第二百六十六話 戦団の女神様(五)
「きみは、意識不明の重体だった。だから、きみから直接話を聞くことはできなかったが、闘衣に残された記録を調べることは出来た」
『これねー』
神威の発言に合わせて、ヴェルザンディが幻板を展開した。そこにはぼろぼろになった闘衣が映されており、そこに付随するようにして様々な情報が表示されているようだ。
「徹底的に調査分析した結果、きみがネノクニから全く別の空間、いわば異空間に転移したことはわかった。この地上にもネノクニにも存在しない場所だ。その座標を特定することもかなわなかった。その上、きみがどのような目に遭っていたのかも、不明なままだ」
神威は、幸多の右眼と左前腕を見た。戦団本部に運び込まれた直後の彼の容態は、いまも脳裏に焼き付いている。意識を失っていたのは、彼にとっては良かったのかもしれない。意識があれば、投薬されるまでの短時間とはいえ、激痛と戦わなければならなかったからだ。
右眼をくり抜かれ、左前腕を切り取られた幸多の痛ましい姿は、そう簡単に忘れられるものではない。
「つまり、なにもわからなかったってことよ。ですよね、総長閣下」
「その通りだ。異空間に転移したことは、わかりきっていたからな。結局、きみの目覚めを待つしかなかった」
「それで……でも、どうしてここなんです?」
幸多の疑問は、単純なものだった。自分が見聞きしたサタンたちのことを説明するのであれば、なにもこのような場所でなくとも良かったし、なにより女神たちと対面する必要すらなかったのではないか、と、思うのだ。
「きみの証言だけを聞いて、それで全てがわかるのなら構わないが、そうではないだろう。きみの視てきたもの全てを見せてもらうつもりだ」
「ぼくの視てきたもの全て……」
「きみの記憶を覗こうと仰られるのだ、総長閣下は」
「なるほど」
「当然だが、きみに拒否権はない。入団する際に同意したはずだ」
「はい」
神威の断言に対し、幸多は静かに首肯した。
もちろん、幸多に拒否するつもりなど毛頭ない。
記憶の閲覧というのは、戦団が得意とする手法である。それに関する注意事項が入団申請書類にも記載されていた。
導士は、戦団の意向に従い、あらゆる情報を提供する義務がある。それが自身の記憶である場合がある、というだけのことであり、今回がそれに当たる。
それが嫌ならば、入団しなければいい。それだけのことだ。
神威たちは、幸多の証言を疑うつもりもなければ、嘘偽りを述べると思っているわけでもない。ただ、正確な情報が欲しいだけだ。記憶とは、不正確で不鮮明なものだ。たった数日前のことであっても、雑多な情報、主観や感情が入り交じって変化する。故に戦団は、時として、このように対象の記憶に介入し、閲覧することがある。
導士の記憶の中から、遭遇した幻魔や事件の知りうる限りの情報を引き出すこと。
それは、情報局の通常業務でもあるのだが、ここには情報局の人間は、一人しかいなかった。護法院の一人、上庄諱は、情報局長である。とはいえ、この状況で出張ることはなく、護法院の一人として、様子を見守っていた。
神威が、幸多の不安そうな表情を見て、柔らかい口調で言った。
「安心したまえ。特定の時間帯の記憶を覗き見るだけだ。それ以外の記憶に触れることはない」
『具体的に言えば、七月二十日午前十一時から十二時三十分までの記憶ね』
「そんなに?」
「きみが姿を消したのが、午前十一時で、統魔くんがきみを発見したのが、十二時三十分頃なのよ」
「どうした? なにか不思議か?」
「いえ……」
そういえば、と、幸多は思い出す。
サタンによって左前腕を切り取られ、右眼をくり抜かれた際、その激痛のあまり意識を失ったのだ。闇の世界への転移からそこに至るまでの時間は、それほど長くはない。鬼級幻魔たちの会話こそあったが、サタンの現出後、すぐさま、幸多は意識を失った。そして、気がつくと、医療棟の一室にいた。
闇の世界に一時間半もの間滞在していたのだとしても、なにもおかしなことではないのではないか、と、幸多は考え直した。
「では、ノルン。よろしく頼む」
神威が要請すると、三女神は一斉に彼の周囲を離れ、幸多を取り囲んだ。そのときには、幸多の周囲にいた女傑たちも距離を取っている。
『ということで、幸多ちゃんの記憶を拝見!』
『なにひとつ心配することはありませんよ』
『痛くしないから、じっとしてて……』
「は、はい。お手柔らかに……」
なんといえばいいのかわからず、幸多は、しどろもどろになりながら、女神たちを見た。ただ移動するだけで優美であり、流麗というほかない。
ヴェルザンディが幸多の目の前、左後方にウルズ、右後方にスクルドが位置し、三人とも両腕を胸元に翳した。すると、幻想の光が収束し、宝玉が形を成す。宝玉には、それぞれ異なる装飾が施されており、いずれもきらびやかであり、神々しくすらあった。
そして、宝玉から柔らかな光が放出されたかと思うと、一度拡散し、すぐさま幸多に向かって収斂していった。
三方向からの光線を浴びた幸多は、妙な感覚に襲われた。
なにか、意識が肥大するような感覚。極めて強烈な違和感。自分というものが際限なく膨張し、この中枢深層区画全てを瞬く間に飲み込んでいくような、そんな気分。だが、それが気のせいに過ぎないということは、すぐにわかる。
幸多の前方、ヴェルザンディの遥か後方に巨大な幻板が浮かび上がったが、その画面は真っ暗だった。暗黒の闇そのものであるそれが、記憶の中の幸多の視点から見た闇の世界だということは、幸多にはすぐにわかった。
「闇の世界……」
幸多が思わずつぶやくと、美由理たちは幸多を一瞥したが、すぐに幻板に意識を集中させた。
幻板には、幸多の記憶が、幸多視点の映像として出力されていく。
幸多が、闇の世界で体験した出来事。それが悪夢などではない、確かな現実であることを思い知らせるようであり、幸多自身に再確認させるかのようだ。
暗黒の闇が支配する世界に姿を見せる鬼級幻魔たち。その声も、幸多の記憶から再生され、この空間内に響き渡った。
アザゼル、バアル・ゼブル、アスモデウス、アーリマン、そして、マモン。
イクサの残骸を取り込んで現出した鬼級幻魔は、朱雀院火倶夜に斃されかけたのだが、しかし、サタンによって蘇生された。姿も大きく変わっていることが、はっきりとわかる。
若い男から、少年染みた幻魔の姿へと。
深層区画にいる誰もが、息を呑んで、幸多の記憶を見ていた。そして、幻魔たちの声を聞いていた。サタンを頂点とする、鬼級幻魔の派閥、勢力、あるいは組織。
いずれにせよ、そんなものがこの央都の、いや、ネノクニを含めた人類生存圏の影に暗躍しているなど、考えたくもなければ、信じたくもなかった。
だが、認めるしかない。
サタンが現れ、その尾が幸多を掴み上げる。
「サタン……!」
美由理は、拳を握り締め、サタンを睨めつける。幸多の左腕が切り飛ばされた瞬間を目の当たりにしたからだ。愛弟子が痛めつけられて、怒りを覚えない師匠などいるわけもない。
サタンへの怒りに駆られたのは、なにも美由理だけではない。
幸多の記憶を覗き見ている誰もが、幸多を嬲り殺しにせんとするサタンへの激しい怒りに燃えていた。
そして、サタンが幸多の右眼をえぐり出し、眼球が砂と消えたとき、幸多の記憶から取り出した映像もまた、途絶した。
幸多の記憶となにもかもが一致した映像の数々に、幸多自身、言葉を失うばかりだった。
女神たちが、いう。
『……ここまでね』
『ここから先は、混濁した夢の記憶ですわ』
『これ以上見たいなら追加料金だよ』
「……うむ。もういいだろう」
そういって、神威が、女神たちに記憶の閲覧を止めさせようとした、ちょうどその瞬間だった。
『あーあーテステス、ただいまマイクのテスト中。あー、聞こえてますか? 聞こえてる? 聞こえてるよね?』
聞き覚えのある声が、中枢深層区画に重く深く反響した。
アザゼルの声だ。