第二百七十八話 引っ越し
奏恵が、天風荘に移り住むことに決めたのは、つい二日前のことだという。
幸多たちの実家は、水穂市山辺町にあり、奏恵は今日までその実家で一人で住んでいた。いくら様々な想い出がある家だからといって、一人で暮らしていくには広すぎるということもあり、幸多が家を出てからというもの、ずっと何処かに移住するべきではないかと考えていたらしい。
今回の事件が起きたのは、奏恵が実家に戻ることも視野に入れつつ移住先を模索していた矢先のことだった。
そして、一向に目覚める気配のない幸多を見守っている内に、絶望的な未来を想像してしまった。
つまり、幸多と統魔を、最愛の息子たちを失う未来だ。
戦団戦務局戦闘部は、戦団の中でも特に危険性の高い部署だ。導士たちは常日頃、死と隣り合わせの任務を行っている。いつ命を落としてもおかしくなかったし、事実、幸多は死にかけていた。意識不明の状態が五日以上続いていたのだ。
奏恵は、本心では、幸多と統魔に戦団を退職するようにいいたかった。
覚悟していたはずだ。理解していたはずだ。納得していたはずだ――そう心に言い聞かせて、その言葉だけは飲み込んだ。
けれども、暗い未来の想像が沸き上がってくるのを抑えることが出来なかった。
幸多の寝顔の安らかさとは裏腹に、その姿は重傷そのものだった。左腕を失い、右眼を奪われていた。それが義眼、義肢によって補われるのだということを理解していても、痛々しいことに違いはない。
もっと酷い状態になっていてもおかしくなかったし、そこに横たわっているのが亡骸だったのだとしても、なんら不思議ではなかったのだ。
奏恵は、愛する我が子たちと一秒でも長くいられるようにと考え、統魔に相談した。そして、天風荘で一緒に暮らすことにしたのである。
その結果、幸多は部屋を追い出され、統魔と同室になってしまったというわけだ。
「そこは別に問題ないけどさ」
「まあな」
統魔は、自室に運び込んだ状態で放置したままの幸多の私物を眺めながら、幸多の意見に頷いた。
そもそもの話、統魔と幸多がこの家にいる時間というのは、限りなく少ない。任務の時間帯はばらばらであり、家に一緒に居る時間も限られている。休日であっても、一日中家にいるということも、あまりなかった。
統魔が天風荘を選んだのは、戦団本部に近いからという理由であり、間取り等が気に入ったからというものではなかった。
雨露を凌げればどんな家でも問題ない、というくらいの認識しかなかった。
「家は、どうするのさ?」
「そうなのよねえ。そこが問題なの。どうしようかしら?」
「考えなしに飛び出してくるから」
「だって、仕方ないじゃない」
「心配性だなあ」
「よくいえるな」
「本当よ」
「うう」
統魔と奏恵に詰られるような格好になり、幸多は、バツの悪い顔になった。ぐうの音も出ないとは、このことだろう。
とはいえ、これはこれで悪くない、とも思っていた。
幸多は、一人暮らしを始めるようになってからというもの、ずっと奏恵のことが心配だったのだ。
中学時代は、統魔こそいなかったものの、幸多が一緒に暮らしていたからなんの心配もいらなかった。しかし、この四月から、幸多も家を飛び出し、奏恵は一人で暮らすことになってしまった。奏恵は熟練の魔法士であり、どんな問題にも対処できるとは思うのだが、それでも一人は一人だ。心配するのも当然だった。
統魔が一緒ならば、そうした不安も消し飛ぶ。
「で、さっきからなにしてんだ?」
統魔が幸多に尋ねたのは、彼の私物を適当にぶち込んだ箱の中を探っていたからだ。
「見てわからない? 必要な荷物を整理中なんだけど」
「整理中なのは、わかる。必要な荷物って、なにに必要なんだ?」
「引っ越し」
「はあ?」
「引っ越しって、どういうことなの……?」
幸多の予期せぬ返事には、統魔と奏恵は目を見合わせた。
幸多は、私物が雑然と放り込まれたいくつもの箱の中から数日分の着替えなどを引っ張りだしながら、ほかに必要なものはないかと考えていく。
「今回の件でさ、師匠にこっぴどく叱られたんだよね」
「そりゃそうだ」
「自業自得ね。でも、美由理様がちゃんと叱ってくれる方でよかったわ」
統魔は当たり前のことだと思ったし、奏恵もなんだか心の底から安堵する気分だった。あの伊佐那美由理が幸多の師匠になったときには驚愕したものの、美由理ほどの導士ならば幸多を正しく導いてくれるだろうという安心感もあった。
実際、美由理の元で、幸多はめきめきと頭角を現していった。
いまや央都でその名を知らないものがいないほどの有名人になっているのは、美由理の指導の賜物だろう。
そんな美由理からしても、今回の幸多の暴走は予期せぬものだっただろうし、だからこそ、幸多を叱責してくれたに違いない。
生きて帰ってこられたのだからそれでよし、とはならなかったのだ。
そうした考え方には、親として信頼を置くことができる。
幸多は、箱の中から取りだした荷袋に数日分の着替えを詰め込みながら、いった。
「でさ、ぼくを徹底的に鍛え直すって言い出したんだ」
「それはいいことだな。おれも師匠に鍛え直されて、いまがある」
統魔の脳裏では、入団直後の出来事が閃光のように駆け抜けた。麒麟寺蒼秀が統魔を弟子に取ってくれたことは、幸運だっただろう。
統魔は、星央魔導院を飛び級かつ首席で卒業したこともあり、調子に乗りまくっていた。己の才能と実力に自惚れ、戦団でもすぐに昇級できるだろうと高をくくっていた。
蒼秀は、そんな幸多の鼻っ柱を徹底的に叩き潰し、折りに折ってくれた。星将の圧倒的な力を見せつけ、統魔の自尊心や驕り高ぶりを蹂躙し尽くしてくれたのだ。
そのおかげもあって、統魔は己の力量を正確に把握することが出来るようになったし、自惚れることもなくなった。他者を見下すこともなくなり、自分が一番だという愚かな思い込みも消えて失せた。
全ては、師匠のおかげである。
「そうね。でもそれが引っ越しにどう繋がるのかしら」
「師匠の元で一ヶ月くらい、合宿することになったんだ」
「師匠の元ってことは、伊佐那家の本邸か?」
「うん」
「合宿ということは、幸多以外にもいるの? 美由理様に鍛え直される導士さん」
「そうみたい。詳しいことは聞いてないけど。まあ、八月中は家を空けることになるね」
幸多は、ようやく荷袋に必要なものを詰め込むことができて、安堵した。必要なものといっても、主に着替えくらいのものだ。あとは、携帯端末と転身機があればどうとでもなる。
「……なんてこった」
「どったの?」
「おれ、八月は衛星任務だ。おれも家を空けることになる」
「ええ……」
幸多は、憮然とする統魔とともにその目線を母に向けた。奏恵こそ、茫然としている。
「母さん、結局ひとりぼっちになっちゃうの?」
奏恵がこの上なく悲しそうにつぶやいたので、幸多は急いで携帯端末を取り出し、美由理に連絡を取った。
美由理が即座に返事をくれたので、幸多は事情を説明した。すると、
「母さんも一緒にくればいい、って、師匠が」
「ええ!?」
「そりゃあ、いい。それならおれも安心だ」
統魔は、驚愕の余り放心状態の母を横目に見て、それから幸多に視線を戻した。幸多はにこやかに笑っている。師匠の心遣いが嬉しいのだろうし、統魔も、伊佐那美由理の対応に感謝したい気分だった。
伊佐那家本邸は、この央都の何処よりも安全な場所の一つといわれる。伊佐那家は魔法の本流にして、戦団にとっても重要な存在だ。その警護は厳重にして綿密であり、優秀な導士が手配されているといわれている。
その実情はともかくとして、そう噂されるくらいの警備によって護られているのは、確かだ。
奏恵をここに放置しておくよりは、余程いい。
奏恵にしてみれば、混乱するほかないだろうし、申し訳なさで一杯になるのも無理からぬことだが。
「良い師匠だな」
「うん、とっても!」
幸多は、統魔が笑いかけてきたものだから、満面の笑みで頷き返した。
弟子想いの師匠とは、まさに美由理のような人物をいうのだろう。