第二百九話 ネノクニへ(二)
天燎高校が全校修学旅行を計画したのは今年に入ってからのことだ、などという噂話が、生徒の間でまことしやかに囁かれていた。
天燎財団関連企業の中でも近年特に勢いのある天輪技研が、長年の研究成果をついに発表する時期が来たといい、その発表会を天燎高校の全生徒が観覧させようというのが、修学旅行の最重要目的であるらしい。
その情報の発信源は、中島蘭である。
彼の発する言葉の信憑性の高さに関しては、幸多たちも一切の疑いを持っていなかった。蘭にはとてつもない情報源があり、いつだってその情報には助けられていたからだ。
天燎の情報王などと彼を呼ぶのは圭悟たちくらいのものだろうし、蘭に情報の提供を求める生徒などほかにいないのだが。
とはいえ、友人たちの間では、蘭の存在はこの上なく重宝されていたし、蘭もそんな友人たちからの扱いに多少照れながらも嬉しがっていた。
そして、蘭の口から伝えられた言葉は、圭悟たちの間で飛び交い、周囲に拡散し、やがて学生たちの間で広まっていく。
そうして広まりきった情報は、いつの間にか学校内の常識のようになっていて、教師たちも当然のようにそうした話をしていた。
幸多が登校するのは、随分と久しぶりのことだ。圭悟たちと会うのも数日ぶりのことだったが、話題にはついていけている。
会えないだけで、通話や伝言のやり取りはしているからだ。
とはいっても、だ。
たった数日。
されど数日。
鍛錬漬けの日々を送っている幸多にとって、友人たちと会えるということは、それだけで幸福感に満ちたことだったし、校門前で圭悟と遭遇したときには大げさなほどの抱擁をしたものだった。
そんな二人のやりとりには、微笑ましい光景を見守るかのような生暖かいまなざしを向ける学生も少なくなかった。
幸多は、対抗戦優勝以来、天燎高校でも一番の有名人だ。天燎高校出身者初となる戦団の導士であり、同時に在学生でもある彼のことを知らない生徒はいなかった。
幸多の登校日には、幸多の周囲に人集りが出来るのは当然だったし、動画や写真を撮影するために携帯端末が向けられるのも日常茶飯事だった。
もっとも、それはなにも校内に限った話ではない。
いまや幸多の存在を知らない央都市民のほうが少ないのではないかというくらいの知名度となり、有名人となっていた。それは、ある意味では当然のことだろう。
戦団戦務局戦闘部初となる魔法不能者の導士であり、初任務以来、戦果を上げ、さらに過去の実績を考慮した結果、一気に閃光級三位まで昇級したのだ。これは戦団史上最速の昇級であり、統魔が保持していた最速昇級記録をも塗り替えてしまった。
もちろん、そこには護法院の思惑もあるのだが、一般市民はそんなことは知らないし、知る由もないのだ。様々な憶測こそ飛び交ってはいるものの、幸多が妖級幻魔サイレンを撃破し、虚空事変において大活躍したことは誰にも否定の出来ない事実だった。
魔法不能者にして完全無能者の戦闘部導士、伊佐那美由理の弟子、初任務での戦果、虚空事変での活躍、過去の諸々、そして、F型兵装。
様々な情報が幸多を取り巻いており、それら全てが幸多の知名度を高めることに繋がっている。
幸多は、戦団の、特に戦闘部の導士は、人気商売でもある、というような話を統魔から聞いたことがある。
戦団の広報部は、導士を過剰なまでに売り出していたし、それによって戦団に入団しようという魔法士を一人でも増やそうという魂胆があるのは事実だった。
知名度が上がり、人気が出ることは、悪いことではない。
良いことばかりでもないが。
「誰も彼もがおまえのことを見てるぜ、皆代」
などと、圭悟が茶化してきたのは、校庭に並ぶ何台もの貸し切りバスを前に全校生徒が集まろうとしている頃合いだった。
実際、幸多に向けられる視線は多く、手を振ってきたり、携帯端末を向けては教師に叱られたりしていた。多くの生徒の反応は、良好そのものだ。
入学当時からは考えられないほど、幸多に対する生徒たちの評価は一変した。
「いやあ、人気者は辛いねえ」
「それ、冗談になってないんだよね」
「本当に」
「うんうん」
幸多の周囲には、いつものように友人たちが集まっていた。
米田圭悟に中島蘭、阿弥陀真弥、百合丘紗江子の四人である。四人とも、当然のように制服を身につけており、その上で大荷物を抱えている。
三泊四日の修学旅行だ。着替えも用意し、持ち運ばなければならない。
もっとも、宿所などで央都転送網を使うことが出来るのであれば、家から荷物を送り届けてもらうという方法も取れなくもないのだが、そこまでして荷物を減らそうという学生のほうが少なかった。まず、転送網を利用するには、転送してくれる相手がいなければならず、誰もが実家暮らしではない以上、当然の判断だ。
さらにいえば、双界間転送の利用料金も考えなければならない。決して安いものではない。
「一年二組の皆さんは、B車両前に集まって――いますね。皆さん、優秀な方ばかりで、先生、本当に助かります」
とは、一年二組の担任教師である小沢星奈の言葉だ。彼女がB車両と呼称した貸し切りバスの前には、確かに一年二組の生徒が勢揃いしていて、綺麗に整列していた。他の教室の様子を見ると、その差は歴然といっていい。
それもこれも、小沢星奈の教育が行き届いているからに違いない。
貸切バスは、天燎財団系列の会社・天燎観光バスのものであり、天燎財団系列企業が基調色として多用する黒で塗られ、赤の差し色が車体に走っているような、そんな外観である。
とても観光用のバスには見えないが、天燎財団系列の企業は大体そうなのだから仕方がないのかもしれない。
天燎高校の制服もそうだし、夏服もそうだ。黒を基調とし、赤を差し色にしている。
「今回、修学旅行中は、央都魔法士連盟の方々が帯同してくれますので、なんの心配もいりませんよ」
「センセー、うちの組には導士様がいまーす」
圭悟がからかうように声を上げると、小沢星奈は、彼の軽口に乗っかるようにして、ほかの生徒たちに言い聞かせるような口調で言った。
「学校にいる間、皆代くんは一生徒です。生徒の身の安全を護るのは、学校の責務であり、使命です。わかりますね?」
「はーい、わっかりましたー」
圭悟は、星奈の強い口調に対し、軽々しく返したものの、そうした教師の覚悟を聞けて、なんだか安心もした。
幸多に対する周囲の反応というのは、もはや一般市民皆代幸多、天燎高校一年生皆代幸多に対するものではなく、戦団戦務局戦闘部導士皆代幸多に向けるものだからだ。
閃光級三位の導士ならば、頼り切っても構わないのではないか、というような雰囲気が、生徒たちの反応から感じ取れるようだった。
それが、圭悟には気に食わない。
ついこの間まで魔法不能者と内心で蔑んでいたような連中が、いまや手のひらを返したように持て囃し、嬌声さえ上げている。
星奈の言葉は、そんな空気感に冷や水を浴びせるようなものであったし、一年二組の生徒たちには強く響いたことだろう。
それは、星奈が常日頃から生徒たちに言い聞かせていることでもあった。
学校にいる間、幸多を特別扱いしない、戦団の導士として扱わない、というのが、星奈の教師としての矜持であるようだった。
そんな星奈だからこそ、圭悟は全幅の信頼を寄せることができるのだ。
「央魔連が帯同ってさ、つまり護衛って事よね? なんで戦団じゃないんだろ?」
真弥が当然の疑問を口にすると、蘭が驚いたような顔をした。
「ここ、どこだかわかってる?」
「ここって、天燎高校のこと?」
「そ。天燎が戦団を目の敵にしてるのは、周知の事実でしょ。だから、嫌なんだと想うよ。戦団に貸しを作りたくないんだ」
「でも、だからって、護衛くらい戦団に頼めばいいのに。戦団だって、これだけの人数が動くのなら、いくらでも手を貸してくれそうなものだけど」
「まあ、それはその通りだね」
「ったく、難儀な話だな」
真弥と蘭の会話を聞いた圭悟が顔をしかめるのも、当たり前の反応と言える。
天燎財団が戦団を目の敵にしているというのは、蘭の言うとおり、周知の事実として誰もが知っていることだ。
小さな魔具販売業に過ぎなかった天燎魔具から、たった一代で央都を代表する大企業へと成長させ、いまや財団の総帥となった天燎鏡史郎が、戦団の在り方に疑問を呈したのは、今や昔のことである。
天燎財団も、央都に存在する数多の企業同様、央都企業連合、通称・企業連に属している。企業連は、予てより、戦団の支配からの脱却を悲願としていた。天燎鏡史郎もそうした考えの持ち主なのだ。
天燎高校の理事長・天燎鏡磨は、そんな父の薫陶を受けて育った。だから、戦団を毛嫌いし、戦団の人材確保のための催しである対抗戦を忌み嫌っていたのだ。対抗戦が企業にとって利用価値の極めて高いものであるとわかったからこそ手のひらを返したようだが。
とはいえ、幸多は、戦団に所属する人間としてこの学校に通っているが、そのことでなにか不都合を感じたことはなかった。むしろ、厚遇されているような感覚さえあるのだから、天燎が戦団を嫌っているというのがよくわからない。
幸多は、そのようにして、友人たちの会話についていけないことがあった。
「と、いうわけで」
不意に女性の声が聞こえてきて、幸多は、我に返った。
思い切り聞き覚えのある声だったからだ。
「今回の修学旅行期間中、天燎高校一年二組の皆さんの安全と快適な旅を約束するべく、央都魔法士連盟より派遣されました、長沢珠恵です。よろしくね」
古の魔法使いよろしく漆黒の長衣を身に纏った長沢珠恵が、茶目っ気たっぷりに片目を瞑って見せたのは、当然のように、幸多に向けて、だった。