第二百七十七話 救い
奏恵がこの家にいた理由は、至極単純かつ明快だ。
幸多を看病するためである。
幸多は、天輪スキャンダル以来、一週間も意識不明の重体だったのだ。
奏恵がその事実を知らされ、戦団本部医療棟に入ることを許可されたのは、搬送されてから二日後のことだった。それから五日間、毎日のように戦団本部の医療棟を訪れては、幸多のことを見守り続けていた。
天風荘は、戦団本部から程近い場所に位置しており。兵舎での集団生活は御免被りたいが、戦団本部の総合訓練所を利用したい統魔にとって極めて都合の良い立地だった。
そして、だからこそ、奏恵もこの家に寝泊まりしながら、医療棟に通っていたのだ。
さすがに医療棟で寝泊まりまでは出来なかった。
戦団に所属する統魔ならば、ともかく。
「随分遅かったな。どうせまた訓練してたんだろ?」
統魔が自分の部屋から顔だけを覗かせて、幸多にいった。すると、奏恵が目を丸くする。
「まあ、目覚めたばっかりなのに?」
「そういう奴なんだよ、こいつ。母さんだってわかってるはずだろ」
「それは……そうだけれど。母さん、感心しないな」
奏恵の心配そうな目に見つめられて、幸多は、言葉を詰まらせた。玄関で靴を脱ぎ、室内に入る。背負っていた鞄を手に取ると、奏恵に奪われた。怒っているような、困っているような、そんな母の顔は、子供の頃から数えきれないくらいに見ていて、見慣れたものだった。だからといって、罪悪感が生まれないわけではない。
ちくりと、胸が痛んだ。
「う……でも、その、遅くなったのは、訓練のせいだけじゃないんだけど」
「訓練もしたんでしょ?」
「……はい」
「幸多。あなたが戦闘部の導士として命を懸けて戦うことには反対しないわ。それがあなたたちの夢だったものね。でも、だからといって、どれだけ無茶をしてもいいってわけではないはずよ」
奏恵は、心の底から幸多の身を案じ、だからこそ強い口調で言うのだ。
「今回のことだって、そう。あなたは、すぐに頭に血が上って、冷静に判断が出来なくなっているんじゃない?」
「そりゃあ……」
統魔までもが気まずくなってしまったのは、当然といえば当然のことだった。統魔も、幸多と同じだからだ。幸多を目の前で傷つけられたとき、正常に判断出来なくなっていた。冷静さを欠き、感情の激発に身を委ね、暴走した。
そうした事実があるから、幸多のことを責められないし、奏恵の説教を自分のことのように受け取ってしまう。
おそらく、同じ現場にいたのならば、統魔も同じことをしていたに違いなかった。
サタンが現れたのだ。
感情が爆発するのも無理からぬことだ、と、統魔は思っていた。
そしてそれは、奏恵も理解していることだった。幸多の身になにが起きたのか、奏恵は、戦団の導士から詳細を聞いている。
あの日、あの時、あの場所で、一体なにが起き、どうして幸多があれほどの重傷を負う羽目になってしまったのか。
その全てを事細かに説明してくれたのは、戦団が導士の家族に対して真摯であろうとしてくれているからなのだろうが。
「……父さんの命を奪った幻魔が目の前に現れた。だから、飛び出してしまった――なんていう言い訳が通用するほど現実は優しくないし、甘くもない。そんなことわかりきっているでしょうし、身を以て理解したわよね。あなたがいまこうして生きているのは、運が良かっただけなのよ」
「……うん。わかってる」
「わかってるのなら……」
「わかってるから、だよ」
幸多は、奏恵の目を見つめた。真っ直ぐに我が子を見つめ、一切逸らそうとしない母の眼差しは、力強く、愛に満ちている。その愛情の深さは、幸星を失ってからの六年、たった一人で幸多と統魔を育ててきたという事実に裏打ちされていて、幸多の胸を打つのだ。抗いたくない。否定したくない。全てを受け入れ、認め、抱きしめておきたい。
けれども、それはできない。
「今回のことで、よくわかったよ。ぼくには、なにもかも足りないんだ。能力も、経験も、判断力も、冷静さも、なにもかもが圧倒的に足りていないんだ。もっと強くなりたいし、ならないといけない。でないと、父さんの敵を討てないから」
幸多は、心の底からの想いを伝えた。
サタンの力は、絶大だ。
幸多は、サタンのみならず、その配下の鬼級幻魔たちを前にして、なにもできなかった。為す術もなく打ちのめされた。抵抗もできなければ、一矢報いることすらできなかった。
力が欲しい、と、想った。
幸多が魔法士ならば、魔法の技量を磨き抜けばいい。魔法士としての技量を磨き上げ、魔法の質を高め、研鑽と鍛錬を積めばいい。
だが、幸多は、魔法不能者であり、完全無能者だ。魔法は使えず、肉体を鍛えることしか出来ない。そしてそんなものが通用する相手ではないことは、火を見るより明らかだ。
肉体だけを鍛えたところで、どうにもならない。
F型兵装という外付けの力がなければなにもできなのが、幸多の実情なのだ。
それでも、居ても立っても居られないから、訓練に勤しむしかない。
「父さんの敵……」
奏恵は、幸多の言葉を反芻するようにつぶやいて、はっとする。幸多の褐色の瞳、その奥底に燻る火を見た気がした。それは怒りだ。限りない怒りが、幸多を突き動かしている。
そうもなるだろう、と、奏恵は想う。
幸多にせよ、統魔にせよ、そして奏恵自身にせよ、だ。
六年前、幸多と統魔の誕生日に起きた悲劇は、皆代家全員の心に深い傷を刻みつけた。一生拭いきれない心の傷。その傷痕の深さたるや、どうしようとも埋めようがなく、ふとした瞬間に疼き、悲鳴を上げる。それは慟哭となって心の中を掻き乱し、気づくと、涙が零れていることすらあった。
それでも、奏恵はまだいいほうだ。幸多と統魔がいた。最愛の子供たち。その世話に翻弄されている時間、その痛みと喪失感、絶望から逃れることができた。
救い。
奏恵にとって、幸多と統魔の存在は、救いそのものだったのだ。
だからだろう。
奏恵は、想わず幸多の体を抱きしめた。
「母さん?」
「わたしは、あなたたちまで失いたくないのよ」
「……うん。わかってるよ」
幸多は、母の抱擁に全霊の愛情を実感しながら、いった。いわれなくなって、そんなことはわかっている。
けれども、と、幸多は、統魔を一瞥した。統魔も、困ったような顔をして、頭の後ろで腕組みをしている。
「でも、ぼくも統魔も導士だから……」
「ええ。わかってる。わかってるわ」
奏恵は、幸多を抱きしめていた力を緩めると、我が子の顔をまじまじと見つめた。つい一ヶ月前まであどけなさが前面に押し出されていたような幸多の顔は、しかし、いまや導士としての覚悟と責任を帯びていた。
覚悟と責任。
導士は、央都守護のため、命を懸けるものだ。央都市民のためならば命を投げ出すことも厭わず、幻魔殲滅のために命を燃やし、己が全てを灼き尽くすことも構わない。
それが戦団の導士という存在だ。
統魔と幸多が導士になることを許可したのは、奏恵自身である。
奏恵には、認めないという選択肢もあったはずだ。だが、それはできなかった。統魔と幸多の夢を、幻魔への復讐心を発端とする絶望的な夢を、止めることが出来なかった。
こうなることがわかっていたというのに。
こんな気持ちになることくらい、わかりきっていたというのに。
「でも、約束して。もう二度と、今回みたいな無茶だけはしないと」
「うん。わかったよ」
幸多は、奏恵の懇願に痛みすら覚えて、頷いた。それは、奏恵だけに言われたことではない。目覚めて以来、散々いわれてきたことだ。師匠・伊佐那美由理にも言われたし、妻鹿愛にも、日岡イリアにも、神木神威ら護法院にも、戦団上層部にも、いわれている。
だから、というわけではないが、今後はあんなことにはならない、と、約束できた。
奏恵も、幸多が目を逸らさず約束してくれたことで、ようやく安心することができたのだ。
そこで、ようやく、幸多は、自分の部屋だったはずの室内の様子が様変わりしていることに気づいた。室内から幸多の私物がなくなっていたのだ。
「あれ?」
「ああ、その部屋な。母さんの部屋になったぞ」
「母さん、一緒に住むことにしたから」
幸多の疑問に対する回答は、統魔と奏恵が瞬時に出した。
「ええ!?」
幸多は、想定外の事態に素っ頓狂な声を上げるほかなかった。