第二百五十五話 天輪スキャンダル(二)
天燎高校の朝礼は、大抵の場合、室内総合運動場で行われる。
特に今日は、雨天だ。
降りしきる雨の中、校庭に教師や生徒を集めるなど考えられることではない。
そして、教師陣、全校生徒が集った室内総合運動場の演壇には、まず、校長が姿を見せた。
生徒たちの前に現れた川上元長は、心労もあってなのか、窶れているような印象がある。
「大分、お疲れのようだね」
蘭が、圭悟に向かって囁くようにいった。
「そりゃあそうだろうよ」
圭悟は、校長に対しては同情を禁じ得なかった。
川上元長は、天燎高校の校長という立場だというただそれだけのために、天輪スキャンダルの話題に振り回されているのだ。
天輪スキャンダルの現場に天燎高校の全校生徒が居合わせていたという事実は、事件が明るみになるのと同時に広く知れ渡った。それも当然だ。天燎高校の修学旅行は、端から公になっていたし、どう足掻いても隠蔽できるものでもなかった。
天燎高校は、天燎財団が運営する学校だ。ここに通う生徒の大半が、将来的には財団系列の企業に就職することになっていて、社員育成機関という側面も多分にあった。
そんな学校の代表である校長が、天輪スキャンダルについて知らないわけがないのではないか、と、人々は考える。知っているわけこそないのだが、そんな圭悟たちにとっての当たり前が通用する世間ではない。
天燎高校は、ある種、隔離された世界だ。天燎高校の常識と、世間の常識は、大きく乖離していたりする。その最たるものが対抗戦への関心であり、熱情だったが、それも今年の対抗戦の結果によって大きく変わった。
が、大半の乖離は、相変わらずそのままだ。
天燎財団が絶対の存在であるという天燎高校の理は、変わりようがない。
「可哀想だね」
「本当に」
真弥と紗江子が校長に対する同情を向けるのは、それだけ、校長が慕われていることの現れだろう。川上元長は、若く、情熱に溢れた指導者の鑑のような人物だ。生徒受けも良く、だからこそ、多くの生徒は、心労を隠せないほどの有り様に心底同情しているのだ。
校長は、挨拶もそこそこに演壇を下がった。すると、圭悟たちもよく知る人物が、舞台袖から姿を見せた。
「そうなるよね」
「だと思った」
蘭も圭悟も、ほとんど同時に、同じような感想を述べた。
二人だけではない。
総合運動場に集まった生徒の誰もが予想した人物の登場だった。
「あー……皆さん、初めまして。本日付で天燎高校の理事長に就任しました、天燎十四郎です。まずは、皆さんに一つ、謝罪しなければならないと想い、このような場を設けて頂きました。校長先生、感謝します」
天燎十四郎と名乗った人物は、前理事長・天燎鏡磨に顔立ちこそ似ているものの、やや小太りで、それだけで受ける印象が大きく異なった。向日葵色の頭髪も、肌つやと血色の良さも、明るさを感じさせる人物である。
優しげな表情、柔和な眼差し一つ取っても、神経質極まりなかった天燎鏡磨とは全く違うものだ。
声音そのものが、柔らかく、穏やかだ。
「天輪スキャンダル以来、皆さんには、ただただ不便をかけていて、こればかりは本当に謝るしかありません。皆さんが楽しみにしていたであろう修学旅行も中止となってしまいました。この埋め合わせは、近いうちに必ずいたしますので、それまで、どうか、待っていてください」
天燎十四郎の立場からは考えられないような物腰の低さには、生徒たちは当然として、教師一同も驚きを隠せないといった反応を示した。
天燎十四郎は、天燎鏡磨の実弟である。天燎財団総帥・天燎鏡史郎の二男である彼は、当然のように財団有数の権力者だ。財団理事長の座が空席になっていることもあり、近々、十四郎がその座に着くのではないか、と噂されている。つまり、将来の総帥である。
それほどの人物が、ここまで謙った物言いをするのか、と、大人たちが想うのは当たり前と言って良かった。
「まだ、天輪スキャンダルは解決していません。我々天燎財団は、現在、戦団および警察部の調査に協力しており、原因の解明に向けて全力を挙げている次第です。天燎鏡磨の身勝手が引き起こした事件であるとはいえ、皆さんに心配をかけるだけでなく、迷惑をかけていることには、心を痛めており――」
天燎十四郎の謝罪は、特に生徒たちに向けられたものであり、彼の心の籠もった演説を聴いた生徒たちは、新任の理事長への印象を良くした。
圭悟だけは、胡乱げな眼差しを隠さなかったが。
天燎十四郎がどれだけ言葉を尽くそうとも、あのような大事件を起こした事実は消えないし、その事件に圭悟たちが巻き込まれたことも忘れようがない。そしてなにより、その結果、大切な友人を失い欠けたのだ。
圭悟にとって許せることなど、なにひとつなかった。
「……どこもかしこも騒いでいますね」
天燎十四郎は、天燎高校の一角に設けられた理事長室の整理をしながら、嘆息とともに告げた。
室内には、彼一人しかいない。
そして、室内には、天燎鏡磨の遺物とでもいうべき代物が様々にあり、彼は、それらを仕分けなければならなかった。もしかすると、天輪スキャンダルに関連する資料の一つや二つ、見つかるかもしれない。
あり得ない話だが。
あの神経質の兄のことだ。イクサに纏わる重要機密を高校の理事長室に残しておくわけもなければ、持ち込んでくる理由がなかった。
そもそも、天燎鏡磨は、高校の理事長という職務に熱心ではなかった。
高校の理事長ではなく、財団の理事長としての役割の方が、比重が大きかったのだ。
それもまた、当然のことではある。
財団があって、高校があるのだから。
とはいえ。
「誰も彼もが口を開けば天輪スキャンダル。ほかに話題はないのでしょうか」
『そういう問題ではあるまい』
低く厳かな声が、端末が出力する幻板から聞こえてくる。
幻板には、一人の男が映し出されている。齢七十を越え、なお壮健な男は、眼力だけで凄まじい威圧感を持っていた。灰色がかった頭髪に水浅葱の目を持つ男。
天燎鏡史郎。
十四郎の父であり、天燎財団の総帥である。
『あやつは、少々、やり過ぎた。戦団を敵に回すなど、以ての外。あのようなことは、やるべきことではなかった』
「だから、いったのです」
他人事のように告げてくる鏡史郎に対し、十四郎は、静かにいった。
「イクサ計画などではなく、天都計画こそが天燎の将来を担うのだ、と」
『……結果論だ』
「結果が全てですよ、父上」
鏡磨の所有物を整理する手を止めて、幻板を見遣る。渋い顔でこちらを見る父の顔を真っ直ぐに見つめ、十四郎は告げた。
「結果、兄上は全てを失ってしまった。天燎財団理事長という立場だけでなく、全てを。もはや兄上に居場所はなく、存在価値もない。それが、結果。そして、それが全て」
そして、その結果によって、天燎財団は、設立以来最大の危機に直面したのだ。
戦団への対応、その判断を誤れば、全てを失うかもしれないほどの危機だった。
戦団にしてみれば、敵対的な勢力の急先鋒であろう天燎財団の力を削げるだけ削ぎたいというのが本音だっただろうし、そのためにこそ、天燎財団には徹底して抗って欲しいという考えがあったのではないか。
しかし、財団は、全面降伏した。
天燎鏡磨を差し出し、ネノクニに存在する全ての工場の明け渡した。戦団と警察部、ネノクニ統治機構の調査に全面協力するためであり、天輪スキャンダルの責任を天燎鏡磨と天輪技研に負わせるためだ。
天輪技研は、財団系列企業の中で最も勢いがあり、成果を上げている企業だった。切り離すのは、とてつもない覚悟がいることであり、凄まじい出血を伴うものだった。
だが、財団を存続させるためならば、致し方のないことだ。
イクサ計画が失敗に終わっただけならばまだしも、ネノクニや戦団を巻き込む大事件を起こしてしまったのだ。
もはや、天輪技研を維持し続ける方が問題だった。
それに、だ。
「……父上は、御存知だったのですか?」
ふと、十四郎は、鏡史郎に問うた。
『なにをだ?』
「兄上があのようなことをされる、ということをです」
『知らぬな』
鏡史郎のにべもない返事からは、真実を聞き出すことは出来なかった。
鏡磨の暴走によって引き起こされた大惨事は、天燎財団の立場を危うくするものであり、それをもし、鏡史郎が知っていたというのであれば、許し難いことだった。
十四郎にとってもっとも優先するべきは財団の存続であり、維持である。
そのためならば、なんだって切り捨てよう。
鏡史郎ですら。