第二百八十一話 伊佐那家本邸
伊佐那家は、由緒正しい魔法の名家である。
魔法の本流とも呼ばれているのは、現代における魔法の基礎を作り上げた一族だからだ。
伊佐那家の祖、伊佐那美咲は、始祖魔導師・御昴直次の六人の高弟・六天星の筆頭であり、右腕と呼ばれたほどの高名な魔法士だ。
源流戦争においては常に御昴直次とともにあり、魔人・御昴直久とその高弟・死徒十二星と激闘を繰り広げたことでも知られている。
また、伊佐那美咲は、ネノクニ平坂区にある伊佐那美大社における祭神でもある。
そして、伊佐那美咲の血筋は、ネノクニ統治機構総主の血筋であり、いわばネノクニにおける支配階級といっても過言ではなかった。
そんな伊佐那家の末席に名を連ねていたのが、戦団の副総長・伊佐那麒麟である。
伊佐那家には、代々、男性には義の一字が、女性には美の一字がつけられるという伝統がある。
麒麟は、そのどちらにも当てはまらない。というのも、伊佐那家の末席であり、伊佐那家の跡取りになることが絶対にないからだった。
そんな麒麟が地上奪還部隊に参加し、英雄然とした活躍を果たすことになるというのは、皮肉だったのか、どうか。
「以外と……」
「普通ね……」
幸多と奏恵が全く一致した意見を浮かべたのは、伊佐那家本邸と呼称される建物を目の当たりにしたからだった。
伊佐那家本邸は、葦原市北山区山祇町の南部に位置しているのだが、その建物の外観は拍子抜けするほどに小ざっぱりとしていた。敷地は広く、母屋といえば三階建ての大きな屋敷ではある。が、豪邸というには質素な見た目だったし、どこをとっても豪華さや派手さに欠けていた。
少なくとも、魔法史に燦然と輝く魔法の本流たる名門中の名門、伊佐那家の人々が暮らしている場所とは思えなかった。
母屋を見た最初の印象が、それである。
次に幸多は、黒曜石のような建物だと思った。壁も屋根も黒を基調色としていてるからだ。窓枠などは白かったり、ほかの色が使われたりしているのだが。全体的な印象としては、黒い。
黎明期の魔法士は、黒を好んだという。
そういう意味では、魔法使いの家に相応しい建物といえるのかもしれない。
敷地は、広い。
とてつもなく、広い。
央都開発計画当初に割り当てられたという噂話が本当なのではないかと思えるくらいの敷地面積を誇っていて、その四方を囲う塀も立派だった。当然だが、葦原市の建築基準を満たしてたものであり、塀の高さは三メートルほどだ。圧迫感や威圧感などはなかった。幸多でなくとも余裕で飛び越えられるだろう。
が、塀を跳び越えて侵入したところでどうにもなるまい。
伊佐那家本邸の警備は、極めて厳重だった。
伊佐那家は、魔法の本流であるとともに戦団にとっても極めて重要な立ち位置にある。その本邸を護るために導士を手配するのは、当たり前といえば当たり前だった。
正門前のみならず、あらゆる場所で導士の目が光っている。
彼らは、伊佐那家が育成した魔法士たちであり、戦団に入った後も伊佐那家に帰属しているという。伊佐那家本邸を警護しつつ、近辺で幻魔災害や魔法犯罪が発生した場合には、出動命令が下ることもあるのだ。
警備員たちは、架空の幻獣・麒麟を模した伊佐那家の紋章が入った導衣を着込んでおり、一目で伊佐那家の関係者であるということがわかった。
そんな警備員の一人が、大荷物を抱えた幸多たちを見るやいなや、伊佐那家の人間と連絡を取った。やがて正門が開き、伊佐那家の使用人と思しき若い男が幸多たちを敷地内に招き入れてくれた。
正門を抜けると、広々とした中庭に至る。中庭から母屋までの道程は長く、それだけでも敷地の広さが窺えようというものだった。
青々とした芝生は、夏の光を反射して輝いているようですらあった。
七月も末、日差しは強く、空は晴れ晴れとしていた。雲一つない快晴。故にこそ、気温は高く、幸多も汗ばんでいた。
しかし、奏恵はといえば、汗一つかいていない。冷却魔法のおかげだ。
奏恵は、幸多が幼い頃は、夫・幸星とともに魔法を一切使わないように生活していた。魔法を使わなくても生きていけるのだということを幸多に証明し、幸多が生まれてきたことがなんの間違いでもなければ、失敗などではないということを示すために。
しかし、それはもう不要となった。
幸多が立派に育ち、自立したからだ。
奏恵が魔法を使わなければ、そのほうが幸多の不興を買うだろう。
「皆さん、勢揃いですよ」
母屋への道中、使用人が微笑みかけてきた。若い男で、優しげな風貌が微風を想起させるようだった。長身痩躯を白基調の礼服に包み込んでおり、立ち居振る舞いに品がある。伊佐那家の教育の賜物なのだろうか。
「何人くらい集められたんだろう」
「合宿だったわよね? わたしだけ浮かないかしら」
今更のように奏恵がいうものだから、幸多は笑うほかなかった。
「浮きまくりだと思う」
「そうよねえ」
「なんなら母さんも修行する?」
「それもいいかも」
冗談めかしていったつもりが、奏恵が存外に乗り気になってきたものだから、幸多は慌てなければならなかった。いくら奏恵がかつて凄腕の魔法士だったとはいえ、導士と同じような修行をしてどうなるものでもあるまい。
母屋は、築五十年ものの建物である。
央都の建築基準を満たしているだけあって、古めかしさはない。むしろ、央都開発当時最先端の技術をふんだんに使われているということもあり、耐久性も高ければ、経年劣化も全く見受けられなかった。整備や補修もしっかりおこなっているからでもあるのだろうが。
使用人によって母屋の玄関扉が開かれ、招き入れられる。
これまた広い玄関で靴を脱ぎ、上品そうな上履きに足を通す。
一般市民が上流階級の屋敷に間違って足を踏み入れてしまったような場違いさを感じるのは、外観の質素さからは想像もつかないほどの内装の高級感に圧倒されたからかもしれない。
幸多は、奏恵を顔を見合わせたりしつつ、使用人に導かれるまま、母屋の奥へと進んでいく。
母屋の一階を進む。長い廊下を曲がり、さらに歩いて行くと中庭が見えた。中庭には小さな池があり、水面が陽光を反射して輝いている。波紋は、風のせいか、池の住民のせいか。
さらに進み、奥まった一室に案内された。
「いましばらく、ここでお待ちください。準備が整い次第、美由理様が参られますので」
使用人は、扉を開くなり、そういって微笑みかけてきた。
「は、はい」
「なんだか緊張するわね」
「母さんは緊張しなくていいけど」
「しないわけないでしょ」
奏恵は、こんな状況でも口の減らない幸多に憮然とした。誰がこんな子に育てたのかといいたくなったが、自分以外の誰でもないことに気づき、口を噤む。
「なんだなんだあ? 保護者同伴かよ」
室内から飛び込んできた悪態は、幸多にとって聞き知った声だったということもあれば、からかい半分冗談半分といった空気感もあり、不快感を覚えることはなかった。奏恵がどう思ったかは、わからないが。
幸多は、室内に足を踏み入れるなり、長椅子の背もたれに体を沈めるようにしている九十九真白を見た。その隣には、九十九黒乃の姿がある。
「兄さん、失礼だよ」
「ただの冗談だろ、そう目くじら立てんなっての」
「もう……兄さんの口の悪さも叩き直してもらうよ……」
「はっ、できるもんならやってみろってんだ」
相変わらずの口論ばかりしている九十九兄弟の様子こそ微笑ましいものだったが、幸多は驚きを禁じ得なかった。
九十九兄弟は、第八軍団の所属だからだ。
美由理は第七軍団長であり、第八軍団の導士の面倒まで見る必要はない。無論、戦団を一つの組織として見るのであれば、他軍導士の指導をするというのも十二分にあり得る話ではあったし、総合訓練所などでは他軍団の低位導士を指導する高位導士の姿もよく見られることなのだが。
「二人も、合宿に参加するんだ?」
「おうよ」
「まあ……なんていうか、さ。後で話すよ」
「あ、うん。わかった」
背もたれに埋まってふんぞり返っている真白とは異なり、黒乃はバツの悪そうな顔を向けてきたので、幸多も後で事情を聞くことにした。
室内には、九十九兄弟以外にも合宿参加者たちが勢揃いしている。黒乃は、彼らにまで説明したくないのかもしれない。
「あれ、皆代くんじゃない」
「大丈夫なの? 昨日の今日でしょ?」
「おれはそれより親子連れっていうのが気になるぜ」
などと次々と話しかけてきたのは、金田朝子、友美の姉妹と、菖蒲坂隆司である。幸多と対抗戦を争い、優秀選手に選ばれた結果、同期入団した導士たち。いずれも胸元に灯光級三位の星印が輝いていて、九十九兄弟と同じ階級であることを示していた。
そこで、幸多は、この室内に同期でただ一人、草薙真がいないことに気づくとともに、その理由にも察しがついた。
真は、ついこの間、灯光級一位に昇級しており、この合宿にはそぐわないと判断されたのだろう。実力、実績、いずれも同期の中で頭抜けている。
階級だけならば、幸多の方が上なのだが、いざというときの冷静な判断力や対応力は、真に大きく軍配が上がるといわれれば、否定しようがない。
幸多が、美由理の主催する合宿に参加することになったのは、導士に必要不可欠な冷静さ、判断力、対応力が足りないからだ。
そして、この室内にいるほとんど全員が、そうなのだろう、と、幸多は、広い応接間にいる導士たちの様子を見て、思ったのだった。
「ぼくはまあ、大丈夫だと思う。母さんのことは気にしないでくれると嬉しいかな」
「気にしないでって言われても……ねえ?」
「気になる気になる」
金田姉妹までもが奏恵のことを気にしだしたので、幸多は心底困った。どのように説明すると一番良いのだろうか。
すると、奏恵が幸多の隣に進み出て、室内にいる導士たちに向かって頭を下げた。
「幸多の母の皆代奏恵です。皆さんの合宿の邪魔にはならないように気をつけますので、何卒、よろしくお願いします」
「あ、ああ、これはどうも、ご丁寧に。こちらこそ、よろしくお願いします」
などと、居住まいを正したのは、菖蒲坂隆司だ。金田姉妹、九十九兄弟は困惑を隠せないといった様子だったが。
ただ一人、このなんともいえない微妙な空気に馴染めない人物がいた。
「なんていうか……賑やかだな」
小さくつぶやいたのは、応接間の片隅で誰も寄せ付けないように座っていた伊佐那義一である。幸多だけは彼の囁くような声を聞き逃さなかった。
「あ、伊佐那先輩」
「義一でいいよ。伊佐那呼びは反応する人間が多すぎるからさ」
義一は、幸多の呼びかけに苦笑するほかなかった。幸多には屈託がなく、嫌味がない。無意識の反射だろう。
だからこそ、笑ってしまうのだ。