第二百九十話 合宿(九)
満天の星々が、夜の闇を彩っている。
さながら黒い布の上に無数の宝石をちりばめたかのようであり、中でも膨大な光を放つ月が印象的だ。巨大な月が、多量の、しかし淡い光を地上に降り注がせていて、その光の柔らかさは疲れた心身に染み入るようだと黒乃は思うのだ。
合宿の初日が、終わろうとしている。
今日からおよそ一ヶ月の間、この屋敷で過ごすことになるのだ、という認識を改めて持ったのは、寝泊まりするために与えられた部屋で中々寝付けず、夜風にでも当たろうかと部屋を出てからのことだった。
見知らぬ他人の家の中、それも豪邸も豪邸だ。作りそのものは複雑ではないにせよ、黒乃には迷宮のように思えてならなかった。
母屋の構造を全く把握していないからだ。
そんな迷宮をさ迷っているときに遭遇したのが、幸多である。
幸多は、といえば、別に黒乃のように屋敷内を迷走しているわけではなかったらしい。用を足して、部屋に戻ろうとしていたところだったのだ。が、彼は黒乃の話を聞くと、一緒に目的地を探してくれるといったので、黒乃は嬉しくなったものだ。
幸多のように親身になってくれる人間など、そうはいない。
それが黒乃の実感である。
黒乃に明確な目的地などはなかった。ただ、気分転換がしたい、ただそれだけであり、そのために夜風に当たるのはどうだろう、と考えていたのだ。窓を開くだけでは物足りず、さらには兄の眠りを妨げたくなかったこともあって部屋を飛び出したのだが、そんな黒乃の気持ちは、当然、幸多にはよくわからなかった。
ただ、中々寝付けないのだろう、と、思ったのだ。
ここは伊佐那家の本邸である。
魔法の本流にして、名門中の名門たる伊佐那家、その屋敷なのだ。そこで一ヶ月近く過ごすことになるとはいえ、その初日なのだから、緊張とか不安とかそういったものが押し寄せてくるのも道理ではないか。
幸多自身、多少の緊張感を以て、屋敷内を歩いていたのだ。
奏恵などは全然眠れる気がしないから、という理由で、今夜は幸多の部屋で寝るといっていたし、実際、寝台を占拠していた。
やがて二人は、バルコニーに辿り着いた。
本邸の母屋は、三階建ての建物であり、その二階部分の南側にバルコニーがあった。幸多たちの寝泊まりしている部屋があるのも二階である。
バルコニーは広々としていて、開放感があった。
幸多は手近にあった長椅子に腰掛け、黒乃もその隣に座った。
夜中、伊佐那家本邸は、この上なく静かであり、穏やかそのものだった。
遥か頭上には、無数の星々が煌めいていて、吹き抜ける風は緩やかだ。
幸多は大きく伸びをして、ついでにあくびを漏らした。ちらりと、黒乃を見る。黒乃は、長椅子の上で膝を抱えるようにしていて、どこか深刻そうな表情に見えた。
「……まさか、合宿になるなんてね」
幸多が話題を振ると、黒乃は彼に目を向け、その褐色の瞳を見つめた。
「幸多くんは、優しいね」
「そうかな。普通だと思う」
幸多の脳裏に、学校の友人たちの顔が浮かんでは消えた。彼らの優しさに比べれば、自分のそれはいうほどのものでもないと思わざるを得ない。
黒乃には幸多の心情は理解できないが、謙遜しているのだろうと考えて笑った。
「そんなことないよ。ぼくがそう思うんだから」
「そっか」
幸多は、それ以上、黒乃の意見を否定しようとはしなかった。黒乃がそう思っているのだから、彼が幸多を優しいと考えているのだから、それはそれでいいだろう。
多少、こそばゆいと思わざるを得ないが。
しばらくの沈黙があった。
夏の夜。
気温は決して低くないが、暑すぎるということもない。伊佐那家本邸敷地内の温度は、各所に設置された魔機によって適温に調整されているからだ。
黒乃が、膝に顔を埋めながら、いった。
「……ぼくたちは、きっと、見離されたんだと思う」
「見離された……って、誰に?」
「軍団長」
ぼそり、と、黒乃。
幸多には、彼がなぜそんな風な考えになったのか、想像もつかなかった。
九十九兄弟は、第八軍団に所属しており、軍団長は天空地明日良だ。光都事変の英雄、五星杖の一人にして、戦団最高戦力の一人。戦団でも有数の魔法士だ。はっきりした性格だということだが、彼に関する悪い噂を幸多は聞いたことはなかった。
「どうして……そう思うの?」
「思い当たることが多すぎて……主に兄さんのせいなんだけど」
「そうなの?」
「前もいったことあると思うけどさ。ぼくたち兄弟は、四月に入団してからずっと小隊を転々としてたんだ。小隊に配属されては折り合いが悪くなって脱隊して、また別の小隊に配属される……そんな毎日だった」
「あー……」
幸多は、以前、黒乃がそんなようなことをいっていたことを思い出した。
「それもこれも兄さんがすぐに噛みつくからなんだけどさ。でもそれは、兄さんが悪いわけじゃないんだ。本当に、兄さんのせいじゃない」
「黒乃くん、兄さん想いなんだね」
「……この世でたった一人の肉親だからね」
「たった一人……」
「九月機関出身だっていったでしょ。九月機関は、身寄りのない子供達を育てているんだよ。それがまるで悪いことをしているかのように噂されたりもするけどさ」
「なるほど……」
黒乃の口から語られる九月機関の内情というのは、幸多の知る九月機関の情報と余りにも噛み合わないものだ。
九月機関といえば、生命倫理に抵触するような危険な実験を行う研究機関でありながら、同時に戦団と協力関係にある組織だ。そして、九月機関は、優れた導士を多数輩出していることでも知られている。
「ぼくたち兄弟は、九月機関で育った。九月機関という箱庭の中で、外の世界を知ることもなく、育ったんだ。だから、だと想う。兄さんはさ、ぼくのことを護るのに必死なんだ。ぼくがぐずだから、小隊の皆に迷惑をかけてしまう。そのせいで兄さんが怒るんだ。ぼくじゃなくて、皆に、ね」
「……真白くん、優しいね」
「うん。優しいよ。本当に、大好きなんだ。兄さんのこと。でも、ぼくのせいで兄さんまで嫌われるだなんて、嫌なんだ。だからどうにかしたいと想ってたんだけど……」
黒乃は、膝を強く抱きしめながら、いった。その言葉に込められた想いの強さは、聞いている幸多にもしっかりと伝わってきていた。
彼がどれほど真白を愛しているのか。どれだけ強く想っているのか。
幸多の胸に突き刺さるようであり、幸多自身の想いも沸き上がってくるほどだった。
たった一人の兄弟である統魔への想いが、だ。
「きっとさ、軍団長もぼくたち兄弟にお手上げなんだと想う。だから、美由理様に任せることにしたんじゃないかな」
「師匠は、見込みのある導士が選ばれたっていってたじゃないか」
「……そうだね」
黒乃が小さく頷くと、幸多が長椅子から飛び降りた。黒乃に向き直り、笑いかける。その目が煌めいたように見えたのは、月光を浴びたからだろう。
「二人は、選ばれたんだよ。星将直々に指導して貰える機会なんてそうあるものじゃない。弟子であるぼくだって、そう。毎日のように訓練してもらえるわけじゃないんだ。でも、この合宿は違う。師匠自らが面倒を見てくれるんだよ」
黒乃は、幸多の言葉の力強さに目を丸くする。幸多の声が熱を帯び、夜の静寂を切り裂くようだったし、黒乃の沈み込んでいた心を奮い立たせるようだった。
「それはつまり、天空地軍団長が、きみたち兄弟に期待していることの現れなんだよ!」
「……そう……だといいなあ」
「そうだよ、そうに決まってる!」
幸多は、拳を握り締め、断言する。
この合宿に参加しているのは、数多といる下級導士の中から選りすぐられた七人である。義一が選ばれたのは様々な事情もあるのだろうが、それ以外の六人は、直属の軍団長からの指名なのだ。
美由理が言っていた通り、この一ヶ月、徹底的に鍛え上げることによって戦力になることを期待されている人材なのだ。
だからこそ、発奮するべきである、とは、幸多の持論だが。
そんな幸多の意気込みを聞いて、黒乃は、目が覚めるような気分だった。
落ち込んでいた自分があまりにも愚かで、視野が狭く、頭の悪い人間のように思えてならなかった。
そして、幸多の前向きな考え方が光り輝いて見えたのだ。