第二百五十三話 暗転(六)
幸多は、砂のように崩れ去った左前腕を認めつつも、激痛のほうに意識を持って行かれていて、ただただ叫んでいた。
左腕の断面から噴き出していた血は、既に止まっている。闘衣が自動的に止血してくれたのだ。闘衣には、導衣同様、装着者の生存率を高めるための様々な機能が備わっている。
止血も、その一つだ。
だが、痛みまでは消え去らない。
凄まじい痛みが幸多を襲っている。今の今まで吹き飛んでいた全身の痛みが、その拍子に復活してもいた。それも相俟って、苦痛の渦が怒涛のように押し寄せてきていて、幸多の意識を席巻していた。
「汝は、魔素を持たず、故に本来ならば塵と消える運命。塵は塵に。灰は灰に。ではなぜ、汝は生きている。生きていられる。既に死んでいるはずの汝は、なぜ、どうやって、生きている。考えたこともあるまい」
「なに……を……!」
幸多は、サタンを睨む。サタンが掲げていた右手を下ろすと、幸多の頬に触れた。サタンの骨張った漆黒の手、その氷そのもののように冷え切った感触が幸多の右頬を凍てつかせるかのようだった。
サタンの手が幸多の頬を撫でるようにして顔面を辿り、その尖った指先が眼へと至る。そして、さらなる激痛が幸多を襲った。視界に入り込んできた黒い指が、幸多の眼球に突き刺さったのだ。
「あああああっ!?」
幸多は、悲鳴を上げるしかない。
それ以外、どうすることもできなかった。
痛みで思考が麻痺しているのもそうだが、サタンの尾で吊り上げられている以上、どうすることもできない。身を捩っても、逃げようがなかった。
だから、サタンのなすがまま、されるがままだった。
サタンは、その指先に突き刺した幸多の右目を容易く抉り取って見せた。血みどろの眼球は、やはり、瞬く間に砂のように崩れて消えた。
そして、サタンは、その尾で捕らえていた幸多を解放した。
もはや興味もないといわんばかりに、あっさりと。
幸多は、激痛に意識を苛まれ、サタンを睨み続けることもできなくなっていた。
闇の世界の地面に落下したということもわからなかった。
意識が、混濁していくのがわかった。
右目を失い、欠けた視界が急速に暗転していく。
「――早いな」
サタンが、頭上を仰ぎ、つぶやいたのは、闇の世界に光が走ったからだ。
黄金の光が上天に差し、無明の闇そのものの世界に無数の亀裂となって広がっていく。硝子が砕け散るようにして、闇の世界の空が割れた。
そして、どこまでも続く広大な蒼穹が、闇の世界を侵略するかの如く現れると、その一面を支配する雲海ごと、それは突っ込んできた。
「まったく、早い」
「確かに」
「早すぎますわね」
「早いのか?」
「早い……?」
「うむ」
サタン配下の鬼級幻魔たちがそれぞれに反応を示す中、闇の世界に乗り上げた雲海から姿を見せたのは、巨大な構造物だ。
かつて、人類が栄華を極めた時代、魔法時代黄金期に建造された空中都市の一つであり、今や忘れ去られた古代の遺構とでもいうべきそれがなんであるのか、サタンたちに知らないわけがなかった。
ロストエデン。
そう、そこに住んでいるものが名付けた領域。
天使たちの楽土。
大天使ルシフェルの殻。
「そう、早い。早すぎる」
闇の世界に激突したロストエデン、その先端に立った白銀の天使が、義憤とともに飛び立ち、サタンたちの真っ只中へと舞い降りてくる。
すわ、戦いか、と、悪魔たちもまた、反応する。
真っ先に動いたのは、バアル・ゼブルだった。亜空間を展開し、白銀の大天使メタトロンを捕らえようとするが、天使の動きは素早く、身のこなしも華麗だった。軽々とバアル・ゼブルの空間攻撃を躱し、サタンの眼下へと至った。
「決戦のときには、まだ」
メタトロンは、サタンを一瞥しただけだった。目的は、サタンを斃すためでも、悪魔たちを仕留めるためでもないからだ。
次に動いたのは、マモン。華奢な上体を大きく逸らすようにして立ち上がると、メタトロンに飛びかかろうとした。が、サタンの視線に制され、すぐにその動きを止めてしまった。
そのときには、メタトロンは、闇の世界から去っている。
ロストエデンの先端に、黄金の光があった。
「こうして向かい合うのは、初めてだね」
「そうなるな……ルシフェルよ」
「次に会うときが、決戦のときであることを願うよ」
ルシフェルは、いうが早いか、ロストエデンを浮上させた。暗黒の闇の領域からあっという間に離れていくと、雲海とともに蒼穹の中へと還っていく。
すると、闇の世界の割れていた天井が元通りに修復されていき、やがて世界には沈黙が戻った。
闇の世界は、アーリマンの殻だ。アーリマンが存在する限り、殻石が存在する限り、殻が壊れることはない。
「なんだったんだ?」
バアル・ゼブルが、憮然とした顔をしたのは、必殺の空間攻撃が容易く回避されたからだが。
「なるほど、そういうことか」
「どういうこったよ?」
「メタトロンの目的は、幸多くんだったみたいね」
「あ?」
アスモデウスの呆れたような発言で、バアル・ゼブルは、ようやく気づいた。
サタンの足下にいたはずの幸多がいなくなっていたのだ。
アスモデウスのいうとおり、メタトロンが連れ去ったということなのだろうが。
そんなことをして一体どんな意味があるのか、バアル・ゼブルには、全く見当がつかない。
「まあ、よい」
厳かに告げたのは、アーリマンである。
彼は、この暗黒の世界に再び完全なる静寂が訪れたことに満足していた。
闇の世界は、深く、重く、静かに存在し続ける。
「今日も今日とて良い天気だにゃあ」
「なんなんですか、それ」
高御座剣がなんとはなしに話しかけたのは、新野辺香織がそんなようなことを何度もいっていたからにほかならない。話しかけて欲しさ満点というような素振りであり、仕草だった。
香織は、剣に目を向けるなり、
「猫の気持ちになってみようかにゃあって」
「いきなりなんで?」
「なんとなく、にゃ」
「気持ちわる……」
「酷いにゃあ、許せないにゃあ!」
「いたたた、いたいですって!」
「ったく、なにやってんだ、あの二人は」
六甲枝連は、言い合いという名のじゃれ合いをしながら走り回っている香織と剣を見遣り、不満げにいった。
休憩中とはいえ、気を抜きすぎではないか、と、思わざるを得ない。
確かに、良い天気だ。空は晴れ渡り、風も心地よく、日差しも適量だ。夏の熱気も、それほど強烈ではないし、ちょうどいい塩梅だった。
そんな日中にはしゃぎたくなるという気持ちもわからないではない。
が、任務中なのだ。
上庄字が、電子書類に向けていた目を走り回る二人に向け、それから枝連を見た。
「いつものことでは?」
「そりゃあそうなんだが……なあ?」
枝連が助けを求めたのは、皆代統魔である。統魔は、ぼんやりとした様子で、外を眺めていた。
皆代小隊がいるのは、葦原市東街区鼎町の一角にある、戦団の駐屯所である。
「ああ……?」
「隊長、どうしたんです?」
「なにか気になることでもあるのか?」
「いや……」
統魔が口を噤んだのは、この期に及んで幸多のことを考えているという事実を明かしたくなかったからだ。
なぜ幸多のことを考えているのかといえば、幸多が修学旅行でネノクニに行っていて、遠く離れてしまっているからだ。
精神的な距離感でいえば、衛星任務に着くよりも、空白地帯で幻魔と戦っているときよりも、遠く離れているような感覚があった。
寂しいとか、そういうことではない。
なぜだか、胸騒ぎがした。嫌な予感と言い換えてもいい。そして、往々にして、そのような予感というのは、当たるものだ。
「また、弟くんのことを考えておられたんですね」
「ああ……ああ!?」
思わず頷いてしまった事実に気づき、素っ頓狂な声を上げた統魔は、字の真っ直ぐにこちらを見つめる視線を受けて、咳払いをして見せた。
「どうされたんです? 別に悪いことじゃないじゃないですか」
「そ、そうだが……」
しかし、と、統魔は、考えながら、席を立つ。駐屯所の外を走り回っている二人を見遣り、それから、空を見た。
晴れ渡る空には、雲はまばらだ。まばらだが、陽光を浴びて真っ白に輝く雲は、眩しいくらいだった。
「ん……?」
統魔は、その雲の異様なほどの輝きを目に留めた。日光を反射して輝いているのではない。雲そのものが発光しているようだった。
巨大な雲の塊、いや、雲海そのものが光を発しながら、遥か上空を移動している。
異様としか言い様がなかった。
「雲がおかしい」
幸多は、隊員たちに注意を促しながら、駐屯所を飛び出した。
「どったの? たいちょ」
「統魔くん?」
ついに剣を捕まえ、猫のように頬ずりしていた香織だったが、統魔が血相を変えて飛び出してきたものだから、きょとんとした。剣もだ。
「いや、あの雲、変じゃないか?」
「雲?」
「どこが変なのかにゃ?」
「確かに……なにか、光ってます?」
「雲に潜む幻魔の仕業か?」
「可能性はある。行くぞ」
統魔は、いうが早いか、地面を蹴った。飛び上がって法機を呼び出し、透かさず飛行魔法を発動させる。
「え、ええ? まだ休憩ちゅ――」
「置いていきますよ!」
「いやん」
香織は、法機に跨がって飛び立とうとした剣に飛びかかり、その腰にしがみつくことで後に続いた。
枝連と字もそれぞれに法機を用い、飛行魔法を発動させている。
そして、字は、作戦司令部にこの異常を報告するとともに、皆代小隊で対応することを伝えた。
「なんだって?」
「なんだか、それどころではないとでもいうような状態で」
「どゆこと?」
「わかりませんが、なにか大きな問題が起きているようです」
そしてその問題は、任務中の小隊には関係がない、ということなのだろう。だから、情報官も字の報告を受け取るだけ受け取って、現場の小隊に判断を任せたのだ。
「それがあの雲じゃなかったらいいけど」
「だったらなにかあるだろ、一言二言さ」
「だよねえ」
香織の声は、明らかに能天気で、楽観的なものだったが。
皆代小隊が光る雲海の真下に至ったとき、それは、起きた。
雲海が光り、轟いた。
それはさながら雷光であり、雷鳴であった。
だが、降ってきたのは、雷などではなかった。
影だ。
なにか小さな影が、雲海の真っ只中から降ってきた。
「なんだ?」
「なになに?」
「隊長!」
字が制止しようとしたのは、統魔が安全性の確認もせずに飛びだしたからだ。
しかし、統魔には、飛び出さなければならない理由があった。
「幸多!?」
統魔は、雲海から降ってきた影の正体を瞬時に理解し、だからこそ、全速力で飛行したのだ。
そして、統魔は、法機の上に立つと、幸多を両手で受け止めることに成功したのだが。
「……なにがあった?」
統魔は、幸多の全身を見た瞬間、一瞬、我を忘れかけた。怒りが瞬時に全身を突き抜け、血液を沸騰させたのだ。
無理もなかった。
幸多の体は血まみれで、左前腕と右目が失われていたのだ。




