第二百五十一話 暗転(四)
アザゼルが闇の世界と呼んだこの暗澹たる空間には、三体の鬼級幻魔が存在している。
それだけで、幸多は、頭がどうにかなりそうだった。
いずれも凶悪極まりない怪物だ。幻魔は全て人類の天敵だが、鬼級幻魔となれば人類最大の敵というべき存在であり、それに相応しい絶大な力を持っている。人類を見下し、滅ぼすことすら厭わないのが、鬼級幻魔である。
だからこそ、サタンやバアル・ゼブルらが特別指定幻魔に認定されたのだ。
人間を目の前にして逃げ出す鬼級幻魔など、過去、あらゆる記録を参照しても存在しなかったからだ。
鬼級幻魔の性質上、ありえないことをしてきたのが、サタンであり、バアル・ゼブルであり、特別指定幻魔参号なのだ。
そして、そのバアル・ゼブルが主君と仰ぐのがサタンであり、バアル・ゼブルがいるこの場所に集った鬼級幻魔たちが、サタンと深い繋がりを持つのだろうということは、想像に難くなかった。
だから、というのもあるだろう。
幸多の全身がいつになく緊張し、震え、熱を帯び始めている。
ただ、先程の失態があったからか、頭の中はどこか冷えていた。
冷静に、幻魔たちを見ている。
アザゼル、バアル・ゼブル、そして。
「アスモデウス……」
幸多が思わず言葉にすると、アスモデウスは、艶めかしく腰をくねらせた。
「ああん、人間の間では、東雲貞子の名で通ってるんだけど」
「……東雲貞子」
幸多は、その名を反芻して、ぎょっとした。ヴェルが神吉道宏に問えといった名前だ。
「人間社会に紛れていた、というのか」
「そうよ。とはいっても、わたし自身じゃなくて、幻躰だけれどね」
「幻躰……」
幸多は、アスモデウスが熱っぽいまなざしを向けてくるのを受け流しながら、思考を巡らせる。
幻躰。鬼級幻魔のみが使う能力である。それが明らかになったのは、約五十年前に行われた地上奪還作戦のときだ。それまで、鬼級幻魔がそのような能力が持っていることはわかっておらず、故に地上奪還部隊は危うく全滅するところだったという。
前もって知っていればもっと入念な準備が出来ただろうという事実は、地上奪還部隊の後継組織である戦団にとって大いなる教訓となった。
幻躰の特性は、殻の解明によって、明らかとなった。
鬼級幻魔が主宰する領土たる殻は、その鬼級幻魔の魔晶核を用いて作り上げた殻石を中心とする、球状の結界のようなものだ。魔晶核を用いるということは、心臓を捧げるのと同義である。故にこそ、殻の結界としての性能は強力かつ凶悪であり、鬼級幻魔の領土として機能するのだろう。
そして、己の心臓を殻石とした鬼級幻魔は、その姿を消してしまうわけではない。
殻石の発する膨大な魔力によって幻躰を作りだし、己が殻に君臨し続けるのだ。
幻躰とは、つまり、鬼級幻魔特有の分身なのだ。
それもただの分身ではなく、魔晶核を持つ分身なのだから、厄介極まりない。
ただし、幻躰にも明確な弱点はあった。殻石と離れれば離れるほどの、その能力が低下していくというものである。さらに幻躰は、殻石の近くでしか生成できず、故に遠く離れた場所で幻躰が破壊されれた場合、その場ですぐさま幻躰を作り直し、戦闘を継続するなどということはできないのだ。
そして、それこそ、地上奪還部隊が窮地に陥った理由である。
やっとの思いでリリスを撃破したかと思えば、すぐさま復活したのだ。地上奪還部隊が血反吐を吐く想いで斃したリリスは幻躰であり、即座に復活を果たしたという。無論、復活したリリスも幻躰だった。
そして、地上奪還作戦が成功したのは、伊佐那麒麟がリリスの殻石を発見したからだということは、いまや伝説として語り継がれている――。
「そのようなことは、どうでも良い」
厳かな声が響き渡ったのは、幸多から遠く離れた位置からだった。高く、遠く、その声の主はいる。
闇の中、二つの赤い光点が、やはりその声の発せられた位置に輝いていた。どす黒く赤い、眼。
「いま対処するべきは、あれのことだ」
そういって、それは姿を見せた。
鬼級幻魔であることは、端から疑いようがなかった。アスモデウスやアザゼルたちに対し高圧的に出られるという時点で、それ以外に考えようがない。妖級以下の幻魔であろうはずもなければ、ましてや人間であるわけもない。
人間に酷似した姿の男が、闇の世界の高所に配置された絢爛豪華な玉座にいる。肘掛けに腕を置き、前に傾きつつ、その顎を手の甲に乗せていた。
男。黒い男だ。全身が黒ずくめというよりも黒一色といった方が正しく、肌と身につけているものの境界が曖昧なほどに真っ黒だった。だが、表情ははっきりとわかる。仏頂面で、面白くもなさそうに、こちらを見下ろしている。赤黒い目。幻魔の目。顔立ちは秀麗といっていい。髪も黒く、長い。その頭の上に、王冠のようにして黒い環が乗っている。身に纏っているのも、王が着込むもののような絢爛たる衣だ。真っ黒だが、なにやら紅い紋様が明滅していることで、皮膚との違いがわかる。
「余は、この闇の世界の主、アーリマン。汝、名は」
アーリマンと名乗った鬼級幻魔の問いは、幸多に向けられたものではなかった。
アーリマンの視線も、意識も、なにもかもが幸多を無視し、黙殺していた。
そして、その視線の先に幸多が目を向けると、それまで暗黒の闇に覆われていた空間になにかが浮かび上がった。
翡翠色の頭髪の男。その姿には、見覚えがあった。
「あれは……」
「そうよ、さっきの子。わたしが頑張って作ったんだけど、壊されちゃった」
などと、あっけらかんといってのけたのは、アスモデウスである。彼女は、慈しみに満ちたまなざしを翡翠髪の幻魔に向けているが、翡翠髪の幻魔はといえば、アスモデウスではなく、アーリマンを仰ぎ見ている。
よく見ると、翡翠髪の幻魔の姿が、最初に目の当たりにしたときと大きく変わっていた。同じなのは、翡翠色の髪くらいのものだ。背丈が低くなり、全体的に小さくなっている。顔立ちも幼さを帯び、少年といって差し支えのないものに変貌していた。
それが人間ならば、美少年と持て囃され事間違いないくらいの容姿だった。
肌の色も、人間のそれとほとんど変わりがない。背格好は幸多より低く、体つきも痩せ気味という感じだった。身につけているのは、研究者が身につけるような白衣で、所々が機械化している。イクサを取り込んだ結果なのか、どうか。
そして、歯車のようなぼろぼろの黒い環が、その左手首に嵌められていて、回っていた。
目は、紅い。
幻魔の眼だ。
「だからいったのさ、きみのやりようは、悪趣味だとね」
「悪趣味でもなんでも良いが、ただ面倒なだけじゃねえか」
「手間暇かけて人類を滅ぼすのも、乙なものよ」
「人類を……滅ぼす」
幸多が思わずつぶやくと、アスモデウスたちが一斉にこちらに目を向けてきた。アーリマンと翡翠髪だけは、幸多を黙殺しているが。
「驚く事かしら、幸多くん。わたしたちがなんのために存在しているのか、考えたことはあって?」
「幻魔が存在する理由? そんなもの、存在しているからだろう」
アザゼルは、嘲笑い、軽薄に告げる。
「おれたちの存在理由なんて、その程度のものさ。深く考えるだけ無駄というものだ」
「まあ、夢がないのね」
「まったくだぜ、つまんない奴め」
刺々しくぶつかり合う幻魔たちの様子を見れば、彼らが同じ場所、同じ領域――このアーリマンと名乗った鬼級幻魔の殻に在りながらも、必ずしも同じ考え方を持っているわけではないらしい、ということがなんとはなしに理解できる。
少なくとも、アザゼルは、他の幻魔をも嘲笑っているようだったし、そんなアザゼルをアスモデウスもバアル・ゼブルも良くは思っていないようだった。
だからといって、そこに付け入る隙は見いだせないのだが。
「マモン……」
唐突に口を開いたのは、翡翠髪の幻魔だ。声も、少年染みていた。
「ぼくの名は、マモン」
「マモン。それがあの御方に与えられた汝の名か。悪くない。そして、その強欲の黒環。それは、汝が悪魔としての獄印なり」
アーリマンの視線の先には、マモンと名乗った幻魔の左手首があり、音もなく回転する環があった。黒い環。
黒環。
それは、この場にいる鬼級幻魔たちに共通するものであり、他の鬼級幻魔には見受けられないものだ。いや、中には同様の装飾を持っている幻魔もいるかもしれないが、鬼級幻魔の共通する特徴などではない。
それを凝視したとき、幸多の脳裏に閃くものがあった。
アスモデウスの作り、壊されたという言葉。バアル・ゼブルのこれまでの言動、姿の変化。そして、マモンと名乗った鬼級幻魔の身に起きた変化と、そこに至る流れ。
サタン――。
「全部、サタンに関係しているんだな!?」
幸多は、叫び、思わず飛び出していた。地面を蹴り、アーリマンへと躍りかか――ろうとして、地面に叩きつけられる。
「ぐぅっ」
凄まじい重圧が、幸多の全身を苛み、筋肉が悲鳴を上げ、骨が軋んだ。内臓が潰れるような、そんな痛みを覚える。
アーリマンの眼が、今度こそ、幸多を見ていた。
だが、そのまなざしにはなにもなかった。感情の欠片ひとつ見当たらない、虚無の如き瞳。赤黒く輝いているだけの、空洞。
「平伏せよ」
アーリマンは、告げた。
厳かに、しかし、絶対的に。
その言葉に従うようにして鬼級幻魔たちが傅く様を、幸多は、なぜか理解した。感覚だけで、幻魔たちの反応が理解できた。
どういう理屈なのか、幸多にはわからない。
幸多は、ただ、激痛の中にいる。
「御前である」
黒い光が、天に差した。