第二百十一話 ネノクニへ(四)
ネノクニは、央都の遥か地下深くに存在する地底世界とでもいうべき領域だ。
黄泉の国とも呼ばれるのは、やはり、極めて深い地下に存在するからであろうし、その名称に大きく関連するからでもあるのだろう。
ネノクニ。
かつてこの地上に存在した国、日本の神話に纏わる名称だ。根の国と書く。死者の霊が行くとされた地下世界であり、根之堅洲国などとも呼ばれる。
ネノクニがなぜそのような名を付けられたのかといえば、魔法時代末期、地上が荒廃し、人類が滅亡に近い形で終焉を迎えることを予見した賢人たちによって作られたからだ。賢人たちは、ネノクニから地上へと返り咲き、人類がまさに黄泉から帰ることを期待したのだ、という。
賢人の予見通り、地上は滅びた。
人類のみならずありとあらゆる生物が滅び去り、地上は、幻魔の楽園へと変わり果ててしまった。
賢人たちが地下に隠れたのは、正しい判断だったのだ。賢人たちがネノクニを作らなければ、地球上の人類は、完全に滅び去っていたかもしれない。
そして、人類は、蘇った。
地上を奪還し、央都を作り上げ、いまやその人口は百万人を超えたのだ――。
そんな話をバスの添乗員がにこやかに説明する中、生徒たちはそれぞれに会話を楽しみながら、決して短くもなければ、長すぎることもない道中に身を委ねている。
この地上の央都から遥か地下にあるネノクニに至るには、市内各地にある大昇降機で降りていくしかない。大昇降機は、市内に全部で六つあり、それぞれ数百人単位での乗降が可能だ。バスごと乗り込み、移動することもできる。
が、十二台ものバスが一つの大昇降機で移動できるはずもない。
十二台のバスは、四台ずつ、つまり学年ごとに分かれるようにして、別々の大昇降機へと向かって移動しているのだ。
一年二組の生徒たちが乗るB車両は、今回利用する三つの大昇降機の中で、最も天燎高校から遠い地点である、南海区海辺町の大昇降機を使うことになっている。
そのため、他の学年よりもやや長めの地上の旅となる。
「とはいっても、すぐだよね」
「まあ、すぐだな」
「どったの?」
「いや……」
幸多は、座席の背もたれ越しに圭悟に話しかけていたのだが、彼は窓の外を眺めていて、その表情はどうにも辛気くさいものだった。普段の圭悟からは考えられないような重苦しさがある。
「圭悟らしくないわね」
ぴょこんと、幸多の隣の席の真弥が顔を覗かせ、圭悟をからかった。圭悟は、真弥を一瞥して、すぐに窓の外に視線を戻す。車窓の外を流れる景色は、彼にとって見慣れた町並みだ。
なんの変哲もない、ありふれた葦原市の風景。
「どこがだよ、おれはいつだってこんな感じだろ」
「うーん」
「普段からそんな感じならもっとモテてるわよ、きっと」
「ご覧の通り、モテモテじゃねえか」
「何処の誰がモテモテなのよ。皆代くんならわからなくないけど」
真弥が幸多を横目に見て、微笑む。幸多は、真弥のそんな可憐さに思わず見惚れかけた。
「皆代の何処が……あー、いや、まあ、そうだな。皆代ならおかしくねえか」
「おかしくないわよ、モテモテよ、皆代くん」
「そうなの?」
幸多は、きょとんとした。モテるとかモテないとか、幸多の人生にはまったく縁のない話だったから、想像したことすらなかった。興味がなかったというのも、本音ではあるが。
幸多のそんな反応を見て、真弥はむしろ驚いて見せた。
「そうよ、知らなかった? 皆、皆代くんの話題で持ちきりなんだから。ねえ?」
「はい。わたくしなんて、皆代くんと仲良くさせて頂いているというだけで、なにやら目の敵にされておりまして……」
紗江子の発言も幸多にとっては予期せぬものだったが、同時になんだか申し訳なくなってしまう。
「それって、ぼくが悪いのかな」
「おうよ、てめえが悪い」
「ごめん」
「なんでそうなるのさ」
蘭が呆れ果てた顔で笑うと、圭悟もやっと微笑んだ。しかし、その笑顔に力がないことに気づき、幸多は、少しばかり胸が苦しくなった。
圭悟は、大切な友人だ。友のために全力を尽くすことのできる、得難い人間性の持ち主だ。彼が幸多のためにどれだけのことをしてくれたのか、数え上げたらきりがないくらいだ。そんな圭悟がなにか思い悩んでいることがあるのだとすれば、力になってあげたいと思うのは、友人として当然のことだ、と、幸多は考えるのだが。
余計なお節介だろうか。
とはいえ、この状況で悩みを聞くというのも不躾だし無遠慮にも程があると考えた幸多は、しばらく様子を見ることにした。体調が思わしくないだけかもしれないし、精神的な不調なのかもしれない。
待っていれば、圭悟から話してくれる可能性もある。
それになにより、バスの中は、騒がしい。
真摯に向き合って話し込めるような状態ではなかった。
やがて、バスは、南海区へと至り、大昇降機を目前にした。
大昇降機は、その呼称から巨大な建造物のように受け取りがちだし、実際、とてつもなく巨大な構造物ではあるのだが、地上に見えている部分というのは、その極一部に過ぎない。
大昇降機の本体ともいうべき大部分は、地中に埋まっているからだ。
大昇降機が一般市民に解放されたのは、魔暦二百十年のことである。双界間旅行の開始に伴い、央都市民も、ネノクニ市民も、それぞれの世界を行き来することができるようになった。
双界などという言葉が使われるようになったのは、いつのころなのか。
もちろん、地上世界と地下世界を表現する呼称であり、央都とネノクニの実情を現した言葉でもあった。
央都とネノクニは、分断された別々の国、世界であるという考え方が一般的であり、常識と言ってもいい。
央都は、ネノクニを管理運営する統治機構が実行した地上奪還作戦によって、その基盤が築かれた。地上奪還部隊が、鬼級幻魔リリスの打倒に成功し、その領土を手に入れることが出来たからである。
そしてその経緯と結果によって、地上と地下は、異なる組織によって管理される別々の世界となっていった。
現在も、双界は、異なる世界、異なる国家であると認識されていて、大昇降機を利用した双界間旅行を行うには、それぞれで手続きが必要であり、央都政庁やネノクニ統治機構の許可を得なければならなかった。
無論、それぞれの組織にそのための部署があり、旅券さえ発行されれば、ある程度自由に往来できるようになるのだが。
今回の修学旅行に関しては、学校が手続きを行い、許可を取っているため、幸多たち生徒は一切気にする必要はない。
純粋に旅を楽しめばいいのだ。
央都の建築基準を満たした大昇降機の建物は、それでも巨大ではあった。巨大な塔の一部を切り取ったような、そんな外観が特徴的な建物であり、出入り口は極めて広かった。
四台のバスが、大昇降機の出入り口から建物内部へと入っていく。旅券の確認は、魔機によって自動的に行われるため、バスを乗り降りする必要もなかった。
旅券には、いわゆる魔紋認証が用いられている。
魔紋とは、固有波形を元にした個人識別情報のことだ。生物の内包する魔素には、固有の波形があり、それを電子情報化したものが魔紋なのだ。魔紋は、偽造することも加工することもできない上、本人確認が容易であるため、現代社会においては最も重宝されている。
旅券のような本人確認が必要なものには、魔紋認証を用いるのが一般的となっている。
そして、魔紋認証は、専用の魔機を用いることにより、遠隔で一挙に行うことができるため、誰一人バスから降りる必要もないというわけだ。
当然ながら、幸多は、固有波形を持たない。魔素を内包しない完全無能者なのだから、それが当たり前だ。だが、魔紋は発行されている。魔紋がなければ、央都で生きていことは難しく、故に央都政庁が手を尽くして発行したのだ。
つまり、幸多の魔紋は、央都市民で唯一、人の手によって作り出されたものだということだ。
魔紋は、電子情報化された固有波形であり、幸多以外の央都市民、ネノクニ市民の場合は、ただ存在しているだけで魔紋を持っているといっても過言ではない。が、幸多の場合は、そういうわけにはいかず、魔紋認証を通過するためには専用の魔具が必要だった。
幸多は、魔紋認証のためだけにその魔具を常日頃から持ち歩いているのだ。魔紋認証を通過するための機能しか持たない魔具は小さく、携帯端末の装飾品としてぶら下がっている。それを持っている限り、幸多も魔紋認証を通過できる、というわけだ。
さて、大昇降機は、遥か地下と地上を真っ直ぐ垂直に移動する乗り物である。
その乗り物は、完全防備の円形の台座とでもいうべき形状をしていて、大昇降機と呼称される建物の大半を占めている。
出入り口から建物の中に入ると、すぐに巨大な構造物が目に入ってくる。それが本当の大昇降機というべきものであり、円形の台座だ。台座は、四台のバスが乗り込んでも十分なほどの空間的余裕があり、最大六百人が同時に乗降可能というのは本当だとはっきりとわかるようになっていた。
円形の台座は、全周囲を半透明の壁で覆われていて、天井は台座と同じく分厚そうな金属の板で出来ているようだった。いずれも魔法金属製であり、それは、近年になって改修された結果である。
円形の台座、つまり大昇降機に四台のバスと、天燎高校とは無関係の利用客が多数乗り込むと、館内音声が流れた。
『それでは間もなく、央都発ネノクニ行の大昇降機、稼働致します。ご利用の皆様におかれましては、何卒、騒がないようにお願い致します』
そんな案内音声が途絶えると、超巨大な台座が、静かに動き出した。
音もなく、振動もなく、ゆっくりと降り始めたのだ。
遥か地下世界、ネノクニへ。