第二百五十四話 天輪スキャンダル(一)
その日、朝から雨が降っていた。
限りある地の底の世界とは違って、何処までも広がるような空はいま、鉛色の雲に覆い尽くされている。幾重にも折り重なって太陽を隠す雲の群れ、その雲に蓋された空は、いかにも重苦しく、見ているだけで憂鬱な気分になるようだった。
いや、憂鬱だからこそ、そう思うのかもしれない。
世界は見るものの心の鏡だ、と、誰かが言った。
心が晴れやかなときに見る世界は明るく、華やかでさえあるのだが、心が重いときに見る世界は暗く、重苦しく見えるものだ。
「ちっ」
米田圭悟は、教室の窓の外の景色を見遣りながら、昔聞かされた偉人の言葉を思い出してしまい、舌打ちした。
父から聞かされた言葉だからだ。
天輪技研及び天燎財団を巡る一連の大事件は、天輪スキャンダルと呼称され、今まさに巷を騒がせ、様々な憶測を呼んでいる。各種情報媒体は連日連夜、天輪スキャンダルに纏わる話題を提供していたし、天輪技研や天燎財団の噂話が央都市民の間に飛び交っていた。
それはそうだろう、と、圭悟ですら思わざるを得ない。
天輪スキャンダル。
天輪技研が新戦略発表会と銘打って開催した発表会は、当初、天輪技研及び天燎財団の栄えある未来予想図を世間に知らしめ、天燎財団の圧倒的な力を見せつけるためのものであると考えられていた。
会場となったネノクニ工場には、央都中、ネノクニ中の魔法学者、技術者、研究者が招待されていたし、天燎高校の生徒たちも呼び集められた。
主宰者である天燎財団理事長・天燎鏡磨にしてみれば、それだけ自信のある発表内容だったのだろうし、発表内容が実現できていれば、確かに天燎財団は、一躍、央都の覇権を争えるほどの存在となり得ていたのかもしれない。
だが、実際には、そうはならなかった。
大事件が起きた。
天輪技研、いや、天燎財団と戦団の対立構造が明確に浮かび上がっただけでなく、天燎鏡磨が、天輪技研が開発した新兵器である人型魔動戦術機イクサを用い、戦団の導士たちに攻撃を仕掛けたのだ。
常識的に見て考えられない行動だったし、ありえないことだった。
圭悟を始めとする天燎高校の学生のみならず、教師たちも含めた全員が衝撃を受け、愕然としたものだったし、招待客の誰もが度肝を抜かれ、天地が震撼するかのような混乱の中で、会場を脱出したものだった。
会場は、二十機のイクサによって崩壊し、多数の観客が巻き込まれたが、幸いにも死者は出なかった。重傷者こそ出たようだが、誰もが魔法を使える世の中では大したことはない。
問題は、天燎鏡磨が戦団に刃を突きつけたことだ。
元より、天燎財団が戦団を忌み嫌い、敵対的であったというのは、誰もがよく知っている事実だ。公然の秘密と言っていい。だが、それは央都に誕生した企業ならば、往々にして抱く感情であり、ある程度は仕方のないものだ、と、誰もが考えていた。
戦団は、ある意味においては央都の支配者であり、統治者であり、絶対者だ。央都の守護者であり、同時に法と秩序の化身である。
央都で勢力を伸ばそうという企業にとって、戦団ほど邪魔な存在はなく、鬱陶しいものはなかった。
戦団の支配さえなければ、企業はさらなる躍進が望める――誰もが思うことだ。
それが正しいかどうかはさておいて、だ。
だから、天燎財団が戦団を敵視することそのものは、央都市民の誰一人として問題にしていなかった。戦団すら、どうでもよさげに振る舞っていた。
天燎財団は、様々な企業の集合体であり、いまや央都でも有数の勢力を誇っている。央都市民の生活と密接に関わっていて、なくてはならないほどだった。そんな企業の思想、理念が、たとえ支配者と対立的であったとしても、問題視にすらする必要がなかったのだろう。
だが、しかし。
実際に行動に出るとなると、話は別だ。
天燎鏡磨の独断とも言える導士への攻撃は、その瞬間、天輪技研のみならず、天燎財団の存在が危ぶまれるものとなった。
天輪技研、天燎財団の関係者たちが、鏡磨の暴走に混乱し、挙げ句、茫然自失といった有り様だった光景を脳裏に浮かべ、圭悟は、憮然とする。
圭悟の父、圭助すらも予期せぬ事態に直面したといわんばかりの様子で、右往左往していたのは、余りにも異様だった。
圭助は、天燎財団ネノクニ支部の総合管理官だ。ネノクニにおける天燎財団の活動、その全てを理解し、把握しているはずなのだ。
それなのに、圭助は、鏡磨による戦団への宣戦布告とも取れる行動を予期していなかった。認識していなかったのだ。
馬鹿馬鹿しいにも程がある、と、圭悟は想うのだが。
「ねえ、米田くん」
「ああ?」
不意に話しかけられて、圭悟は、そちらに顔を向けた。
授業も始まっていない時間帯。教室内にいる生徒の数は、まばらだ。そんな中、圭悟に話しかけてきたのは、同じ一年二組の女子生徒たちだった。清玄友香里、日向茉奈、多聞麻希梨の三人組。
「皆代くん、だいじょうぶなの?」
「……知るかよ」
「なんで知らないの? 皆代くんの友達なんでしょ?」
「ダチだからってなんでも知ってるわけねえだろ、あいつは、皆代は、導士なんだぞ」
強い口調で言い返した圭悟の頭の中には、黒い幻魔とともに姿を消した幸多の姿が浮かんでいた。その光景は、網膜に焼き付いていて、離れようとしない。
忘れられるはずもなかった。
もしかすると、それが最後に見た彼の姿になるかもしれなかったのだ。
「……そうだけど」
「ううん……やっぱり、わからないか」
「仕方ないね」
三人組は、圭悟の剣幕に怖じ気づいたのか、そそくさと離れていった。
ほかにも圭悟の様子を窺っていた生徒もいたようだが、いまの会話を聞いて、諦めたようだった。いま圭悟に話しかけるのは得策ではない、と、理解したのだ。
圭悟は、明らかに苛立っていたし、怒気に満ちていた。
天輪スキャンダルから、数日が過ぎた。
天燎高校の修学旅行は、天輪スキャンダルの直撃を受け、即刻中止の判断が出された。これは、天燎高校側の判断というよりは、学校の運営母体である天燎財団央都本部からの指示である。
とはいえ、天燎高校一行は、即座に地上に戻ることは出来なかった。戦団ネノクニ支部で聴取を受けることとなったからだ。
教師や学生を取り調べたところでなにか新発見があるわけもなかったが、あの場に居合わせた全員が対象ということであり、仕方がなかった。
戦団は、天輪技研で起きた一連の出来事を相当な事件と認識していて、事件に関する情報を徹底的に洗い出そうとしているようだった。
それも、理解できる。
「どいつもこいつも」
圭悟がつぶやくと、彼が机の上に投げ出した足に触れる指先があった。そんなことをするのは、阿弥陀真弥以外に考えられなかったし、実際、そうだった。
「んだよ?」
「朝礼だって」
「朝礼?」
圭悟は、真弥の顔を見て、彼女が怪訝そうな表情をしていることを確認した。
きっと、自分も同じ顔をしているのだ、と、圭悟は思った。
天燎高校で朝礼がある事自体、珍しいことだ。
なにかしら行事があるときにだけ行われるのだが、最近では対抗戦の前後、そして修学旅行の直前くらいにしかなかった。
「いきなりだな」
「ほんと、いきなり」
「なんでも、理事長について、だってさ」
と、口を挟んできたのは、中島蘭だった。大急ぎで教室に入ってきた彼は、机に鞄を置くと、圭悟たちに向き直った。
「理事長、ね」
それならば、納得も行くという話だが。
天燎高校の前理事長・天燎鏡磨は、天輪スキャンダルの首謀者として、戦団に拘束されており、現在、取り調べの真っ只中だ。
前理事長、だ。
あれほどの事件を起こした人間を理事長に据えておく天燎財団ではない。
とっくに解任されている。
天燎高校の理事長の座だけでなく、天燎財団の理事長という立場からも、だ。
天燎鏡磨は、天輪スキャンダルを起こした咎により、失脚したのだ。