ、導士ならば誰もが立ち入ることのできる場所ではない。
いわば、戦団における聖域なのだ。
そんな聖域に足を踏み入れたのは、統魔と本荘ルナを名乗る幻魔以外には、第九軍団長・麒麟寺蒼秀、副長・八咫鏡子、杖長の味泥朝彦、薬師英理子、大和和明の五名である。
合計七名がアスガルドに入ると、室内の暗闇を彩る蒼白い光が虚空の三カ所に集合したかと思うと、急速に幻想体を構築していく。
ここは、現実空間であって、幻想空間ではない。が、立体映像によって幻想体を現実空間に出現させることは、極めて単純な技術といっていい。そして、このアスガルドは、室内全体が立体映像を投影することができるような構造になっているのだ。
それもこれも、女神たちに活動の場を与えるためだといわれている。
統魔がかつて蒼秀や神木神威に聞いた話を思い浮かべたのは、そうでもしなければ冷静でいられなくなるかもしれなかったからだ。
統魔の右手を強く握り締めているのは、彼が忌み嫌い、憎みきっている幻魔の手なのだ。一刻も早く振り解きたいのに、蒼秀たちのせいでそれも許されない。
統魔にとって地獄のような時間と言っていい。
その地獄がいまにも終わろうとしているという希望的観測だけが、統魔に精神の平衡を保たせていた。
蒼白い光が収束し、まさに女神と呼ぶに相応しい美女たちが姿を見せる。スクルド、ヴェルザンディ、ウルズ、三女神の幻想体である。
美々しく着飾った三体の幻想体を目の当たりにして、本荘ルナの姿をした幻魔が思わず統魔から手を離した。
「なにこれ……」
「これじゃないわよ、女神様よ、女神様!」
ヴェルザンディが憤然と言い放てば、幻魔はきょとんとする。全く理解できないと言わんばかりの反応は、統魔が初めてここを訪れたときのそれと同じだった。
突然現れ、自分たちは女神である、などといわれても、だれが納得できるものだろうか。
「女神様?」
「そうよ! わたしたちは、この戦団の超重要機密である女神様なのよ!」
「自分でいうことかしら」
「事実だけども……」
ヴェルザンディの断言に対し、スクルドとウルズの反応はどうにも冷ややかだ。
しかし、ヴェルザンディはへこたれるどころか、全く気にすることなく、敢然と、告げるのだ。
「用件は聞いたわ! その子が、件の幻魔ね!」
「わたしは幻魔じゃなくて、人間だってば!」
幻魔が力強く言い返せば、ヴェルザンディもまた、傲然と反論する。
「幻魔は皆そういうのよ!」
「いわないと思う」
「幻魔は幻魔であることを主張するものですよ、ヴェル」
「姉さんもウルズも一々揚げ足取らない!」
「揚げ足って言うかさ……」
「まったく、困ったものです」
ウルズとスクルドが、心底困り果てたような顔をするものだから、幻魔が統魔に助けを求めるような眼差しを向けた。
「……ええと、一体なんなの?」
「おれに聞くなよ」
「彼女たちは、女神だ。そしてヴェルの言うとおり、彼女たちが戦団の超重要機密であることもまた事実だ」
「そんな大切なもの、一般市民に見せて平気なの?」
「きみを徹底的に調べ上げるためには、女神たちの協力を仰ぐのが一番だからだよ」
蒼秀の穏やかな口振りには、さしもの幻魔も安心したようだった。
そうした言動の一つ一つが統魔の神経を逆撫でにし、苛立たせるのだが、それもこれまでと思えばなんとでもなる。
(幻魔であることを証明するからな)
統魔は、これで全てが終わるのだと思っていたし、だからこそ安堵してもいた。いくら蒼秀たちが本荘ルナの味方をしようとも、女神たちが幻魔であると断定すれば、それに従うほかはあるまい。
つまり、幻魔の殲滅である。
それに反対するというのであれば、蒼秀たちが幻魔討滅の任務から外され、別の星将が対応するだけのことだろう。
それで、終わる。
そして、そのためにこそ、女神たちの力を借りることになったのは、医務局での検査を行うことができないと判断されたからだ。医務局でも幻魔が幻魔であることを証明することは難しくはあるまい。その肉体の――魔晶体の結晶構造を解き明かせば良いだけのことだ。
いや、それだけのことならば、統魔にだって不可能ではない。
攻撃すればいい。
それだけで、本荘ルナの姿をした怪物は、本性を現すだろう。人間の肉体とは根本的に作りの異なる魔晶体、その構造が明らかになるのだ。
だが、統魔の部下や上司が彼女の味方についている状態では、困難を極めた。その結果、同士討ちになる可能性が脳裏を過ぎれば、統魔とて殺意の杖を収めるしかないのだ。
作戦司令部も、統魔の判断を支持した。そして、統魔の情報や推察などから中枢深層区画で女神たちによる生体解析を行うことにしたのだ。
女神たちは、人間ではなく、機械だ。超高性能な演算機であり、演算機に仕込まれた人工知能であり、人工知能に搭載された仮装人格なのだ。
仮に、幻魔に機械をも支配する能力があるのだとしても、女神たちを支配することは出来まい。この場に有るのは、ノルンシステムが出力している幻想体に過ぎず、本体は、ここには存在しないのだから。
事実、女神たちが幻魔に支配されていないのは、明白だった。
本荘ルナに支配されたものは、本荘ルナを幻魔として扱わなくなるからだ。ヴェルザンディの発言が、女神たちが支配されていないことを証明している。
本荘ルナの姿をした幻魔が、長い髪を振り乱すようにして口を開く。
「だったら、さっさと調べて頂戴。いつまでも幻魔幻魔っていわれて、不愉快だわ」
「というわけだ、ノルン。女神たちよ」
「……わかりました。では、本荘ルナ様、どうぞこの光の円の中心へ」
三女神は、空中を流れるように移動して、アスガルドの中心から離れた。その中心部の床面に光の円が浮かび上がっている。
神秘的な蒼白い光の円を目の当たりにして、本荘ルナは、統魔を見た。統魔の反応を窺うような眼差しは、しかし、統魔を苛立たせるだけであり、彼は顎でしゃくるようにして光の円に向かうように指示した。
本荘ルナは、むっとすると、肩を怒らせて光の円に進んでいく。
その後ろ姿は、やはり、どう見たところで幻魔そのものだった。しかし、蒼秀も八咫鏡子らも、全く警戒していない。それどころか、統魔と本荘ルナのやり取りを微笑ましいものであるかのように見守っている。
それが、統魔には、苦痛でならない。
幻魔と分かり合うことなどありえないことだ。幻魔は人類の天敵であり、滅ぼすべき存在なのだ。幻魔の存在を許すということは、人類の未来を諦めることに他ならない。
無論、蒼秀たちが支配されているということは理解している。それでも、いや、だからこそ、なのかもしれない。蒼秀たちもまた、統魔同様心底幻魔を憎悪し、幻魔を殲滅することに命を懸けている導士なのだ。その全てが否定され、理不尽に踏みにじられているようなこの現実全てが、不愉快極まるものだった。
「立ったわよ。つぎはどうすればいいわけ?」
「じっとしてて!」
「すぐに終わります」
「安心して」
三女神は、本荘ルナの強い口調にも全く怯むことはなく、彼女を取り囲むように配置についた。三角形を描くような配置である。
女神たちは、両腕を胸の前に掲げた。細くしなやかな腕の先、両手の狭間に宝玉が出現し、宝玉の中に無数の文字列が浮かび上る。宝玉が煌めき、膨大な光が放たれたかと思えば、一条の光線へと収斂していく。
アスガルドの闇が一瞬にして消滅し、光が満ちた。
宝玉から放たれた光線同士が結びつき、光の輪を構築した。光の輪の中を流れる無数の文字列が、膨大な情報量を想像させ、その莫大な量の情報が洪水となって本荘ルナを包み込む。
光が、本荘ルナに照射されたのだ。
そして、本荘ルナ自身から凄まじい量の光が拡散され、アスガルド中に散乱していく。
その光景がなにを意味するのか統魔には全く理解できないし、想像もつかない。原理も不明だったし、理屈もわからない。
だが、なにかとんでもないことが起こっているのではないか、と、思わずにはいられない光景だった。
神秘的で幻想的な情景。
神話の中に紛れ込んでしまったかのような感覚さえ抱く。
やがて、光の乱反射が終わると、アスガルド中に散乱していた光が女神たちの宝玉へと吸い込まれていき、全ての光が宝玉の中へと消えていった。
再び、アスガルドに暗闇が訪れると、女神たちの美貌だけが眩く輝いていた。
そして、その美貌には、困惑が浮かんでいた。