第二百十七話 ネノクニ(五)
ネノクニ平坂区。
ネノクニの第二円とも呼ばれる区画の中で、真っ先に訪れたい、訪れるべきだと皆が言い合ったのは、伊佐那美大社だった。
幸多もその討論の経緯を後で聞き、納得している。
伊佐那美大社は、ネノクニ開発当初、ネノクニ開発に関する全ての計画が問題なく進むように願いを込められて作られた神社である。そして、大社とはいうものの、そこに祀られている神はいなかったという。そのため、当初は祈願大社などと呼ばれていたようだ。
伊佐那美大社と呼ばれるようになったのは、ネノクニを管理運営する統治機構、その支配者とでもいうべき総主に伊佐那美星が選ばれてからのことだ。
総主は、統治機構の頂点に君臨する立場であり、同時にネノクニにおける王、いや、神の如き存在であったといわれている。
そんな存在であればこそ、祈願大社の名を自らの名と、古き神の名に準えるようにして伊佐那美大社と変えたのだろう。
そして、神を祀った。
伊佐那美大社の祭神は、伊佐那美咲である。
始祖魔導師・御昴直次の高弟・六天星の筆頭にして伊佐那家の祖である伊佐那美咲は、現代にまで凄まじい業績で知られており、伊佐那家が魔法の本流と尊崇される理由そのものでもある。
伊佐那家とその周囲の人々は、そんな伊佐那美咲こそ、このネノクニの神に相応しいとされ、伊佐那美大社に祀られたのだ。
魔法の神である。
伊佐那美咲の記録が現代魔法の基礎になっているという事実を踏まえれば、考えられない話ではないのだろうが。
「ここが伊佐那美大社に名を変えた当時、地上では魔天創世が起きたばかりで、ネノクニも大変だったらしいよ」
蘭がいつものような情報通ぶりを発揮したのは、一行が伊佐那美大社についてからのことだった。
平坂区有数の知名度を誇る伊佐那美大社は、観光名所でもあった。そのため、幸多たち皆代班同様、まずは伊佐那美大社を訪れようという学生たちが少なくなく、大社周辺からして天燎高校の生徒たちで満ち溢れていた。
今回、自由行動が許されているのは三時間余り。
初日は、ネノクニへの移動で大半が費やされてしまったということもあり、自由行動の時間も多めに取られていた。
とはいえ、たった三時間ともいえる。学生たちにしてみれば、わずかばかりの時間だ。その少ない時間を埋めるための場所としてこの伊佐那美大社が最も人気なのは、ある意味では当然だったのかもしれない。
幸多は、広い境内に足を踏み入れるなり、どこもかしこも学生ばかりで、想像していたような空気感がまったくといっていいほどないことに少しばかり落胆した。神聖さとか、静謐さとか、そういった趣は一切なかった。
まるでお祭り騒ぎだ。
幸多たちを含む学生たちが旅行気分、観光気分で訪れているのだから、仕方のないことなのだろうが。
伊佐那美大社は、平坂区の町中にあるのだが、大社周辺には人家などの建造物が一切存在しなかった。大社の為だけに空き地を設けているようであり、それもあって大社の存在感は異様なほどに大きく感じられる。
大きな鳥居があり、広い境内が静かに横たわっている。境内の中心に聳えるのが社殿であり、その奥まったところに本殿があるらしい。作りそのものは、古めかしく、神秘性を高めるための様々な趣向が凝らされている。
しかし、神話における伊邪那美命を祀っているわけではないためか、旧時代に存在した神社などとは根本的に作りが異なっていた。
祭神・伊佐那美咲は、前述のとおり、魔法を司る神として祀られている。
大社そのものも魔法と深い関わりを持っているかのような作りになっているし、装飾の数々も、魔法を想起させるものばかりだった。律像を連想させる複雑怪奇な紋様の数々は、ここが魔法の神を祀る場所であることを強く主張している。
「ネノクニの混乱を収めるために祈願大社を伊佐那美大社に改名したっていう話」
「ネノクニの伊佐那家こそ、伊佐那家の本元だもんな」
「だから、伊佐那美咲を祭神として祀ったんだろうね。魔法の本流たる伊佐那家の権威権勢でもって、ネノクニそのものの混乱を鎮め、纏め上げるために」
蘭と圭悟の会話を聞きながら、幸多は、境内を歩いて行く。境内にいるのは学生たちばかりではないが、ネノクニの市民の姿は少ないだろう。物珍しそうに歩き回っているのは、おそらく地上からの観光客だ。
皆のいうように伊佐那家は、ネノクニに存在する伊佐那家を本家本元とする。伊佐那美咲から続く血筋である伊佐那家の当主は、代々、統治機構の総主を務めている。
では、地上の伊佐那家は、地下の伊佐那家と繋がりがないのかといえば、そんなことはない。
地上の伊佐那家の当主である伊佐那麒麟は、地下の伊佐那家、その末席に位置していたということは、よく知られた話だ。だから、地上奪還部隊に組み込まれ、地上奪還作戦に送り出されたのだ、と。
そして、地上奪還作戦の要となった伊佐那麒麟は、地上にこそ伊佐那の本家を作り上げた。
地上と地下の断絶にも等しい関係は、そこにも現れている。
伊佐那の名は、魔法時代が開かれてからというもの、魔法士たちにとって極めて重要な意味を持つものである。伊佐那家というだけで求心力があったし、人望があり、人心を安んじることもできるのだ。
だから、戦団も伊佐那の名を利用しない手はなかったのだろう、とは、蘭の弁。
そんな真面目なことを話ながら拝殿へと至る。
ネノクニの建築基準を満たした建物であるそれは、頑健で丈夫であることはいうまでもない。しかし、地上のどんな建物よりも脆いことも、想像に難くなかった。
央都の建築基準は、ネノクニのそれよりも遥かに厳しい。そうでなければ幻魔の世界を生き抜くことはできないだろうという意識があり、故に徹底的なまでといっても過言ではない建築基準が設けられた、という。
もっとも、建物の頑強さの違いにおける最大の違いは、なんといっても素材の違いだろうし、そればかりは致し方のないことだった。
この地底では採れない素材でもって、央都の建築材等は作られている。
幸多たちは、伊佐那美大社の拝殿の巨大な屋根を潜った。荘厳な建物ではあった。ネノクニの権力の結晶体とでもいうような、そんな重々しさと威圧感を兼ね備えている。
「央都にはないわよねえ、こんな建物」
「この世に神はいない、っていうのがいまの時代の定説だからな」
「ですが、人は頼る物、縋る物なしでは生きては生けませんよ」
「だから、ネノクニは神を作ったんだ」
「それが魔法の神・伊佐那美咲……か」
幸多は、拝殿の最奥部に立ち、本殿を見遣った。本殿は、拝殿から覗き見ることができ、そこには祭神・伊佐那美咲の像が鎮座していた。
魔法の神とされる伊佐那美咲の像は、神々しさと荘厳さを兼ね備えた女神として、そこに在る。どこか伊佐那麒麟に似ているように見えるのは、気のせいではないだろうし、その顔を見たことがあるのは当然だった。
伊佐那美咲は、歴史の授業でも、魔法の授業でも、大いに学ぶ人物だ。二百年前の人物とはいえ、その映像も写真も記録として残っている。
伊佐那美咲の像は、六芒星の台座の上に立っていて、台座には四匹の動物がちょこんと座っている。朱雀、白虎、青龍、玄武――いわゆる四神と呼ばれる動物だが、それらは、伊佐那美咲の子供たちを意味している。
伊佐那美咲の子供たちは、朱雀院家、虎守家、龍河家、玄家という伊佐那家の分家の当主となった。それら分家の象徴が、四神なのだ。
朱雀院家などは、まさにその名の通りだ。
「ま、地上には、そんなものはいらねえんだが」
「戦団がいるからね」
「皆代くんがね」
「そうですね」
「え、いや、ちょっと待って」
幸多は、友人たちがこぞってこちらを見てきたので、少しばかり慌てた。彼らの言い分では、まるで幸多が彼らの神のような存在になるではないか。
「いくらなんでもぼくに縋るのは違うんじゃないかなあ」
幸多の反論は、しかし、圭悟たちによって拒否されてしまった。
「縋らせろよー」
「そうだそうだー」
「かっこいいとこみせてよねー」
「そのとおりですわ」
「ええ……」
幸多は、こういうとき、どうしたところで親友たちの圧力に負けてしまうのだった。
それから皆代班は、伊佐那美大社を巡り、様々な場所で写真や動画を撮影し、記録に残した。
伊佐那美大社を後にした五人は、平坂区内を予定通りに巡り、時間通りにホテル・フラットヒルに戻った。
ホテルでは、豪勢な食事が待っていた。
「さすがは天燎高校だな」
「財団が後ろについているっていうのは、なんというかこう、凄いよねえ」
「なんだかこれが当たり前になって、価値観がおかしくなりそう」
「実際、それでどうにかなっちゃった卒業生もいるらしいよ」
「そうなんですの?」
夕食時も、皆代班のいつもの五人でテーブルを囲んだ。会話が弾み、幸多は、この上なく幸せな一時を過ごした。
初日は、そのようにして、なんの問題もなく終わった。
問題など起きるわけがない。
誰もがそう思っていたし、幸多も信じていた。




