第二百八十九話 合宿(八)
「ぼくは、どうだったんです?」
訓練を終えるなり、幸多が義一に質問したのは、興味本位からだ。
初日の訓練は、道場の幻創機を用いた幻想空間での美由理との試合だけでは終わらなかった。
幻想訓練である。
幻想空間上では、なんだって自由自在だ。幻想体ならばどれだけ痛めつけても、その痛みを現実に持ち帰ることはなかったし、どれだけ消耗しようともなんの問題もない。力の限り、時間の限り、戦い続けることができる。
魔法士は、精神面や脳神経への負荷が大きいようだが、幸多には、ほぼほぼ関係がない。
特に幻創機・神影と用いているというのもある。
第四開発室が利用している幻創調整機・夢幻の場合は、現実の肉体にも幻想空間上での負荷や消耗が反映されるため、長時間の訓練には全く向かなかったりする。それもこれも、F型兵装の研究開発のために必要なことであるのだが。
幻想訓練では、美由理以外の七人を二組に分けて戦い合ったりもしたし、幻想空間上に再現された幻魔を相手に七人で協力して討伐したりもした。鬼級幻魔リリスの幻想体が投入されると、幸多たちは七人がかりでも為す術もなく全滅したものだった。
そんな訓練を終え、道場を出る頃には、すっかり日も落ちかけていた。
七月ももう終わろうという時期だ。
夏も夏、真夏に近く、気温も高い日々が続いているのだが、伊佐那家本邸の敷地内は、どこにいても涼しかった。
遠く、西の彼方に太陽が沈もうとしていて、真っ赤に燃え上がっている。その赤さは空にまで波及していて、青空までもが炎に飲まれかけているような、そんな空模様が頭上を覆っていた。
「え?」
義一は、幸多の質問の意図がわからず、思わず聞き返した。長時間の訓練を終えたばかりということもあったし、無意識に足が母屋に向かっている最中ということもあっただろう。
「いや、あの、最初、皆のことを視ていたじゃないですか」
「視て……ああ、あれか」
そういえば、と、義一は、幸多が話しかけてきた理由について思い至った。
幸多は、義一が第三因子・真眼を用い、合宿参加者たちの魔素の傾向や性質について調査したことをいっているのだ。
そのとき、義一は、ついぞ幸多には触れなかった。
触れる必要がないと考えていたし、実際、美由理もそのことについてなにも聞いてこなかったから、それで良かったのだろうと義一は考えていた。
が、幸多には、気がかりだったようだ。
義一の真眼には、幸多は、どう映っているのか。
「きみも、無色透明だったよ。その右眼と左前腕以外は、ね」
「そうですか」
「ただし、きみの無色透明は、彼らのそれとは全く違う性質のものだけど」
「……でしょうね」
幸多は、義一からの回答に静かに納得した。元より、聞かされずともなんとはなしに想像できていたことだ。
無色透明なのは、魔素がないからだ。魔素がなければ、その魔素が持つ属性の色が見えるわけもない。完全無能者なのだから、当然だ。道理といっていい。
この身には、魔素は宿らず、故に真眼で以てしても、その色を視ることはできない。
幸多は、右手を夕日に翳し、次に左手を掲げた。燃え盛る太陽の光が手の甲を陰に隠してしまう。当然だが、そこに魔素が流れていたのだとしても、幸多の目に見えるわけもなければ、右手に魔素が流れているはずもない。
そんな幸多の様子を見つる義一の視界には、左前腕と右眼の部分にのみ魔素が渦巻く、不思議な存在が映り込んでいる。
「きみには、一切の魔素がない。それは不思議なことだ。あり得ないことだと、思う。でも、きみは存在していて、生きている。きみは一体、何者なのかな?」
「……義一さん?」
幸多は、義一に視線を戻した。夕日を浴びた義一の顔は、一瞬、呼吸を忘れるくらいに綺麗だった。元より中性的で整った容貌というのもあるのだろうが、夕焼けと金色に輝く瞳が合わさり、より一層美しく、神秘的にさえ思えた。
「呼び捨てでいいよ。一年先に戦団に入ったからって、偉くもなんともないんだからさ」
義一が幸多に向かって微笑した矢先だった。その背を力強く叩かれた。真白である。
「だよなあ、義一!」
「ちょっと、兄さん!」
「んだよ?」
「呼び捨ては失礼だよ……!」
兄の馴れ馴れしさのあまりだろう、戦々恐々といった様子の黒乃が、真白の手を強く引っ張った。
「自分は別に構わないよ。その代わり、こっちからも呼び捨てにさせてもらうけれどね」
「いいぜ」
「……二人がそれでいいなら、まあ……ぼくも構わないけどさ……」
黒乃は、しどろもどろになりながら真白の後ろから幸多の背後へと移動した。真白よりも上背のある幸多のほうが盾にしやすいと判断してのことに違いない。そして、義一よりは幸多の方がまだ仲が良いと考えてくれてもいるのだろう。
内向的なわりにはなかなかしたたかな性格をしているのではないか、と、幸多は思ったが、口には出さなかった。
そんな風に話ながら母屋に向かうと、奏恵が伊佐那家の使用人とともに幸多たちを出迎えてくれた。
奏恵は、合宿期間中、伊佐那家の手伝いをするつもりだという。伊佐那家の人々、特に美由理はそんなことをさせるために招いたのではないと断固として拒否したのだが、奏恵の懇願に根負けにする形となっていた。
奏恵としては、幸多と一緒にいたいという我が儘を通すためだけに伊佐那家に置かせてもらっているというのに、なにもせずになどいられなかったのだろうし、そうした母の気遣いには、幸多も、らしい、としか思わなかった。
奏恵の性格ならばそうならざるを得ない。
訓練を終えた七人は、夕食を前にして、風呂に入って汗を流した。
伊佐那家本邸には、敷地面積に見合うだけ広さの浴場があった。しかも、男性用と女性用の浴場がそれぞれ別個に用意されているという、正に至れり尽くせりといった有り様である。
「さすがは魔法の本流ってかあ」
広々とした白亜の湯船に身を委ねるようにしながら、隆司がいった。満々に満ちた四十度の湯が、心身の疲労を癒やしてくれるようだった。
「豪邸って奴だぜ、こりゃあ」
「すごいよねえ」
九十九兄弟も湯に浸かり、満足げな顔をした。先程までの訓練は、魔法士達にとってはとてつもない消耗を強いるものだったのだが、そうした疲れを完全に取り払ってくれるのではないかと期待できるほどの設備の充実ぶりだった。
華やかな内装は、派手すぎず、かといって寂しすぎもしない、ちょうどいい塩梅といったところである。広々としていて、男五人が湯船に浸かっても狭苦しく感じることもなかったし、十分な空間が確保できていた。
「一つ、いっておくけれど……この屋敷も、この浴場も、あの道場も、全部、麒麟様の趣味ではないからね」
そういって、湯船に顔を並べる男どもを見回したのは、義一である。
「お、おう……」
「そういうつもりでいったわけじゃ……」
九十九兄弟は、義一のどこか凍てつくような眼差しに気づき、湯の温かさを忘れかけたほどだった。
義一は、彼らの反応などつゆ知らず、静かに続けた。
「麒麟様は、地上に伊佐那家のような権力の象徴を作ることを望まなかった。でも、時代がそれを許さなかった。神の存在が否定された世界であっても、人は、拠り所を求めてしまうものだから。縋るもの、頼るものもなく生きていけるほど、人は強くない」
魔法がどれだけ強力であっても、結局の所、人間は人間のままだ。神にはなれず、より強大な力を持つ存在に蹂躙され、滅ぼされかけた。
人類復興には、やはり、強力な象徴がいる。
それが戦団なのだが、それだけでは物足りないから、魔法史に燦然と輝く伊佐那家の名を利用した。そして、立ち上げたのだ。本来、伊佐那家の末席に名を連ねていた程度の存在である麒麟を当主とした、地上本家を。
そして、そんな伊佐那地上本家の将来の当主が、義一なのだ――というようなことを、義一は説明した。しなければならなかった。
「なるほど、いまのうちに義一に媚びときゃ食いっぱぐれないってことか?」
「兄さん……」
「きみたちはどのみち食いっぱぐれるようなことはないと思うけど。合宿に参加したのだって、将来性を期待されてのことだと思うし」
「だよな!」
「兄さん……」
義一の言葉を真に受けてにやりとする真白はともかくとして、なにやら一人肩を落とし、そのまま湯船に沈んでいく黒乃の様子が、幸多には気がかりだった。
が、この場では聞くべきではないのではないか、と考えた幸多は、湯船の底に沈んだ黒乃を引き上げるだけにして、なにも聞かなかった。