第二百五十八話 進むべき道(一)
暗澹たる闇の中を歩いている。
何処までも続く無明の長夜を、何処までも続く無辺の荒野を、ただひたすら歩いている。
どうして、歩いているのだろう。
疑問が過っても、歩き続けるしかない。
疲れても、疲れても、疲れても、歩いて行く。
体がくたびれて、精も根も尽き果てて、流れる汗もなくなって、血も涙も出なくなって、足の裏がぼろぼろになって、骨が削れるほどになっても、歩き続けなければならない。
でなければ、辿り着かない。
辿り着くわけがない。
なぜならば自分は魔法不能者で、完全無能者なのだから。
そうでもしなければ、あの光には辿り着けない。
光。
そう、光だ。
この闇の遥か彼方に光があって、自分は、それを目指しているのだ。
だから、なにも恐れることはない。
なんの疑問も持つことはない。
ただ、進め。
ひたすら真っ直ぐに、進めば良い。
それだけでいいのだ。
それだけで。
「きみは、完全無能者だ」
声が聞こえて、風景が変わった。
無明の闇が消えて失せ、頭上には広大な蒼穹が広がった。流れる風に乗って、夏の草の匂いがした。草原には、緑の波が起こっている。
ああ、懐かしい、と、思う。
「だからといって、嘆いていてはいけないよ」
わかっているよ、と、何度目かの回答。そんなことは、わかりきっている。完全無能者だという事実を覆すことは出来ないし、生まれたときから変わりようのない真実であり、真理なのだから、どうしようもない。
受け止めるしかない。
泣いたところで、嘆いたところで、暴れたところで、現実は変わらない。
覆らない。
それを教えてくれたのが、この声の主だ。
「ぼくがきみを、きみたちを幸せにする。してみせる。だから、安心するんだ。だいじょうぶ。ぼくが側にいるよ」
父の声は、いつだって優しく、穏やかで、柔らかい。なにもかもを包み込むようで、思い出すだけで涙が零れそうだった。
そして、実際に泣いていたのだと気づいたのは、目が覚めたからだ。
はっと、瞼を開くと、視野が非常に狭くなっていて、真っ白な天井の潔癖なまでの白さもどこかはっきりとしないような感覚があった。
痛みは、ない。
全身、痛みという痛みがなく、完全に回復しているのではないか、と思えるほどだった。が、その完全な回復が、感覚のない部位の存在をもはっきりと知覚させるものだから、なんともいえないのも事実だ。
ふと、右手を見れば、彼の手を握ってくれている存在に気づく。
統魔だ。
統魔の手が、幸多の手をしっかりと握り締めている。そして、統魔は眠っていた。ずっと看病してくれていたからか、任務の疲れからか、それはわからないが。
統魔がいてくれていることは、幸多にはわかりきったことではあった。幸多が優しい父の夢を見るのは、大抵、統魔が側にいるときだった。父を失ってからずっと、そうだった。だから子供のときは、統魔と一緒に寝たがったのだ、と、いまさらのように思い出す。
「気がついたのね……幸多」
声は、母のものだった。
左目だけを動かして、統魔と、その隣に座っていた母、奏恵の姿を視界に捉える。狭くなってしまった視界だが、二人を収めることに問題はない。
「母さん……」
幸多は、この室内に奏恵がいたことには、多少、驚きを覚えた。ここは、間違いなく戦団本部医療棟の一室だ。そして奏恵は、一般市民なのだ。戦団にとって完全な部外者である。
そんな奏恵を敷地内に迎え入れたということは、それだけ、幸多の状態が思わしくなかった、ということなのだろうが。
「心配したのよ。もうずっとこのまま目覚めないんじゃないかって……」
「ずっと?」
幸多が疑問を浮かべると、奏恵は、目に浮かんだ涙を拭いながら、いった。
「一週間よ。一週間、あなたは、それだけの間、眠り続けていたの」
「一週間……」
反芻するようにつぶやいて、茫然とする。
あれから、一週間が経過した、という。
とてもではないが、信じられなかった。
幸多にしてみれば、あっという間の出来事だったからだ。しかし、母が嘘をいうわけもなければ、その表情は真に迫っていて、疑いようもなかった。どれだけ心配をかけたのかと
思わず、尋ねる。
「じゃあ、修学旅行は?」
「中止になったわ」
「中止? どうして」
「あんなことがあったのに、続けられるわけがないでしょう?」
「……そっか。そうだね……」
考えれば考えるほど、中止の判断には納得せざるを得なかった。
天燎高校の修学旅行だ。
天燎高校は、天燎財団系列の学校であり、学生の大半が系列企業に就職する。将来、天燎財団の幹部になる人もいるだろう。それくらい、財団とは切っても切り離せない存在なのだ。
天燎高校にとって、財団は母体といってもいい。
そんな母体が大事件を起こした。
厳密には、財団の関連企業の天輪技研が、だが、発表会の壇上にいたのは財団理事長・天燎鏡磨であり、彼が戦団の導士たちに攻撃命令を下したのは紛れもない事実だった。
そうである以上、天燎高校が修学旅行を中止するというのも仕方のないことだった。
「う、ん……?」
統魔が、寝台に突っ伏していた体を起こしたのは、幸多と奏恵の会話が耳に入ったからだろう。判然としない様子で周りを見た彼は、幸多の顔を確認し、それから母の顔を一瞥した。
「母さん?」
「ずっといたでしょうが」
奏恵が呆れるように言うと、統魔がにやりとした。
「冗談だよ」
「はあ……この子ったら」
奏恵は呆れる一方で、統魔のふてぶてしさには安心したりもした。この状況に直面してなお平静でいられるというのは、統魔がそれだけ精神面をも鍛えていることの証左だ。
心強く、頼もしい。
統魔は、それから、幸多に視線を定めた。医療機器に囲まれた寝台に横になったままの幸多は、体中に管をつけられている。
一週間も眠り続けたのだ。それくらいの処置は必要だろう。
そして、なによりも目が行くのは、その左腕と、右目だろう。左前腕も右目も失われたままであり、包帯に包まれているのだが、それでもなお、痛々しい。
幸多のように体の一部を失えば、いくら魔法士であっても、同じような処置を受けることになるはずだ。
魔法は、極めて万能に近い力だが、万能と言い切るには程遠い力でもある。死者を蘇らせることは出来ないし、完全に失ったものを元に戻すことはできない。復元魔法と呼ばれる種類の魔法もあるが、それが作用するのは、元に戻せるだけの部品、材料がある場合だけだ。
幸多のように左前腕、右目を完全に失えば、復元魔法でも治せない。
だからこそ、統魔の胸の奥には怒りの炎が湧いているのだが、その怒りをぶつけようにも相手が見つからないのが困りものだった。
サタン、だと、いう。
「意識、戻ったんだな」
統魔は、幸多に軽い言葉で話しかけた。
「うん。戻ったよ」
幸多も軽い口調で返答し、上体を動かした。
「この通り、体も平気。万全……とはいかないけどね」
幸多は、二の腕だけになった左腕を掲げて見せる。右目はといえば、瞼の上からなにか保護膜のようなものを張り付けられていて、どうしようもない。
もし、瞼を開くことができのだとして、そんなことをするつもりもなかったが。
眼球が抉り取られたのだ。
瞼の内側を見せるのは、あまりにもむごい。
「なんつーか、こっちの気も知らねえで、暢気なもんだな」
「そんな風に言わないのよ」
奏恵は、統魔の言動を窘めると、幸多に近づき、その体を優しく抱きしめた。幸多の体は、子供のころからは考えられないくらいにがっしりしていて、全身が筋肉の塊のようだった。逞しいことこの上なく、力強さが全身から溢れるようだった。
だが、それでも、と、奏恵は想う。
「良かった……本当に、良かった」
「母さん」
幸多は、そんな奏恵の愛情を全身で受け止め、微笑みかける。母の愛を感じなかったことなど一度だってなかったが、それにしたって大袈裟すぎやしないか、などと、思わないではない。
だが、奏恵には、大袈裟でもなんでもないことだった。
奏恵が、幸多に関する報せを聞いたとき、一瞬、頭の中が真っ白になった。意識不明の重体という報せ。それだけで目眩がしたし、いても立ってもいられなくなった。
戦団の計らいもあり、こうして医療棟に足を踏み入れることが許されたものの、幸多の姿を目の当たりにすれば、さらなる衝撃が奏恵を襲ったものだ。
「あなたたちまで失ったら、わたし……」
奏恵は、最愛の夫を幻魔災害で失っている。それこそ、鬼級幻魔サタンに殺されたのだ。
幸多と統魔にとって最大の仇敵。
斃すべき、敵。
だから、幸多は、奏恵の手に右手を置いた。
「ごめんね、母さん」
「どうして、謝るの?」
「だって、ぼくも統魔も、そういう道を選んだから。選んでしまったから」
「幸多……」
奏恵は、幸多の左目を見た。褐色の瞳には、揺らぎようのない決意の光が漲っていた。