第二百十二話 ネノクニへ(五)
「やっとだね」
蘭が、目を輝かせたのは、大昇降機の周囲の景色が、建物の内部から真っ暗な闇に変わってからのことだった。
大昇降機の旅は、長い。
地上から遥か地下まで真っ直ぐに降りていくだけなのだから、あっという間に行き来できるのではないかと思いがちだが、そんな簡単な話ではないのだ。
ネノクニは、遥か地の底に存在する世界だ。そして、地上と地下の間には幾重にも隔壁が設けられている。大昇降機は、それら隔壁の開閉を一枚ずつ、慎重に行わなければならない。なにかあってからでは遅いのだ。
大昇降機が動き始めると、まず最初に、長い長い暗黒の道が続く。地中を降りているのだ。窓の外の景色に代わり映えなどあろうはずもない。
それでも興奮を隠せないといった様子の蘭を見れば、いかに彼がネノクニに行きたがっていたかがわかろうかというものだろう。
幸多も、そんな蘭の気分に乗せられるようにして、窓の外を見ていた。
代わり映えのしない景色だが、地下に降りているということはわかった。
窓の外、大昇降機の外部には、長い長い暗闇の道を照らすようにして光が灯っているからだ。無数の光が列をなして、頭上に向かって昇っていく。
それこそ、大昇降機が地の底に降りている証拠だ。
「やっともなにも、これからだぜ?」
「それがいいんじゃないか」
圭悟が呆れた様子でいえば、蘭がいつにない強気な態度で彼に食らいつく。
「この長い長い旅路こそ、双界間旅行の醍醐味なんだよねえ。わからないかなあ、米田くんには」
「おう、いってくれるじゃねえか。だったら聞かせてくれよ、大先生。双界間旅行の良さって奴をよ」
「はいはい、聞かせてあげましょう、米田くん」
蘭と圭悟がじゃれ合う様を見て、幸多は、少しばかり胸を撫で下ろす。なんだかんだで圭悟が普段通りの顔を見せ始めたのだ。
やはり、気にしすぎだったのかもしれない。
「ありがと」
「え?」
不意に真弥に言われた言葉があまりにも想定外だったこともあり、幸多は、彼女に顔を向けた。真弥は、幸多を見て、優しげな顔をしていた。
「皆代くん、圭悟のこと、心配してくれてたんでしょ」
「……うん。少しね」
「圭悟のことをそんな風に思ってくれる友達なんて、ほとんどいないから……なんだか嬉しくなっちゃった」
そんな風に微笑む真弥は、まるで圭悟の保護者のようだったが、普段からそんな間柄だったような気もする。
「中島くんは?」
「もちろん、同じだよ。きみと」
真弥は、少しばかり気恥ずかしそうに微笑んだ。
「わたしも、紗江子も」
皆、圭悟のことを大切に想う友人である、と、真弥はいうのだろう。
幸多も、その友人の輪に入れているということを嬉しく想ったし、同時に、それだけ想われている圭悟が、だからこそ大切にしたいとも感じるのだった。
やがて、大昇降機を取り巻く景色が一変したのは、どれくらいの時間が経ってからだろう。
大昇降機には、長時間の移動に必要となるだろう様々な施設が備えられている。一般利用客のための待機所があり、食事などを行うことの出来る場所もある。当然、便所もある。
天燎高校の生徒たちは、移動中、それらの施設を利用しても良かった。移動しているわけではないのだから、バスの中に閉じ籠もっているのもそれはそれで不健全だからだ。
幸多たちも、バスの外に出て、大昇降機の壁際で景色が変わる瞬間を目の当たりにしていた。
闇の中、光の列が昇っていくだけの光景だったのが、突如、眼下に広大な空間が広がったのだ。
「おおっ、ネノクニだ!」
「綺麗!」
「うっひょー」
「すげえなあ」
様々な声が周囲から上がる中、幸多は、ただ、圧倒されるような感覚の中にいた。
地底深くに穿たれた広大な空間。そこに作り上げられた自然環境は、当然だが、地上のそれによく似ている。大地には起伏があるが、人間が住みやすいように計算されて作られているからなのか、不自然さも見受けられた。
平地が極めて広い。
そこが居住区画であり、都市部であることが一目瞭然だった。
また、全体を見渡してみれば、海も川も山もあった。どこもかしこも豊かな自然、そして生命に満ち溢れている。
ないものがあるとすれば、それはただ一つ。
「空……」
幸多は、大昇降機が通過してきた長大な筒状の空間、その出入り口付近へと視線を遣り、そして、その周囲に広がる青空に目を向けた。
当たり前のことだが、地中に空はない。が、ネノクニの頭上には、空模様が映し出されていた。ネノクニの頭上を覆う巨大な天蓋、その内側に映し出された群青の空。その周辺には人工的に作り出されたのだろう雲が漂い、太陽を模した人工物が浮かんでいた。
「偽りのな」
圭悟がつぶやく。
「偽物でも、ないよりはずっといいでしょ」
「そりゃあそうだ」
「そうだね。うん。その通りだと思うよ」
幸多には、ネノクニ市民の気持ちはわからない。幸多の祖父母は、父方も母方もネノクニ出身である。その世代は、大半がネノクニ出身だろうし、もっと下の世代にもネノクニ出身者は多い。
央都出身者が増え始めるのは、もう少し下の世代からだ。
幸多は、祖父母から何度となくネノクニから地上に上がった瞬間の歓喜と興奮について、聞かされたものだった。
本物の空と本物の太陽を目の当たりにしたとき、生きていることを実感したのだ、と、祖父はいった。
偽りの太陽の下では、生きていることの実感ができなかったのだ、とも。
それがどういう意味なのか、そのときはわからなかった。
いまでも実感として理解できているわけではないが、成長するに従い、ネノクニのことを知り、多少なりともわかるようになった。
空が原因ではない。
それだけは、確かだろう。
幸多は、天蓋に投影された空模様を仰ぎ見て、そして、地底都市の繁栄ぶりを見渡しながら、そう確信する。
かつて、統治機構による圧政が敷かれていた時代、ネノクニの人々は、息をするのも苦しかったという。
絶対的な管理社会であり、階級による区別や差別が罷り通っていた世界でもあったらしい。
いまや遠い過去のものと成り果てているが、当事者たちにとっては、忘れがたい事実なのだろう。
そんなことを考え込んでしまったのは、やはり、祖父母から聞かされた話を思い出してしまったからだろうが。
「なにを考え込んでおるのかね、幸多くん」
突如、背後から羽交い締めにされたものの、幸多は、慌てなかった。そんなことをしてくる人間など、一人しか思い当たらない。
「たま姉こそ、なにを考えてこんな……」
見上げれば、豊かな胸の感触を後頭部から頭頂部に感じることになる。珠恵は長身で、幸多より遥かに上背があるのだ。故に背後から抱きつかれると、こうなってしまう。いつものことで、慣れていた。周囲の視線こそ気になるが、そればかりはどうしようもない。
幸多自身が目立つ存在であり、珠恵もどうしようもなく目立つ人物だった。
「そりゃあ、幸多くんとの逢瀬を楽しみにして」
「たま姉」
「じょ、冗談だってばあ。そんな怖い顔しないの。いい男が台無しよん」
「はあ……」
幸多は、不真面目の権化ともいうべき珠恵の反応がやはりいつも通りなのを見て、ため息を浮かべるほかなかった。
「ため息も駄目よ。幸せが逃げちゃうわ。あたしという幸せが」
「たま姉が逃げてくれるならいくらでもため息つくけど」
「またまた、照れちゃってえ」
珠恵は、幸多を抱きしめたまま振り回しながら、その幸福感に酔い痴れていた。幸多がどのような感情を乗せた視線を向けてきているのかなど、知らぬ顔をして。
だからこそ、幸多は、なんともいえない顔をするしかないのだった。
珠恵には、敵わない。
伊佐那義一は、車両の中から窓の外を見ていた。この車両に乗ってからというもの、長時間に渡って座り続けている。そろそろ体を動かして血流の巡りを良くした方がいいのではないかと思うくらいに、だ。
それくらい、大昇降機の移動というの時間がかかる。
「だから、ネノクニに行くのは嫌なんだよ」
「また始まった。ネノクニ差別」
「誰が差別してんだ、誰が」
「おまえに決まってんだろ」
同乗者の導士たちが口論を始めるのは、本日何度目だろうか、と、義一は、窓の外に目を向けたまま、考える。どうでもいいことだ。
彼らは第七軍団の同僚だが、義一には興味の持てない人間だった。
ありふれた央都市民に過ぎない。
恵まれた環境に生まれながら、戦団の戦闘部という地獄に身を投じた人々。
それは尊い決断だということも、彼らが懸命に戦っているということもわかっている。
その上で、興味を持てない。
彼らが普通の人達だからだろう。
義一とは、違う。
そしてそれが極めて傲慢で愚かでどうしようもない考えだということも理解しているのだが、だからといって、根幹ともいうべき考えを変えることなどそう簡単にできることでもなかった。
どうでもいい人間たち。
そんな人達を、だからこそ命を懸けてでも守らなければならないという、矛盾――。
(あれは……)
そのとき、義一の目に止まったのは、大昇降機の壁際にいる一団だった。天燎高校の生徒たちである。そこには、見覚えのある人物がいた。
「幸多くんじゃない。まさか同じ大昇降機だったとはね」
義一は、日岡イリアの発言にぎょっとした。まるで自分が思ったことを言葉にしたかのようだったからだ。
イリアは、助手席の窓から外の様子を眺めていたのだろう。
だから、義一と同じく、幸多の存在に気づいたのだ。
幸多は、央魔連の幹部・長沢珠恵に抱きしめられ、あまつさえ振り回されていた。周囲の生徒たちは、どうしたものかと見守っている。
その奇異な光景から遠く離れた義一の目は、幸多にのみ、注がれていた。