第二十七話 リヴァイアサン
リヴァイアサン。
獣級上位に類別される幻魔である。
その巨躯は、獣級上位ベヘモスと並び超巨大質量などとも呼ばれるほどの圧倒的な質量を誇り、他の追随を許さなかった。
とにかく、とてつもなく巨大だった。
全長百メートルは優に超えるだろうという巨躯は、極めて長大であり、その全身が魔晶体に覆われている。外骨格を形成する結晶は、鱗のように常に煌めていた。
一見するとこの上なく巨大な海蛇のようであるが、龍のようでもある。凶悪な面構えは、幻魔らしいといえばらしいだろう。獰猛で凶悪こそ、人類の天敵・幻魔の代名詞だ。
そして、その巨体もまた、リヴァイアサンの名に恥じない。リヴァイアサンとは、伝説上の怪物であり、そこから付けられた呼称なのだ。
さながら、天も地も、すべてのものを一口で飲み込んでしまうのではないかと思えるほどの巨躯。
とても未来河の河底に潜んでいたとは思えなかったし、海からここまで河を遡ってきたとも考えられなかった。
あれほどの巨躯が隠れられるほどの深さは、未来河にはないのだ。
ならば、どうやってリヴァイアサンは現れたのか。
などと、冷静に考えている場合ではなかった。
幸多たちの周囲では、恐慌が起きていた。豪雨のように降り注いだ水飛沫に打たれ、弾かれた人達もいれば、ずぶ濡れになった人達もいる。幸多たちも随分と水を浴びた。
英霊祭の浮かれたお祭り気分は、一瞬にして恐怖と緊張、絶望と失意によって塗り潰されてしまった。
当たり前だ。
獣級上位とはいえ、リヴァイアサンは妖級下位に匹敵する力を持つといわれている。しかもあれだけの質量だ。ぶつかるだけで即死級の衝撃を受けるだろうし、押し潰されれば助かりようがない。
そして、リヴァイアサンは、万世橋そのものを押し潰さんとしているかの如く、空中高く舞い上がっていた。大量の水飛沫とともに月光に照らされる怪物。超巨大な海蛇の化け物とでもいうべきそれは、全身を覆う魔晶体から大量の水気を放出しており、さながら巨大な水流そのものと化している。
それが上空に在って、橋に狙いを定めているのだ。
橋周辺に集まっていた市民の間で、膨大な恐怖と混乱が巻き起こったのは当然だった。
幸多は、逃げ惑う観衆の勢いに飲まれ懸けながら、圭悟たちの無事を確認した。
リヴァイアサンは、上空に浮かんだままだ。全身から噴き出した大量の水気が、さながら津波となって地上に襲いかかってくる。その絶望的といってもいい光景を見上げている幸多だったが、自分たちのいる土手の上も、幻魔の攻撃範囲内なのは疑いようがなかった。
逃げようがない。
超巨大質量による圧倒的攻撃範囲。
幸多は、この中で一番体の小さな真弥を庇ったが、意味があったのかどうか。
逃げ場はなく、隠れる場所もない。避難所に向かうには時間がなさすぎる上、逃げ惑う人々が波のように押し寄せ、幸多たちを飲み込もうとしていた。
上空から覆い被さるような大津波が、なにもかもを暗く塗り潰していく。
そのとき、橋の下の待機所から無数の光が舞い上がった。
まるで流星のように万世橋上空に至ったのは、もちろん、戦団の導士たちだ。その先頭には統魔率いる皆代小隊がいる。
導士たちは、杖を振り上げ、何事かを叫んだ。大津波と導士たちの間に長大な光の壁が出現する。幾重にも張り巡らされた光の壁は、リヴァイアサンの大津波を空中で押し止めることに成功し、さらに押し返していった。
水に形はないように、津波にも形はない。魔法の防壁に押し包まれるようにして変形した津波は、瀑布のように、未来河に降り注ぐ。未来河が一時的に増水し、氾濫するのではないかというほどの水量であり、河川敷の様子が危ぶまれた。
が、どうやらその心配は不要だった。
一目見れば、河川敷周辺にも魔法壁が構築されていることがわかったからだ。もちろん、導士たちが魔法を使っているのだ。増水による氾濫を見越したものであり、それをあの一瞬で指示し、手配したのは、さすが戦団の手腕といわざるをえまい。
大津波が一筋の滝となって未来河の一部と成り果てると、上空のリヴァイアサンだけが残った。
とはいえ、超巨大質量は、夜空を覆い隠すほどの巨躯であり、未だ地上の混乱は収まっていない。
導士たちの対応の早さ、完璧さによって冷静さを取り戻す市民もいなくはないが、崩壊してしまった戦線を立て直すのが困難なように、起きてしまった混乱を収めるのは並大抵のことではないのだ。
それら市民の反応は、戦団を信頼していないから起きたことではない。
あの場に現れたのが霊級幻魔や下位の獣級幻魔数体程度ならば、これほどまでの混沌とした惨状にはならなかっただろうし、導士たちの登場を待ち侘びたかもしれない。
だが、現実に現れたのは、リヴァイアサンである。獣級の中でも上位に位置し、妖級下位に匹敵する力を持つとされる、超巨大質量。
その圧倒的としか言いようのない巨躯が突如河底から現れ、空を覆い隠したのだ。
その心理的恐怖たるや、凄まじいとしか言い様なかった。
幸多ですら、身が竦んだ。
イフリートに睨まれたとき以上の恐怖心が、幸多の全身を縛り付けたのだ。人間の遺伝子に刻まれた根源的恐怖。幻魔への本能的な嫌悪感、忌避感は、どうしようもない。
一般市民ならなおさらだ。
そんな恐怖に抗い、立ち向かう導士たちの勇敢さは、やはり人類を導くものに相応しいものといっていいのだろう。
リヴァイアサンの無数の目が赤黒く輝き、大きすぎる口が開いた。咆哮が天地にこだまし、夜の葦原市を震撼させる。津波攻撃が妨げられたことに対する怒りが、その巨体を震わせ、さらに莫大な水気を迸らせていく。
今度は津波ではなく、大量の水塊となった。それらの水塊は人体を遥かに上回る大きさであり、直撃すれば人体など容易く弾け飛ぶに違いなかった。
統魔たちは、しかし、怯むことがない。
上空で散開した導士たちは、一斉に攻型魔法を放った。
攻型魔法とは、戦団で用いられる魔法用語であり、攻撃型の魔法という程度の意味だ。同様に防御型の魔法を防型魔法、補助型の魔法を補型魔法と呼ぶ。治癒魔法は、補型魔法に含まれる。
攻型魔法の一斉掃射により、水塊の尽くが破壊され、粉砕され、吹き飛ばされていく。無数の水塊がさらに細かい水の粒子となって飛散し、ぶつかり合って激しく破裂する。
魔法と水の響宴とでもいうべき光景は、しばらく続いた。
リヴァイアサンのそれは攻防一体の行動なのだろう。莫大な量の水気によって作り出した無数の水塊は、攻撃手段であるとともにリヴァイアサンを守る十重二十重の防壁となっている。
リヴァイアサンに攻撃を通すには、水塊の防御陣をどうにかしなければならない。あるいは、水塊による被害を黙殺して、リヴァイアサンを攻撃するか。
「そうするか?」
「人気、落ちますよ」
「人気はどうでもいい。必要なのは、いますぐ奴を処理する力だ」
「じゃあ行ってくださいよ、たいちょー。とっととぶっ倒しちゃって-」
暢気そのものとしか言いようのない香織の反応は、彼女が統魔を信頼しているからこそだったし、その点に関して字がいうべきこともなかった。
「なら、任せた」
統魔は、隊員たちに水塊対策を一任すると、みずからはリヴァイアサンを倒すべく動いた。誕生しては破壊される無数の水塊と、それによって生じる数多の水飛沫、その狭間を潜り抜けるようにして高速飛行し、ついには水の領域を突破する。
遥か上空、超巨大質量の頭部を眼下に捉えるほどの高度。
星と月の光を独り占めにする大海獣は、ただひたすらに巨大な海蛇のようでありながら、よく見ればまったく異なる怪物であることがわかる。全身を覆う外骨格は、常に魔力を帯び、輝いているように見える。そして、頭部には無数の目が蠢いており、そのいくつかが統魔を捉えた。
水の壁が統魔とリヴァイアサンの狭間に聳え立つ。身を守るためだ。
「でかい図体して、せこいやり口だ」
統魔は、リヴァイアサンを見据えたまま、右手に持った杖を翳した。杖の先端に左手を添えるようにして、魔力を集中する。既に魔力は十分な量を練成している。必要なのは、想像力。リヴァイアサンの巨躯を徹底的に破壊し、粉砕し、撃滅するに足るだけの想像を巡らせ、形にする。唱える。
「光渦陣!」
杖を振り下ろし、統魔が魔法を発動させた、そのときだった。
統魔は、確かに見た。
上天から降り注いだ大量の光線が、リヴァイアサンの巨躯、その全身を徹底的に破壊していく光景を目の辺りにしたのだ。
統魔の発動した魔法が莫大な光の渦を呼び、リヴァイアサンの巨躯を飲み込む、その最中ですら、光の雨は止まなかった。統魔の生み出した光の奔流が大海獣の全身をすり潰していく間もずっと、光の雨が降っていた。リヴァイアサンの肉体を粉々に打ち砕き、二度と元に戻らせないように、とでもいわんばかりだった。
「おおうっ、凄まじいっ、さすがはたいっちょ! 弟くんにいいところ見せたいもんねー!」
香織が茶化してきたのは、勝敗が決したからだ。もはや水塊の生成は止まり、被害の拡大を恐れる心配はなくなった。
「いやはや、いつも以上だな」
「さすがは統魔くんだなあ」
香織同様、枝連も剣も統魔の魔法に感心するだけだったが、字だけは怪訝な顔をしていた。
「隊長、どういう……?」
「気づいたか」
さすがは字だ、と、統魔は思った。
統魔の魔法を完璧に把握しているからこそ、字は違和感を持ったのだろう。光渦陣は、光の渦で飲み込み、破壊する魔法だ。だが、いままさにリヴァイアサンの巨躯を破壊しているのは、光の雨と渦だった。
統魔には、光の雨を降らせる魔法もあり、香織たちには、その二つの魔法を組み合わせたように思われたのかもしれない。
そう思ってもおかしくはなかった。が、字のように違和感を持つものもいる。
やがて、統魔は、光の雨の魔法の出所と思しきものを月光の下に発見した。
遥か上空、こちらを見下ろすようにして、それは浮かんでいた。
一対の翼を持ち、頭上に光の輪を戴く、人間によく似た姿をした化け物。天使のような、幻魔。
「……あれか」
統魔は、その天使がこちらをまったく見ていないことに気づき、訝しんだ。
幻魔が幻魔を攻撃すること、それ自体は別段珍しいことではない。極めてありふれた状況であり、事象だ。どこにでもあり、これまで数え切れないほど確認されてきたことだ。
だが、大量の人間を前にして一切手出しをしてこないというのは、通常、考えられることではない。
天使の幻魔が、掲げていた手を下ろした。
光の雨が止んだ。
リヴァイアサンの巨躯が、崩落を始めていた。
リヴァイアサンの空を覆うほどの巨躯が敢えなく崩壊していく光景は、凄まじいとしかいえず、それまで逃げ惑っていた市民も、呆然とするほかないといった有り様だった。
だれもがその強力無比な魔法の威力には、口をあんぐりと開けるしかなかった。
しかし、幸多だけは、違和感を覚えていた。統魔の魔法に関して、幸多はだれよりもよく知っているつもりだった。
統魔がいまも使っている魔法のほとんどは、彼が小学生時代に考えた魔法の発展系だからだ。子供の頃は、統魔が考えた魔法の実験台にされることが多かった。そのことで統魔が両親に怒られることが何度もあったことも覚えている。
たとえ頑丈な兄弟が相手とはいえ、攻撃魔法を使うべきではないというのは、当然の話だろう。
とはいえ、そんな幸多だからこそ、リヴァイアサンを討ち斃した魔法に違和感を持ったのだが。
あれは、本当に統魔の魔法なのだろうか。
「あ、ありがと、皆代くん」
「ううん、気にしないで」
逃げ惑う市民に押し潰されないように庇っていた真弥を解放する。同様に、圭悟は紗江子を庇っていた。体格を考えれば、自然とそうなる。
蘭はといえば、圭悟にしがみついていたようだ。
幸多は、上空の統魔を見遣った。
統魔は、どこか遠くを見ている。
その視線の先には、月があった。
(月?)
そういえば、と、幸多は月に目を凝らした。すると、月光の中にわずかに浮かぶ輪郭があった。人の形によく似ていながらも明確に異なる姿形。想像上の天使をそのまま出力したような、そんな姿の幻魔。一対の翼と光の輪は、まさに天使という以外にないだろう。
そしてその天使こそ、幸多が月に感じていた異物感の正体に違いなかった。
その違和感は、リヴァイアサンが現れる直前に抱いたものだ。
つまり、そのときから天使の幻魔はいたということになるのだが、果たして、本当にそうなのかは幸多にはわかりようがなかった。
そして、だから、天使の幻魔が姿を消す様を見届けて、深く考えないようにした。
地上の混乱は、ゆっくりとだが、確実に収まろうとしていた。
導士たちの活躍に賞賛の声を上げるもの、声援を送るもの、嬌声を上げるものなど、様々な声が英霊祭の夜を飾っていく。
だれもが幻魔災害の存在する日常に慣れている。
これが央都で生きるということだからだ。




