第二百十八話 新戦略発表会
修学旅行二日目の朝、幸多は、誰よりも早く目を覚ました。
普段ならば携帯端末の目覚まし機能を仕込んでおくのだが、今回は、個室ではないこともあってそうしなかった。もし中々目覚めなくても誰かが起こしてくれるだろうから、そこまで気にする必要はない。
同室には圭悟と蘭、それに一年二組の男子三名がいる。六人部屋だ。さすがに男女が同室で寝泊まりするというのは、この時代でも許されることではなかった。子供ですらありえない話だというのに、高校一年生だ。
なにが起きてもおかしくはない。
そんなことに不満を漏らした男子生徒がいないではなかったが、幸多はまったく気にも留めていなかった。考えたこともない。
まだ誰もが眠っている早朝である。
六人部屋の広い室内は、この上なく静かで、それぞれの寝息や身動ぎする音が大きく聞こえた。
窓の外は、まだ暗い。
人工的な空は、地上と同じように時間経過とともにその色を変える。夕方になれば紅く染まり、夜が来れば太陽は消え、代わりに月が星々とともに天を覆うのだ。それらも人工物だが、ないよりはずっと良いだろう。
ネノクニ市民の中には、それを紛い物の空というものもいるようだが、幸多には、そのことに不満を持つことが不思議に思えた。
空は、空だ。
紛い物でも、本物でも、変わらないのではないか。
少なくとも、その紛い物の空があればこそ、ネノクニの人々は、健やかに暮らしてこられたのではないか、と思うのだが。
ネノクニの環境は、かつての地上の環境を元にして形成され、維持されている。広大な大地は起伏に富み、人口密集地以外の地形は複雑に変化している。山があり、川があり、海さえも存在する。
それら全てが人工物だ。
だが、ひとの手によって作られたものとはいえ、地上と遜色のない自然の景色があるからこそ、この閉鎖された空間で正気を失わずに百年以上もの時を過ごしてこられたのではないか、と、思うのだ。
それは、地上生まれ地上育ちの人間の勝手な考えなのだろうか。
幸多には、わからない。
窓の外に浮かぶ暗い空がゆっくりと青ざめていく様を見遣りながら、幸多は、あくびを漏らした。
朝が来る。
午前八時、ホテル・フラットヒルの食堂に一年二組の生徒たちが集った。
担任教師の小沢星奈もいるし、一年生と行動をともにしている教師たちもいる。
それに央魔連の魔法士二名、長沢珠恵と岸真樹夫も一緒だ。
珠恵は、昨夜からそうだったが、常に幸多の側にいようと画策した。
食事は、班ごとに分かれて行うことになっていたこともあり、珠恵も自由に動くことができたのだ。だから、皆代班と一緒にご飯を食べようとしたのだが、生徒たちから引っ張りだこで、それどころではなかった。そのため、今日の朝食こそは、という気概が食堂に入る前から発揮されていた。
珠恵が引っ張りだこだったのは、初日のバス移動のときから様々な話題を提供したこともあって、一年二組の生徒たちの間で一躍人気者になっていたからだ。元より美人というだけで人目を引き、人気になりやすい面もあるだろうが、央魔連の幹部という立場にありながら極めて気さくで、あっけらかんといていることもあって、生徒たちに受けが良かったのだ。特に女子生徒からの人気が高く、珠恵ちゃんと呼ばれて親しまれている。
幸多は、そんな珠恵の人気ぶりには、なんというか安堵したものだ。珠恵が奇抜な性格の持ち主だということは、幸多が一番よく知っている。普段ならばいざ知らず、幸多か統魔が一緒にいると、恥も外聞もなく暴走するからだ。
今回は、幸多がいても、央魔連幹部であり、央魔連から任務で出向してきているということもあってなのか、随分と大人しかった。
それでも、時折、思い出したように奇声を上げては幸多に抱きついてくるというのは変わらないのだが、それだけならばまだまだ増しなほうだといえた。
幸多がそのようにいえば、友人たちも幸多に同情するほかないとでもいうような反応を見せた。実際、珠恵の暴走を目の当たりにしているのだから、そうもなろう。
そして、朝食の際、皆代班の席には、当然のように珠恵の姿があり、幸多は、苦笑したものである。
珠恵は、幸多にべったりするだけでなく、幸多をいかにして甘やかそうかと思案していた。珠恵の幸多への愛情の深さは、同席している圭悟たちにも、遠目に見ている別席の生徒たちにも、はっきりと伝わるほどだ。
親族ならば当然、というには幸多に甘すぎるのは、誰が見ても一目瞭然だが、それが不快に感じないのは、幸多の人徳によるところも大きいのだろうし、珠恵が幸多以外の生徒にも気さくで優しく、愛想がいいからだろう。
これが、幸多にだけ甘く優しく、他人には冷たい態度を取るような人物ならば、生徒たちも生暖かい目で見守ったりはしなかったかもしれない。
珠恵は、誰にでも優しい。
それこそ、彼女が一年二組の生徒たちの人気者となって最大の理由だった。
朝食を終えると、出発の準備をすることとなった。
二日目は、修学旅行の主目的ともいうべき、天輪技研ネノクニ工場を訪ね、工場見学と発表会への参加が予定されている。
「新戦略発表会ってなんなんだろう」
幸多は、携帯端末の表示板に修学旅行の日程表を写しだしながら、つぶやいた。準備を終え、バスに乗り込んだ後のことだ。真弥が幸多の携帯端末を覗き込む。
「戦略っていうくらいだし、天輪技研の今後の展望とかじゃないかしら?」
「そのためだけに全校生徒を集めるものでしょうか?」
「全校生徒どころか、いろいろなところに声をかけてるらしくて、とんでもなく規模の大きな発表会になるんだってさ」
紗江子と蘭も話題に乗っかってきたが、
「へえ……」
圭悟だけはその話題に乗り気ではなく、ただ、生返事を浮かべるばかりだった。
幸多は、そんな圭悟が気がかりだった。修学旅行が始まったばかりのことを思い出す。そのときは、たまたま不調なのだとばかり思っていたが、窓の外をを眺める彼の横顔は、どうにも不透明だ。
なにを考えているのか、さっぱりわからない。
一年二組を乗せたバスは、同じく一年一組を乗せたバスに続くようにして、ホテル・フラットヒルを後にする。後続車両は、三組、四組を乗せたバスである。
四台のバスが列をなしてネノクニ平坂区を走っていく。
目的地は、ネノクニの第六円とも呼ばれる六つ目の区画、此岸区だ。
此岸区は、平坂区から虹橋区、彼岸区、三途区を越えた先にある区画であり、ネノクニのもっとも外側に位置している。そして、もっとも広い区画でもあった。
また、彼岸区の開発が始まったのは、近年である。
そしていまやネノクニ最大、いや、人類生存圏最大の工業地帯と化している。
地上の土地不足に悩まされた企業が、ネノクニの土地に目を付けたのがその開発競争の始まりとされており、工場のための都市が欲しい企業側と、ネノクニをより良くするための力を欲した統治機構側の利害が一致した結果、そのような区画へと急速に発展していったのだという。
そんな話を添乗員の女性が、車両内を乱舞する無数の幻板に表示した映像とともににこやかに説明した。
幻板には、工業地帯になる以前の此岸区の映像と、現在のまさに工業地帯としかいいようのない光景が映し出されていて、たった数年足らずでここまで変わる物なのかと誰もが度肝を抜かれる想いだった。
幸多も、そんな度肝を抜かれた一人だ。
「ネノクニにこんな工業地帯があるなんて知らなかったよ」
「相変わらず皆代は世間知らずだな」
「う……」
「常識だぜ、常識」
圭悟は、幸多の頭に手を置いて、いった。彼は、幸多の席の背もたれに上半身を預けるようにしているのだ。そのほうが話しやすいから、という理由だった。
「最初にネノクニに工場を持ったのは、天燎だ。まあ、天輪技研だが、天燎の意志があったのは、間違いない。天燎は、既に企業連でも有数の権勢を誇っていたが、地上の土地不足は如何ともしがたい。光都の失敗以来、央都の外に土地を求めるなんざ、無理難題だったからな」
「……そうだね」
「だから、地下に土地を求めた。ネノクニには、有り余るほどの土地があった。ネノクニの土地の大半は手つかずだったからだ。ネノクニは、央都以上の管理社会で、必要以上の土地開発もしなければ、そう、技術的な進歩さえ許されなかった」
「詳しいね」
「……親父が、いるんだよ。ここにな」
ここ、というのは、間違いなくネノクニを指しているのだろうが、幸多が仰ぎ見た圭悟の表情は、どこか不快げなものに見えた。
「お父さん?」
「ああ。おれの親父は、結構偉いんだぜ? ま、だからっておれが偉いわけじゃねえから、勘違いすんなよ」
圭悟は、そんな風にいって、自分の席に戻った。
幸多が真弥を横目に見ると、彼女は小さく頭を振った。詮索しないほうがいい、といわんばかりだった。
しかし、これで一つの謎が解けた。
圭悟が不調そうな理由だ。
天輪技研のネノクニ工場に父親がいて、どうやら、圭悟は父親と仲がよろしくないらしい、ということだ。
幸多は、少しばかり安心した。
親子仲が良くないことはともかく、圭悟の様子のおかしさの理由がしれたのだ。その理由は、彼の身体的、精神的不調によるものなどでなかった。
それだけで、ほっとする。
やがて、四台のバスは、三途区を越えた。
三途区は、三途の川をその名の由来とする。彼岸と此岸の間にあるから三途の川から名付けられたのだ、と、添乗員はいった。ネノクニの由来からして、死後の世界、死者の国と関連しているものだから、地名もそれに倣って付けられているのだろう。
そして、幸多たちを乗せたバスが此岸区に到着する頃には、バスは、十二台が一列になっていた。
天燎高校一行である。
天輪技研ネノクニ工場は、此岸区の一等地ともいうべき広大な土地のど真ん中にあって、天輪技研新戦略発表会場という文字列が超巨大幻板でもって掲げられていた。それ以外にも様々な装飾が施され、さながら、お祭り会場の様相を呈していた。
「まるで馬鹿騒ぎだな」
圭悟がぼそりといった一言を幸多は聞き逃さなかった。