第二百七話 サタン(二)
鬼級幻魔バアル・ゼブルの生存が確認された事実は、戦団上層部および護法院の頭を抱えさせることとなった。
元より、幻魔の心臓たる魔晶核の消滅が確定していない以上、バアル・ゼブルが死んだとは断定できていなかったのだが、出来れば虚空事変の際に斃していたかったというのが、戦団上層部、護法院の本音だった。
央都に暗躍する鬼級幻魔の数を少しでも減らしたいというのは、央都の守護者たちにしてみれば、当然の欲求だったのだ。
ただでさえ、特別指定幻魔壱号ダークセラフの対応に追われている。
そこにバアル・ゼブルが加わるとなると、戦団も戦力の大半を央都に割かなければならなくなる。
さらに、だ。
虚空事変に伴い、別の鬼級幻魔が暗躍している可能性が浮上しており、そのために戦団情報局は全力を上げていた。
新薬・昂霊丹の開発に鬼級幻魔が関わっていたというのであれば、それは間違いなく人間にとって害をなすため以外にあり得ず、故に即刻、昂霊丹の販売及び使用は禁じられた。
そして、プロジェクト・アルカナプリズムに関わった芸能事務所ミューズハートの音楽部門関係者からも、鬼級幻魔の固有波形が検知されており、アルカナプリズムそのものが当該鬼級幻魔のなんらかの策謀によって誕生したものだということが判明している。
央都市民を熱狂させたアルカナプリズムが鬼級幻魔によって生み出されたという衝撃的な事実は、当然ながら、戦団の重要機密として処理されており、公表されてはいない。
表向き、新星薬品、ミューズハートに対する処断は下されていないが、戦団の徹底的な監視下に置かれ、管理されることになっている。
ほかにもいくつかの企業から同種の固有波形の名残が検出されており、それらも戦団の監視下に入った。
そして、サタンである。
それは、バアル・ゼブルの発言を信じるのであれば、特別指定幻魔壱号ダークセラフの本当の名前だ。バアル・ゼブルが口から出任せを言っているとは考えにくく、故に、サタンという名がダークセラフの真の名であると認識することとなった。
サタン。
特別指定幻魔壱号にして、多発する幻魔災害の引き金であり、バアル・ゼブルが主の如く仰ぎ見ている存在。
サタンもバアル・ゼブルも鬼級幻魔だが、鬼級幻魔同士が徒党を組むことや、組織を持つこと、主従関係を持つことは、よくあることだった。
幻魔戦国時代には、鬼級幻魔同士が、日夜領土を巡る戦いを繰り広げていたといい、その中で勝敗が決した結果、主従関係を結ぶことになった鬼級幻魔の例は枚挙に暇がない、という。
現在、央都の近辺にあってもっとも大きな勢力を誇る鬼級幻魔オトロシャは、配下に三体の鬼級幻魔を従えていることが判明している。
オトロシャの配下の鬼級幻魔は、オベロン、トール、クシナダと名乗っている。
オトロシャの名前の由来こそ不明だが、オベロンは妖精の王、トールは北欧神話の雷神、クシナダは日本神話の女神・奇稲田姫に由来することは明白だ。
そのように、鬼級幻魔の多くは、古来より人類が言い伝え、あるいは創造してきた神話や伝承、創作物に登場する神や悪魔、妖精などの名を自ら名乗っているのだ。
妖級以下の幻魔は、人類がその姿形や能力を元に命名しているが、鬼級幻魔は自ら名乗っているという点で大きく違う。
ダークセラフという呼称も、闇の天使の如き姿から戦団によってつけられた仮初めの名前に過ぎなかった。
サタン。
敵対者を意味するヘブライ語に由来すると言われる悪魔。悪魔の中の悪魔というべき存在かもしれないし、実際、その名に相応しく、この央都に災害を引き起こし続けている。
央都がこれほどまでに幻魔災害に見舞われるようになった原因こそ、サタンなのだ。サタンが現れるようになってから今日に至るまで、央都は、常に幻魔災害を想定しなければならなくなった。
サタンによって幻魔災害が引き起こされ、それによる二次被害、三次被害が起こっている。
央都の混乱は、サタンが原因と見て間違いないのだが、そのためにどうするべきかといえば、一つしかない。
サタンを斃すのだ。
そうすれば、サタンによって幻魔災害が引き起こされることもなければ、そのために市民を殺されることもない。バアル・ゼブルの暗躍も止むかもしれない。
バアル・ゼブルがサタンの忠実な僕ならば、の話だが。
「とはいえ、どうすることもできないのが現状だな」
伊佐那美由理は、皆代幸多が二本の短刀を構える様を見遣りながら、嘆息するように告げた。
場所は、幻想空間上に構築された起伏の激しい山地であり、これまでの長時間に及ぶ訓練の結果、周囲には無数の破壊跡が刻みつけられている。幸多による攻撃が付けた爪痕もあれば、美由理の魔法攻撃の傷痕も無数にある。
互いに戦闘装備だ。幸多は闘衣を纏い、美由理は導衣を身につけている。その上で美由理は、CANE型法機・双星を手にしている。
「サタン……!」
幸多は、双機刀・双閃の柄を握る手に力を込めた。
統魔が皆代小隊を率いた調査任務中に上半身だけのバアル・ゼブルに遭遇し、逃がしてしまったという話は、幸多も当然のように聞いている。その話の中で、バアル・ゼブルがダークセラフをサタンと呼び、自らをサタンの腹心と言い表していたという話もだ。
幸多と統魔にとって、サタンは仇敵以外のなにものでもなかったし、復讐するべき対象だった。
サタンを斃すためにこそ戦団に入ったといっても過言ではない。
父・幸星の命を奪ったのがサタンなのだ。
だからこそ、幸多は強くなりたかったし、強くならなければならないと想った。
鬼級幻魔の討伐に際し、戦力にならないような下級導士を投入するわけもない。それこそ、戦力の無駄遣いであり、無策無謀というほかない。
幸多が戦団に入ってからというもの、戦団は鬼級幻魔バアル・ゼブルとは数度遭遇しているが、その都度、下級導士にはバアル・ゼブルとの直接戦闘は極力避けるように指示を出している。下級導士の実力では手も足も出ないだけでなく、一瞬にして殺されるのがわかりきっているからだ。
だから、バアル・ゼブルとの戦闘は、即座に投入された星将に一任された。幸多の初任務のときでも、虚空事変の際にも、統魔がバアル・ゼブルの上半身を発見したときも、だ。
三度目のバアル・ゼブル戦は、星将の到着が間に合わなかったが、杖長がいた。杖長は、星将たる軍団長、副長に次ぐ立場の導士であり、多くは煌光級の高位導士だ。高位導士ならば、鬼級幻魔相手でも食い下がることくらいできるだろう、という判断はあったかもしれない。
が、バアル・ゼブルは完全に復活し、逃げおおせた。
央都は、再び、サタンとバアル・ゼブル、第三の鬼級幻魔が暗躍する世界となったわけだ。
「きみは、サタンを斃したいのだったな」
「はい」
「言っておくが、簡単なことではないぞ」
「わかっています」
幸多は、美由理の目を見つめ、肯定する。そんなこと、わかりきっている。バアル・ゼブルが主と仰ぐ存在がサタンなのだ。バアル・ゼブルにすら手も足も出ないというのに、その上位にあるのだろうサタンになど、手傷一つつけられるものだろうか。
幸多とバアル・ゼブルの間には、圧倒的な力の差がある。
これを埋めるには、ただ力を付けるだけでは駄目だ。
完全無能者の身体能力を高めるだけでは、如何ともしがたいものがあるのだ。
バアル・ゼブルの空間を操る能力は、極めて凶悪だ。統魔が一つの対処法を見つけたが、それも全ての攻撃に対応できるわけではなかった。
なにより、強大な生命力があり、強力無比な魔力がある。
幸多と闘衣と白式武器だけでは埋めようのない力の差が、そこにはあるのだ。
だからこそ、こうして日々、訓練を行っている。
幸多は、地を蹴り、美由理との間合いを詰めた。
「盾」
美由理が真言を発すると、魔法の盾が幸多の目の前を白く塗り潰した。