第二百十四話 ネノクニ(二)
「やっぱり、何度来ても慣れないわね、この感覚」
日岡イリアは、車両を降りるなり、全身を襲った違和感とそれに伴う体調の変化に顔をしかめた。
四号大昇降機に乗り、地上から地下へと至ったイリアたち一行は、戦団ネノクニ支部の小さな拠点に身を寄せることとなった。
ネノクニは、戦団の管轄でもなければ、支配地でもない。央都のように戦団の導士が大手を振って闊歩できるような場所でもなく、戦団の拠点も、慎ましやかといっていいほどに小さく、狭い。
ネノクニにはネノクニの法があり、秩序がある。
郷に入れば郷に従え、という言葉があるように、戦団もまた、ネノクニにおいては、ネノクニの法秩序に従わなければならなかった。
それが、双界の理である。
央都とネノクニ、両者が互いに認め合うために必要なことだった。
故に、ネノクニにおける戦団の権勢というのは、極めて低い。
ネノクニ内には、戦団の拠点がいくつかあるが、いずれも、この平坂支部と同様か、それ以下の規模の基地といっていい。
そして、ネノクニにおける戦団の業務というのは、地上とは大きく異なるものだ。
地上では、様々な職務があり、仕事があり、使命があり、多くの導士が日夜飛び回っている。それこそ、命を懸けて、命を磨り減らすようにして、駆け巡っている。
そうしなければ央都の法秩序を維持することもままならないからだ。
しかし、ネノクニは、そうではない。
統治機構は、ネノクニの治安維持のために戦団の戦力も協力も助力も必要としないし、むしろ過干渉を嫌っているから、余計な手出しはしてはいけないのだ。
ネノクニに戦団の支部があるのは、便宜上の理由であり、また必要性に迫られたからにほかならない。
イリアたちが平坂支部に辿り着くと、支部の導士たちが総出で彼女たちを出迎えた。イリアほどの有名人が平坂支部を訪れることなどそうあることではないからだろうし、暇を持て余しているからでもあるだろう。
ネノクニでは幻魔災害は頻繁には起きないし、起きたとしても獣級以下の幻魔がほとんどだった。地上のような頻度で妖級幻魔が現出することはなく、故に、戦団の導士が必要とされる場面はほぼほぼなかった。
ネノクニの魔法士たちでも十分討伐できるからだし、魔法犯罪のほうが発生頻度が高いというくらいだ。
それだけで、どれほどまでいn幻魔災害が起きないかがわかるというものだろうが、それが普通なのだろう、とも、思う。
ネノクニの人口は、三十万人ほど。央都の三分の一以下である。この程度の人数ならば、幻魔災害が少ないのも頷けるというものだ。
とはいえ、央都の人口と幻魔災害の発生頻度が割に合っていないのもまた、厳然たる事実ではあるのだが。
そんなことを考えていたのは、車中でのことだ。
車を降りて、出迎えてくれた導士たちに笑顔を向けながらも、イリアは、想定通りの、しかし、だからといって決して慣れることのない変調に内心苦笑する。
これがネノクニだ。
地底世界。
「百年以上の昔に作られ、地上の破局的な大戦から難を逃れ、魔天創世に伴う滅亡からの免れた、ノアの方舟……か」
「はい?」
イリアを振り返ったのは、彼女のすぐ目の前を歩いていた伊佐那義一だ。伊佐那麒麟の養子である彼は、しかし、伊佐那麒麟の若い頃にそっくりの容貌の少年である。中性的な顔立ちは、彼が人気を集めるのも当然といえるようなものだった。
「こっちの話よ。きみは大丈夫なのかしら? 初めてなんでしょ、ネノクニ」
「はい、初めてですが……なんなんです? この感じ」
義一が眉根を寄せたのは、彼も変調を来しているからだろう。
「そりゃあおまえ、魔素密度が違うからだよ」
「魔素濃度な」
「どっちも同じだろうが」
「違えよ」
「はあ」
義一と小隊を組んでいる第七軍団の導士たちが、口々に言い合い、最後にはため息さえついた。
第七軍団の輝光級一位・龍野霞を小隊長とし、そこに閃光級一位の海運晃、七番冬木、閃光級二位の伊佐那義一を加えた即席の四人小隊である。
決して息があっているとは言えないし、打ち解け合おうという気配すら見えない。特に海運と七番の二人は、移動中も常に言い合いをしていて、小隊長が仲裁することがしばしばあった。
常日頃から組んでいる小隊ではないのだ。息があっていなくて当然であり、意見がぶつかり合うこともあるだろう。
そんなことは、イリアにとってはどうでもいいことだった。
イリアは、ネノクニ出向に際し、第七軍団の導士を護衛として借り出したのだ。それにはもちろん、軍団長である伊佐那美由理の許可が必要だったが、彼女は快く首を縦に振ってくれた。
『義一にとっても良い経験になるだろう』
とは、弟想いの美由理らしい言葉だ。
イリアが義一を選んだのは、彼が優れた魔法士であるというだけではないのだが、そんなことを気にする美由理ではあるまい。
「なるほど」
義一が、納得したようにつぶやく。
先輩たちの口論の中で自分の不調の理由を見出したのだ。
それこそ、魔素の密度、濃度の違いだ。
ネノクニの魔素密度と濃度は、地上とは段違いだということが、義一には視覚的に理解できた。魔素を視覚的に認識することのできる能力を持っている義一ならではだ。
確かに、周囲に漂う魔素は、地上とは比較にならないほどに薄い。存在しないといっても過言ではないくらいに希薄であり、その事実を目の当たりにして、義一はしばし茫然とする。
地上との差が、あまりにも大きすぎるのだ。
「かつての地上もそうだったのよ」
イリアは、義一の反応から、彼が魔素の薄さを実感しているのだろうと察して、いった。イリアの眼には見えないものが、義一には視えているに違いないからだ。
「けれども、魔天創世が全てを変えた。変えてしまった。地上の魔素密度は、ネノクニの数十倍にも及び……だから、旧世代の人間には耐えられなかったのよね。全て滅び去り、数十年前、ここから地上に上がろうとした人たちも、大昇降機の中で死んでしまった」
「だから、処置が必要だった、と」
「そうよ。地上に進出するためには、地上を奪還するためには、生命倫理を侵してでも、人体に改造を施し、自らの手で生物として進化を果たすほかなかったの」
「進化……ですか」
「そして、きみたち第三世代は、現状における最終進化形ともいえるわけよ。少なくとも、魔導強化法による生体改造は、これ以上は望めないという結論に至っているわ」
イリアは、平坂支部の施設内を歩きながら、義一にいった。
それは、戦団の人間ならば誰であれ調べることの出来る情報に過ぎないし、義一ならば当然知っているだろうことだ。
生体強化。
ネノクニ統治機構は、それを異界環境適応処置と呼んだ。
魔天創世後の地上は、人類の住めない土地にして幻魔の楽園であり、まさに異界と呼ぶに相応しい領域と成り果てていたからだ。
そんな異界に適応するための人体改造、生体強化は、人類が地上の環境を克服し、順応するために必要不可欠な行いだった。
そのためにネノクニは多大な犠牲を払っただろうし、多くの命が費やされたのだろうが、それもまた、未来のための必要な経費だった、としか言い様がない。
それらの尊い犠牲があればこそ、央都があり、現在があるのだ。
そして、異界環境適応処置は、戦団において、さらなる研究が重ねられ、魔導強化法という名で世代を重ねた。
第二世代、第三世代と世代を重ねるごとに、生物としての基礎的な能力が向上し、魔法に関する能力もまた飛躍的に高まっている。
故に、戦団には、若くして才能と実力に満ち溢れた導士が多く所属している。
義一も、そんな若き才能の一人だ。
だからこそ、イリアは、彼をこの地に連れてきたといっても過言ではない。
若く才能のある導士には、経験を積ませることだ。経験は将来の糧となる。
将来、義一は戦団を背負っていくべき人材であり、そういう立場が約束されてもいた。
伊佐那義一は、未来の伊佐那家当主なのだ。




