第二百十六話 ネノクニ(四)
まるで魔法のようだ、と、思わざるを得ない。
それほどの跳躍力を見せつけ、お仲間であろう学生のみならず、市民の注目までも集めてしまっているのは、その少年にとって良いことなのか、悪いことなのか。
彼は、少しばかり気になった。
だから、というわけではないが、地上に降り立ち、周囲から注目を集めてしまい、なんともいえない顔をしている少年に歩み寄り、声をかける。
「きみ、天燎高校の学生さんでしょ」
「え、あ、はい、そうですけど……?」
見知らぬ他人に話しかけられて、困惑を隠さないというのはある種の美徳なのかもしれない、などと、少年のことを評価しながら、彼は、にこやかに笑いかけた。
「対抗戦最優秀選手の、皆代幸多くん。いや、皆代幸多導士と呼んだほうがいいのかな?」
「いまは天燎高校の学生です」
幸多は、怪訝な顔をしながら、声をかけてきた人物のことを観察する。相手はどう見ても一般市民だ。一般的なネノクニの市民。央都の一般市民と外見上の差はない。あるはずがなかった。同じ人間だったし、央都市民の誰もが元を辿ればネノクニに至るのだ。ネノクニと一切繋がりのない央都市民など一人としていない。
若い男だ。十代後半から二十代前半といったところに見えるが、今の時代、外見から年齢を判断するというのは極めて難しくなっていた。
魔法の発明と普及、発展と進歩は、様々な分野に波及し、多大な影響を与えた。医療分野もそうだし、美容もそうだ。
魔法美容は、やがて一般的なものとなり、だれもが若々しさを保ち、健康的なままでいられるようになっていった。
戦団総長・神木神威や副長・伊佐那麒麟など、齢七十歳を越えているが、とてもそうは見えない外見だったし、肉体年齢も若く、壮健そのものだ。
だから、外見で判断できるのは、余程の低年齢の相手くらいのものだったりする。
焦げ茶色の頭髪に鳶色の目の男。長身で体つきもしっかりとしている。極めて気楽な格好をしていて、どこにでもいそうな、しかし、どこにもいなさそうな、そんな空気感を纏っていた。
独特な雰囲気だった。
「なるほど。しかし、高校に所属しながら戦団導士とは、大変だ」
「それは、まあ……」
「応援しているよ。頑張って」
「どうも、応援、ありがとうございます」
幸多は、にこやかな笑顔を浮かべる男の瞳の奥に冷ややかなものを感じずにはいられなかったものの、とはいえ、そこに言及する意味も理由もない。
男は、去って行く。
幸多たちの周囲には、通りを歩く市民と学生たちがいて、その注目が幸多と男の会話に集まっていた。が、それもゆっくりと解散していく。
圭悟が、幸多に問いかけた。
「なんなんだ?」
「さあ?」
「対抗戦とか最近の皆代くんの活躍に魅せられてたんだよ、きっと。それで、皆代くんが注目を集めたものだから、声をかけてしまったんじゃないかな」
「そうかもね。皆代くん、とっくに有名人だったし、ネノクニにファンがいてもおかしくないものね」
蘭と真弥の考えを聞けば、納得の行くものではあった。
しかし、幸多は、妙な引っかかりを覚えてならない。
幸多が道行く人に声をかけられるということは、よくあることだ。
真弥のいうとおり、幸多はとっくに有名人で、央都では名も顔も知られた存在になっていた。戦闘部初の魔法不能者で、それなりの戦果を上げ、閃光級に昇進したというのだから、話題性抜群だったし、最近では応援されることも増えてきた。
声をかけられることは、珍しくもなんともない。
よくあることだ。
けれども、幸多には、男の瞳の奥の冷ややかさが気になった。そんな目をした市民に声をかけられたこともなければ、応援されたこともなかったからだ。
声音に心が籠もっていなかったというのも、あるだろう。
事務的な声のように聞こえた。
(なんだったんだ?)
男の姿は、雑踏に消えて失せていて、どこを探しても見当たらなかった。
天燎高校の生徒たちがネノクニを訪れることそれ自体は、別段、ありえないことではなかった。ネノクニには、天燎財団系列企業の様々な施設があり、天輪技研の工場がある。
将来の天燎系企業の社員を育成するための学校が、天燎高校だ。その学生たちに天燎系企業の工場や施設を巡らせるというのは、ありがちな話であり、考え方だ。
だから、というわけではないが、彼は、天燎高校の生徒たちと遭遇したことそのものには驚きがなかった。
地上の、央都の中でも現在飛び抜けた勢いを誇る天燎財団だが、その力の一端は、それこそネノクニにある。
ネノクニにある様々な関連施設、工場こそ、天燎財団の力の源なのだ。
そして、近々、天輪技研の発表会があるという話も聞いていた。
ならば、学生たちがこの地の底に降りてきたとしても、不思議なことではない。むしろ、自然の成り行きといってもいい。
彼が驚いたのは、そこに皆代幸多がいたことだ。
戦団史上初となる魔法不能者の戦闘部導士である彼は、完全無能者ともいわれている。
央都とネノクニ、双界のどこを探し回っても、彼以外一人としていない、まさに唯一無二の希有なる存在、それが完全無能者だ。
「どうだった? 天璃」
彼が声をかけられたのは、通りを外れ、小さな公園に入ったときだった。公園の片隅に置かれた長椅子に腰掛けた男女二人組の内、男のほうが手を挙げている。近藤悠生。萌葱色の髪の、柔和な性格がそのまま顔つきに表れているような男だった。
「どうもこうもないさ。噂通りだったよ、彼はね」
彼――長谷川天璃は、近藤悠生に返事をしてから、頭上を仰ぎ見た。
地の底のネノクニ、その更に底の底とでもいうべき地上から見上げれば、視界に広がるのは、遥か上天の空模様だ。
いつも通りの青空と、雲、そして太陽が、何食わぬ顔でこの偽りの世界に君臨している。
(持たざるもの……か)
それは、皆代幸多を評する言葉だ。
誰もが、そう評する。
それはある種の事実であり、ある種の嘘だ。
確かに彼は魔法を生まれ持たず、その恩恵も受けられない体である以上、持たざるものではある。
しかし、彼は、地上で生まれ育った。
それは、地下で生まれ育った天璃たちには、持ち得ないものだった。
今年、天燎鏡磨が天輪技研ネノクニ工場を訪れたのは、これで何度目になるのか。
両手の指を折って数えても足りないくらいだということは、彼自身、理解していた。
天輪技研は、天燎財団が誇る系列企業の中で今最も勢いがあり、鏡磨が今最も力を入れている企業だ。
天燎財団は、央都において飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長を遂げ、いまや央都企業連合内における最大勢力となり、確たる地位を築き上げている。
天燎財団を脅かすものがあるとすれば、それは企業連以外の他勢力、中でも戦団くらいのものだろう、というのが、大方の意見であり、それには天燎鏡磨も同意していた。
だからこそ、警戒している、というわけではないのだが。
天燎財団がネノクニに関連する施設や工場を持つようになったのは、なにも最近のことではない。
天燎鏡磨の父にして、財団総帥・天燎鏡史郎がたった一代で築き上げたこの大勢力は、元はといえば、天燎魔具というしがない魔具販売店に過ぎなかった。
天燎鏡史郎は、ネノクニから央都への移住者を募る、央都移住計画によって地上に上がったネノクニ市民の一人だが、もっとも成功した一人でもある。
だが、その成功の裏には、ネノクニとの繋がりがあったことは、あまり知られていない。
ネノクニには、天燎鏡史郎の支援者がいた。支援者たちは、天燎鏡史郎の成功に未来を見、天燎鏡史郎の支援に全力を尽くした、という。
天燎魔具が成功し、財団が形成されるに至った最大の理由が、そこにある。
そして、その関係は、今もなお続いているのだ。
だからこそ、天燎財団は、ネノクニに工場を置き、精力的に活動を続けていた。
今回の新戦略発表会を地上ではなくネノクニの工場で行うのも、そうした思惑と関係していないではないのだが、内容の都合というのも大きかった。
「どうかね?」
天燎鏡磨が、天輪技研の開発主任・神吉道宏に尋ねたのは、工場内でのことだ。工場内は、明日の発表会に向けて、普段とは大きく異なる内装になっている。
社内向けの発表会ではない。
社外の様々な人物に招待状を送り届けており、まさにお祭り騒ぎといった有り様だった。工場自体、この発表会のためだけに改装すらしている。それだけの力が籠もった発表会なのだ。
「準備万端、整っております」
当然のように、神吉道宏はいった。天燎鏡磨のひととなりをよく知っているのだ。鏡磨は、何事も滞りなく進むことを好む。
それがどのような内容であれ、問題が起こることを極端に嫌うのだ。
どんな些細な問題でも、起きた瞬間、不機嫌になり、表情に表れ、言動に表れる。
だからこそ、鏡磨が訪れるときには、細心の注意を払わなければならない。
「ご覧になられますか?」
「もちろん」
鏡磨は、神吉道宏に促されるまま、工場の奥へと歩いて行く。
新戦略発表会。
それは天燎財団が人類の未来を切り開くための、新たなる戦略の第一歩なのだ。